私がいたのは指定避難所ではなかったため、行政からの物資が届くまでに数日の時間を要した。 ただ、OPや在学生、近所の方々が物資を持ち寄り、特段飲食に困ることなく過ごすことができていた。 時に韓国出身の先生がチヂミを、スリランカ出身の先生がカレーを作ってくださった。みんなで囲む食事はそれだけで幸せだった。非日常の中に日常を感じるホッとする時間。 避難者が徐々に自宅や知人宅へ戻っていく中で、県外から美味しい炊き出しをしに来てくださる方々もいらした。 今でも覚えいるのは千葉県から
この避難所生活では私はどうしても夜寝ることに躊躇いがあり、ほとんど昼間に食堂の隅で椅子3脚ほどを並べて仮眠をとっていた。 アドレナリンが出ている関係か最初はショートスリープで避難所生活を過ごすことになる。おそらく2〜3時間程度の睡眠だった記憶がある。 夜中は避難所やその周辺を見守りながら過ごすのがルーティンだった。何より、見晴らしの悪い夜の時間帯に起きておくことが自分の心理的安心にも繋がったのと、他の避難者を守る責任感が無責任に働いていた感覚がある。 また、避難所生活の中
祖父の背中 私が生まれ育ったのは長崎県佐世保市の信号もない小さな町。 町を歩けば通りすがりの人と必ず挨拶を交わすようないわゆる田舎町。 自然が豊かで幼稚園や小学校では田植えをしたり、実家では笹舟を作って川で遊んだり、祖父母の名前を地域の人に伝えるとすぐに家がわかるような小さな小さな町だった。 特に、幼い頃から祖父の名前を伝えると感謝されることが多かった。 「おじいちゃんにはいつもお世話になっとるとよ」とお野菜やお花をもらったこともある。 民生委員を長年していた父方の祖父
2016年4月16日からスタートした避難所生活。 県外に実家のある私がなぜ熊本に残る決断をしたのか。 それはきっと実家に戻ったらやるせない気持ちに苛まれることが容易に想像できたからだ。 一年間過ごしてきた熊本に残って避難所運営しながら生活するほうがよっぽどその時の私は健全だと感じていたからだった。 (しかし、今思えばその安直な決断が震災後の私の心を蝕んでいくとも知らずに) 避難所運営にあたって最初にしたのは必要な物資の運搬や、用途別の区画分け。 一番丈夫だということで、中
2016年4月15日、その日は金曜日。 毎週金曜はサークル活動があり、急遽お休みになった為に今でも曜日を覚えている。 その晩はいつ揺れがあろうともより安全安心を担保する為、入浴する時も一つ下の後輩と行動をともにした。その時唯一寮に残っていた高校生は寮監さんとともに過ごしていた。 そして、就寝は2Fの自室ではなく、1Fのテレビやソファーが置いてある共用スペースに各々布団を運んできて床に着いた。それもスマホとスリッパをすぐ側に置いて。 どうにか眠りについた後、突然の揺れに驚
大学2年生になったばかりのある日、 私は寮の自室でSkype会議の準備をしていた。 テーブルの前に腰掛け、パソコンを開き、 窓を少し開けていたのは未だに覚えている。 そして、次の瞬間、 私は外から身体の大きな人に思い切り窓を叩かれているかのような錯覚に陥った。 これがあの熊本地震 前震の記憶。 横揺れが激しく、無防備にも咄嗟に部屋の外に飛び出してしまった。 当時寮長をしていた私は、建物から出てすぐに他の大学生の点呼をした。と言っても10人もいないのですぐに皆の無事が確認