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震災も空襲も区別の無き悲劇だが「自然」と「人為」は区別したい〜三月によせて〜

 昨日は、3月10日で、今日は11日だ。

 あれから「3.11(サンテンイチイチ)」は、普通名詞となりつつあり、僕たちが今日、そして未来を考える起点とでも言うべき日になっている。数千人がまだ行方不明だ。本日をもって何かが終わったわけでも、歴史となったわけでもなく、災害と原発事故のもたらしたものは、もはや多くの人々によって表現されているように、現在進行中だ。

  11年前の、あの日のことを思い出して黙祷を捧げた。

 その背後で、これまで3月の鎮魂の日とされてきた「3月10日」の出来事が、歴史の中に埋められんとしている。77年前の東京大空襲のことだ。

 自分には、戦災の被害を被った肉親がいるから、この3月10日に起こった空襲の記録、それ以外の日本における「非戦闘員」たちの受けた空襲について、これまで少しずつ資料を集め勉強して来た。そして、これは自分のライフワークとしている。

  今年も、大切なことを忘れないように、若い世代の人々に知ってもらうために、備忘録のつもりで、書いておこうと思う。 

講談社の『昭和二万日の全記録』をみると、昭和20年の3月9日には次のような日録がある。
・警視庁は管内隠退蔵物資の実情を調査し不正所有者の一切取締りを行う。
・閣議、学童疎開強化要綱を決定。初等科1、2年と、3年から6年までの残留組の縁故 疎開推進など。

 疎開が強化される前に、たくさんの子供たちが死んでしまったことがわかる。

  空襲警報が鳴ったのは、現在の江東区木場の北部、白河の南部に最初の焼夷弾(普通の爆弾とは異なり、上空で60個もの部分に分かれて、発火弾とガソリンをゼリー状にして詰めてある筒とが、ばらばらに落下して大火災を起こす、市街地焦土化作戦専門の爆弾)が落下して10分以上が経過してからだった。通常は、警戒警報が鳴り、やがて空襲警報が鳴るというふうに、時間差があるのだが、この日は空襲警報が鳴った時にはもう空襲が始まっていたのだ。
 人々が逃げ遅れて、被害が拡大した理由は、「自然の悪戯」と「人為的要因」の両方だ。
 この日の東京は風が強く、夜半から風速10メートル以上の北風が吹き、文字通りこれが「火の海」を作り出してしまった。自然のもたらした不運だった。
  そして、人の作為、不作為によっても、被害はさらに大きくなった。軍の東部管区では警報のずっと前に、房総半島を北上するB-29の大編隊を発見していたが、「御聖上(天皇)が寝入った時間だから、みだりに起してはいけない」という理由で、警戒警報も鳴らすことなく、空襲警報が事実上意味をなさなかったのだ。僕が話を聞いた多くの下町の生存者たちは、「空襲警報が鳴らなかったから、おかしいなと思っていた」と証言している。
 もう一つは、防空法という悪名高い法律の縛りがあって、「空襲になったら逃げずに消火活動をせよ」という圧迫があったから、責任感の強い人たちや町会の指導的立場の人たちは「逃げろ!」ではなく、「逃げるな!非国民!」となって、従順な人たちは皆逃げ遅れて焼け死んでしまった。

 写真は、終戦直後米軍によって撮影された有名な焼け跡の姿だ。中央に流れるのが隅田川で、架かっている橋は新大橋。川向こうが深川側で、手前は浜町・人形町・小伝馬町。橋を渡った直後左折して両国方面に行く道があるが、この道は大石蔵の助が吉良の首をとるのにばかに興奮して歩いた道だ。ご覧の通り、関東大震災の後の復興事業として造られた鉄筋の建物以外は、猛火の下で形をすべて失った。

    僕は、この写真に写っている新大橋のたもとに5年ほど住んでいた。この橋には、たくさんの人が逃げ込んだが、あわてず騒がずここに留まった人々の多くが助かった。大正の大震災の時にもこの橋は多くの人々を救い、「人助け橋」という別名がある。
 下町に住んでいる時、僕に写真作品の指導をしてくれていた地元の牧田さんは、9歳の時ここに逃げて助かった。「あわてて走って逃げたり、一箇所に留まれないで動いちまった奴はみんな焼け死んじゃったよ」と教えてくれた。この師匠が九死に一生を得た橋から、100メートルほど上流で『りんごの唄』を歌った並木路子が、仮死状態で救出されている。僕の住んでいた隣の町内の人が救出した。

