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アイリーン・ディクタフォン計画

ロサンゼルスの朝のラッシュアワー。車の洪水、全部走っている。昨夜のサンタ・アナの風にもかからず、スモッグと、排気ガスのかすかなにおい。海岸からの朝霞の断片が、内陸からの暖かい風に吹き払われて、消えつつある。朝のラッシュアワーにはこれがある。フリーウェイの渋滞だ。だが必ずしも馬鹿者どもでそうなるわけではない。たいていのものが、毎朝、同じ時刻に同じルートを車で通り。だから、こつを知っている。出口の斜路を観れば、それはわかる。あわてて車線を変更するような者はいない。車のターンは進入斜路の方でやるらしい。

彼女のきまりきった行動は今ではめったに変化しなかった。フリーウェイに入る前に、五分かけて、コーヒーの最後のカップを飲み干す。そのカップを、J・C・ホイットニーの店で買った小さなラックにしまう。そして、さらに五分間、ヘアーブラシを使う。この頃までには、目も醒めて、何か本当の仕事ができるようになっている。さらに三十分かかって、バーバンクのコリガン鉛管設備社につく。そして、それだけの時間があれば、ディクタフォン(速記用口述録音機)でかなりの仕事がこなせる。これは彼女の運転の改善にも役立っている。ディクタフォンがなければ、小渋滞が起るたびに彼女は緊張し、神経質になり、いらいらしてダッシュボードを叩くだろうから。

「火曜日。水フィルターの件で、コリガンをどやしつけること」自分の声が自分にいった。「部品が足りないのを知らずに、二人の客にあれを取り付けさせてしまった」アイリーンはうなずいた。これはもう処理してある。そして、かんかんになっている客の怒りも鎮めた。あの男は一見、沖仲仕風だったが、あとから、この盆地最大のデベロパーの関係者だとわかったっけ。一品買いの客に見えても、決して粗末にはできないという見本だ。彼女は巻戻しボタンを押して、吹き込んだ。「木曜日。倉庫係に、あの手のフィルターの在庫を、一つ残らずチェックさせること。リード・ナットの不足を見つけること。そして、製造元に手紙を出すこと」彼女はプレイバックを押した。

ラリイ・ニーヴン&ジェリイ・パーネル『悪魔のハンマー』より

上記は、ラリイ・ニーヴン&ジェリイ・パーネルの共著による『悪魔のハンマー』の冒頭近くの一節です。1980年、早川書房。『悪魔のハンマー』は世界終末物の傑作SF超大作だと私は思っています。

しかし、ここで使われているギミック、ディクタフォン(速記用口述録音機)は、別に当時、特別のものではなかったのだと思います。おそらく、ロサンゼルスの朝のラッシュアワーと同様、人々の生活の比較的身近にある、ちょっと気の利いたありふれたものだったのではないかと思います。

小説としての『悪魔のハンマー』は、面白さも抜群ですが、しかし、当時の私は、引用した部分で描かれている彼女(アイリーン)に猛烈に憧れました。

この本を読んだ1980年頃はというと、1979年にウォークマンのような携帯機器が現れた時期とも重なります。私は、いつかこの小説のように、ちょっとしたメモを自分が口述筆記する日が来ることを夢見たのです。もっとも、アメリカ人は機器やデバイスの大きさに拘らないところがありますから、彼女が車での使っていた速記用口述録音機は実際はかなり大きなもので、私が思っていたのとは違っていたかもしれません。

まぁ、そんなこともあって、一時期、ICレコーダーですべてのメモを取っていたことがあります。本屋で面白そうな本があれば書名と著者とISBNコードをその場でつぶやき、ラッシュアワーの通勤途上で何か思いつけばつぶやき、スーパーで買い物をしながら何かを思いつけばつぶやきました。

思い返すと、その行動はかなり奇異な人だったかもしれません。自動車の中でアイリーンが音声メモを取っていたのは、あれはあれで必然だったのかもしれないと、今にして思います。

しかし、とても残念なことに、私のアイリーン・ディクタフォン計画はすぐに挫折してしまいます。せっかくいろいろとメモとして音声を録音しても、その後の書き起こしの手間がかかりすぎて、想像したイメージとはかけ離れていることもすぐに実感できたのです。

