「明るく死ぬための哲学」読書感想文
名前は知ってた
8年ほど前に、短歌や俳諧を収集する人力botを運営するにあたって、適当にそれらしいbotを大量にフォローした中に、中島義道botがあった
それからしばらくして、有名人についてツイートした時に噛み付いてきた迷惑アカウントとの応酬で「あなたの嫌いなものじゃなくて、好きなものを教えてくださいよ」と返したところ、教えてもらったのがSOFT BALLETと中島義道だった。SOFT BALLETは今でもOPTIMAL PERSONAを聴いてる。
それで気になってたところに「「音漬け社会」と日本文化」を見つけて購入。それももう5年は前の話である。
この中島さんって人はどれだけ人生を悲観しているんだろう、と涙が出た一文があったことを覚えている。その涙は哀れみとかではなくて、ある種のピュアさを貫く生き方に対してだった気がする。本は売ったかなにかで今手元にない。
途中で急に哲学書になる
地元の帯広市図書館で「哲学」の棚をチェックするようになって久しいが、日本人の最近の人のコーナーはその隣にあって、覚えのある名前があったので借りたのが今回の「明るく死ぬための哲学」だった。
第一章はbotや「音漬け社会」と日本文化で見たように、自分の人生を悲観して、自虐と自嘲に満ちたエッセイ的な内容だった。カントの研究者であるということで、その観点からも楽しく読めた。
しかし、第二章から急に難解になる。というか、他の難解な本と同じところまで抽象度が跳ね上がる。ここで、この本を読まなくなる人が大勢いるのではないかとすら思われる(それも意図するところかもしれないとも思う)
著者が一生をかけて抱えているテーマ「わたしの死」について、カントに限らず多くの哲学者の名前を引用しながら、論文のように緻密にロジックを組み立てていく。世界、自我、時間…自分が聞きかじった話がいくつも出てきて、それが一つの仮説に集約されていく。
下手にここで内容を要約して、著者の受ける誤解を増やしてもしょうがないので、その内容に触発された私見を以下にまとめる。
意識は存在の中心を否定することによって立ち上がる
生命個体としての自己、それ自体ではないものとして立ち上がってくる、この私たちの意識は、その「ではないもの」という否定、つまり「であるもの」の不在認定によってこそ、立ち上がってくる。という発想にはかなり衝撃を受けた。
それは、ここに書かれていたことよりなお直接的に「意識とは言語である」とまで言えるのではないかという直観を呼び起こすほどだった。
意識が言語なら、テキストを読むことは意識が起こっているこそそのものということになりそうだし
「わたしがわたしの意識をわたしと呼ぶとき、それはわたしではない。がゆえにわたしの意識である」みたいなことになるし
「贈与は意志に先立つ」の話にもリンクするし
こういうことになる(自分の中では)
明るく退場すること
あるいは怯えることをせずに死ぬこと。自分の場合は、こうして哲学を本職とする人たちの抽象的思考を追うことによって可能になる。
そもそも何度も死んでしまっていて、それに気づいていないだけかもしれない。ただ死に向かっていく過程で、具合が悪かったり痛かったりするのが嫌なだけで、自己の消滅をいまさら恐れる気持ちはない。
なんかテンションあがってきた
というか、それどころではないという感じになってきてしまった。もし言語とはすなわち「この」意識のことだったとしたら、まだそれを誰も言っていないわけで。
いや、ここでいう「言う」とは説得力を帯びた形でという意味なのだけど、あるいは言われていることに自分が気づいてないだけかもしれない(空海あたりが言っていることにも関わっている気もするし)
かつ、それが真理であるかどうか、他人を納得させられるかどうか、とは無関係に、自分の中にポップアップしてしまったアイデアとして、既に効力を発揮してしまっていたら、著者には申し訳ないが、わたしの死にかかわずらってる場合じゃない気がしてならない。
まともに学ぶこともなく、切羽詰まった問いを抱え続けることもできず、何の取り柄もない人間として、それでも(また)ひとつの自家消費用のアイデアを獲得することができたことが嬉しい。これは誰にも理解されなくてもいいし、理解されるのであればそれは構わない。
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