  この大空襲で推定10万人の死者が出たが、深川地区だけで約4万人と推定されている。身元が判明した遺体は、深川の場合半数にも満たないそうだ。ということは、僕がかつて毎日歩いていたこの街の土の下には、あの日に炭化してしまった人々が埋もれているということだ。この街で暮らしながら、当時僕は毎日このことを忘れたことが無かった。

  木と紙で出来た、人口の密集する、若い男たちがみんな兵隊にとられて、女子供老人しか残っていなかった、日本橋からは「川向うの連中」と、江戸時代からずっと差別されていた、東京で最も弱い立場にいた人々。彼らに対して、焼き殺すことだけを目的に開発された焼夷弾を、従来の方針を変えて、米軍は超低空で、円の字を描くようにばら撒き、そして火を起こし、逃げ道をなくした後に、その中に十文字にまた空爆をした。そんなことが77年前に確かに行われたのだ。
 戦争に関わるいかなる軽微な政策決定にも、全く関わることが出来なかった数万の人々が殺された。

 77年を経て、夥しい人たちが犠牲になった隅田川にかかる言問橋のたもとでは、新聞報道によれば、昨日も生存者、亡くなった人の肉親や友人たちが、手を合わせた。もうみなさん高齢化している。

 言問橋では、向島から逃げてきた人々と浅草から逃げてきた人々がぶつかり大混乱になり、押し合いへし合いとなった。ものすごい火力のせいで、橋の上にいた人たちはみな「炭化」してしまった。
 生き残った人々の多くが「橋の上に火が真横にサーっと走ったのが見えた」と証言している。その焦熱地獄から逃れようと川に入れば、そこは体の機能を停止させてしまうような凍りつく寒さで、頭が焼け焦げ、同時に寒さと心臓麻痺で無くなった(と推定される)人々が多かったとのことだ。
 川の中に逃げ、生死を彷徨い、ようやく脱出した当時向島に住む旧制中学の学生だった故半藤一利さんは、その時寒さから自分を救ってくれたのは、かがり火のような焚き火で、実はそれは遺体が燃えていたからだったと証言している。

一人ひとりの亡くなった人たちのことを思い、市民団体は昨日、数千人の人の名前を読み上げた。亡くなった人たちの名前は、10万人分あるのだが、東京都はこの名簿の開示を「個人情報の保護」という馬鹿げた理由で拒み続けている。死者を追悼することで、何が保護されないというのか?それでいったい何を守るというのか?強い憤りが湧き上がる。

 自分は、戦争が終わって17年後に生まれたから、空襲を受けた経験はない(ちなみに僕が生まれる二年前に、この空襲の作戦指揮をとったカーティス・ルメイという軍人に昭和天皇は勲章を授けた。理由は「航空自衛隊の発展に寄与したから」だそうだ)。しかし、そんなことは関係が無い。

 僕はどうしても、そのことを「戦争なんだからしかたがなかったのだ」と思えないのだ。小学生のころにこの事実を知って以来40年以上も、どうしてもこの空襲のことをもっと知り、調べ、考えなければならないと思っている。だからライフワークだ。天災ではない。戦争は、人災だからだ。

どうして77年前の三月の夜、3時間あまりで10万人が焼け死んでしまったのか?

 因果とその連鎖、背景や何かの構造、説明に必要なことはたくさんある。
しかし、ここには「いくつもの人為が積み重なって、大惨事となった」ことの一部を示しておきたい。

 そして、このわずかな記述も、止むことなくそのひとつひとつを丁寧にたどり「そして、それはどうしてそうなったのか?」と、問題や原因を追いかけ続ける契機となればと思う。
 ライフワークというのは、そういう意味で使っている言葉である。

  そこを丁寧に考える以外に、今ウクライナで起きていることと、自分の居る地平との結びつきや関係を解きほぐすことはできないと思う。
 

合掌



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