かといって当時の音声認識技術、すなわち、私がいろいろとICレコーダーを使って試してみた1990年代は、その後半に製品としてのDragon Naturally Speaking 1.0がリリースされ、英語での音声認識率が劇的に上昇しつつある時期ではありましたが、日本語についてはお世辞にも認識率が高いとはいえず、特定話者・語彙限定であっても少しノイズが高い環境だと誤認識してしまうような状況でした。

しかし、どうやら今、その状況は変わりつつあるようです。音声認識の認識率はここにきて急速に高まっている実感があります。特に短い文章の認識率は完璧ではありませんが相応に上がっているようで、論文などは読んでいない体感でしかありませんが、今こそ、私のアイリーン・ディクタフォン計画を復活させる時が来たのかもしれません。

私のディクタフォン計画における要件は、下記の通りです。

  1.  紙のメモ帳よりも場所と時間の制限が少ないこと

  2.  録音された内容をテキスト化して蓄積するまでの作業が最小であること

要件1における最大のライバルは、セブン・イレブンで買うことができるコクヨOEMのA7のメモ帳です。この紙のメモ帳は価格も適切で、サイズも持ち歩きに適しており、しかも大した邪魔にもならないので、部屋などのあちこちにペンと一緒に予備を置いておくことができます。

https://www.sej.co.jp/products/a/item/751476/

要件2については、様々なデータ・パス(情報の流れ)が考えられますが、私オリエンテッドに、《私の私による私のための》メモですから、《私にとって》作業が最小になることが条件となります。

今月になって、そんな話をしているうちに、現時点での私にとっての最適解がついに見つかったような気がします。それは、Google Keepです。スマホ版Google keepの音声入力は、私の必要性を十二分に満たしているのです。

要件1については、Google Keepのスマホ版でまったく問題がありません。私が一日のうちでスマホから2m以上離れる時間は限りなくゼロに近いからです。ああ、お風呂は除きます。でも、使っているスマホは生活防水ですから、多少の水濡れを私が気にしなければオッケーとなります。

スマホ×Google Keepの良い点は、寝ているときにふと何かを思いついても、灯りをつけてメモ帳とペンを探すことなく、目覚まし時計代わりに置いてある枕元のスマホのGoogle keepを起動して音声入力することが可能だということです。また、スロージョギングの途中であっても、ほんの一瞬立ち止まり、万歩計として使っているスマホのGoogle keepを起動して音声入力してしまえばよいわけです。実にいい。唯一の弱点は音声が途切れると音声メモが勝手に終了するところですが、これは慣れの問題でなんとかなりそうです。

要件2については、スマホのGoogle keepとPCのGoogle keepの同期性がとてもよいので、実作業は単なるコピペです。もちろん、音声認識にまったく誤認識がないとはいいませんが、ほぼほぼ許容範囲です。そもそもメモだから短文で修正の手間も少ないのです。

もちろん、半分眠りながらのメモは読み返す手間すら避けるので、誤認識もあります。たとえばこんな感じ。

海深江の判断 保留することによって実行することができる

実際に入力したかったことは、「感情での判断を保留することによって、実行することができる」だと思います。たぶん。でも問題ありません。

記録したいのはごく短いメモで、翌朝にはPCに移しますし、もしわからなければその程度のことだったのと気にしないで忘れてしまえばよいのです。大事なことであれば、きっと同じようなことはまた考えるでしょう。だから、あまり問題を感じないのです。

メモの使い方という意味では、私は音声メモをタスク入力ではなく、スマートノートでの考え事のきっかけのようなものに使おうとしているので、そのあたりもあまり気にしないですむ理由なのかもしれません。メモはストックする何かであるというよりは、フロー型の何かなのです。

たとえば、こんな感じ。これだけではほとんど意味をなしません。

  • AでありAでないということを繰り返すことにより私は 形成されていく

  • 習慣としてすることは タスクにしない

したがって、私のアイリーン・ディクタフォン計画は、これである程度、完成したようです。あとはこのメモをどう活かすかという話になりますが、それはまた別の話かと思います。

訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。