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歳時記を旅する 15 〔梅雨寒〕

梅雨寒の石の手合はす石仏         土生 重次
                     (昭和五十七年作、『扉』)
 『おくのほそ道』の東北の旅を梅雨前線が追いかけた。
 元禄二年(一六八九年)五月二日(陽暦六月十八日)快晴の朝に福島を出たが、昼より曇り、夕方より雨が降り始め、夜に入ると強くなる。東北地方の南部の平年の梅雨入りは六月十二日ごろなので、梅雨入りはこの日と思われる。訪れた信夫文字摺は、「みちのくのしのぶもぢずりたれゆえにみだれんと思ふ我ならなくに」(『古今和歌集』)と歌われた歌枕の地。その先の道中を歩くと、道端に寛政・天保期の庚申塔や、崩れかけた馬頭観音像を見ることができる。
 句の雨に濡れた石の手には、人を想う体温を感じる。

梅雨寒や金気まじりの煎じ薬        佐野  聰
                      (平成八年作、『春日』)
 その晩、芭蕉一行は飯坂温泉で露天風呂に入り、宿に泊まる。借りた宿は土間に筵を敷いた貧しい家で、雷鳴がして雨がしきりに降って、寝ていると上から雨が漏る。おまけに蚤や蚊に責め立てられて眠れず、持病が悪化して気を失うほどになった、とある。
 芭蕉の持病は、痔と疝気(腹部の疼痛)と言われている。「奥の細道」の旅を終えた翌年の元禄三年四月十日、弟子の如行宛の書簡にも「持病下血などたびたび、秋旅四国・西国もけしからずと、先おもひとヾめ候。」と、四国や西国への旅は健康上の理由から諦めたという記録がある。
 句は、薬缶で煎じた薬を口に含んだら金属の味がした。原因は、薬缶かコップか水道水か、梅雨時の湿気で一段と金気臭がした。
 
梅雨寒や着けば出てゆく乗換便       磯村 光生
                      (平成五年作、『花扇』)
 五月四日(陽暦六月二十日)宮城県名取市の笠島を訪れようとした芭蕉一行だが、連日の雨のせいで道は悪く、疲労困憊して訪問を諦め、「笠嶋はいずこさ月のぬかり道」との句を残す。笠嶋は西行も「朽ちもせぬその名ばかりを留めおきて枯野の薄かたみにぞ見る」と詠んだ歌枕の地。
この後、快晴になるのは、念願の松島へ向けて小船を借りて塩竈を出る五月九日(陽暦六月二十五日)まで一週間ほど待つことになる。
 句は、船か列車か飛行機か、乗り換えの客が乗り終えると、今日は雨なのでここに留まる理由はありません、とばかりに名残もなく引き返して行った。

 (俳句雑誌『風友』令和三年七月号 「風の軌跡―重次俳句の系譜―」)

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