見出し画像

「贈与をめぐる冒険」読書感想文

私と贈与論

商学部卒の自分が、30歳を超えてから「贈与」という分野に興味をもち始めたのは、5年前に読書サークルで開催された「贈与研究所」という週一の読書会がキッカケだ。

たしか当時はまだ大学教員だった伊藤雄馬さん(ゆーさん)がボランティア講師となって、マルセル・モースの「贈与論」を読むという催しに参加したことで、贈与論や贈与というトピックのみならず、まず「古典を読む」ということ自体の驚くべき豊穣を目の当たりにした。

「古典とは、多様な読みを許す書物である」という、今思うとやや破天荒なモットーによって、参加者たちは大いに多様な読みを展開した。

その後、個人的に贈与関連の書籍を、超スローペースで読んで今日に至る

あとは「GIVE&TAKE」や「集まる場所が必要だ」「食客論」も読んで、「贈与と交換の教育学」「呪われた部分」をちょっと読み、「親切の人類史」が積んであり、「負債論」「価値論」を何度も図書館で借りている。

さらに、哲学科の院生でデリダを研究されているべんけーさんが主催してくれた「限定経済から一般経済へ」の読書会にも参加し、これは本当に、自分の人生が変わるくらいの衝撃を受ける内容だった。

購入のきっかけ

先日、ゆーさんが岩野卓司さんという方と対談しているということを知り、たまに贈与関連のツイートをするとイイねしてくれてた人だ!ということで、購入してその録画を視聴した。

そこで議論されていた内容は、ムラブリにまつわるもの、贈与にまつわるもの、自分が知っている話も知らない話もあり、非常に興味深く楽しむことができた。

しかし、その多くのトピックが自分にとって「新たな視点による問題提起」であるように感じたため、これはまず、もっとちゃんと自分で本を読んで知ってなきゃいけないなという思いに駆り立てられてしまった。

(鑑賞後の感想ツイートが「面白かった〜」とあっさりしていたのは、上記の理由で、自分が具体的に言えることって現段階でありえるのか?と悩んでいたためです)

そこから読書ペースを急に上げて、勢いでなぜか贈与とあんまり関係ない本まで買い込んで読むことにした。岩野さんの本も購入。届いた日からメモをつけて一週間で読み切った(自分にとってはすごい早さ)

贈与は意志に先立つ

特に「贈与の系譜学」と「思いがけず利他」にあった内容として、「贈与は意志に先立つ」というテーマがある。贈与しよう(してやろう)と思った時点で、それは厳密な贈与ではない。この発想が結構好きだ。

落語「文七元結」のように、損もするし義理もないのに、なぜかせずにはいられないという状況においてのみ、贈与は成立する。という、かなり尖ったアイデアは「思いがけず利他」でも十分に納得のいく説明がされたものだった。

それなら、一般的な贈与は厳密である必要が無いのではないか?と考えたり、見返りを求める贈与・求めない贈与については議論されているが、そこから見返りがあってもなくてもよいという第三の贈与を区別するべきではないか?と考えたりしていたが、そもそも「なぜ贈与は意志に先立つのか?」という問いを抱くことがなかった。

デリダやバタイユが言うような、ロゴスの外にある理由や因果関係によって、そうなるんだろうな〜くらいで認識がとどまっていた。

「贈与をめぐる冒険」を読むことで、その問いについての答えらしきものを得られたし、それ以外のものも浮かんできたので、以下に、厳密さを欠いた雑多な感想を書き留める。

答えの後に問いがわかる

「贈与をめぐる冒険」では、贈与が今日の資本主義に先立っており、その力が、ゆき過ぎた資本主義による格差と無縁を解きほぐす可能性について語られていた。これは今日における私たちの「意志」そのものが、深く経済性に根ざしているということも意味していると思う。

このとき、意志が経済性に立脚しているならば、経済性に先立つ贈与が、意志にもまた先立つというのも、自然なことであるように感じられるし、社会のいたるところに、経済性に反するような贈与が見られるのも、人間の意志が盤石ではないということに対応しているように見える。

これが「贈与が意志に先立つ=贈与が損得勘定的な理性(ロゴス)に先立つ」ということの根拠になるような気がした。とはいえ、実際にはこうした答えが導き出された後で、自分が抱えていた問いが明らかになったという順番だったりもする。

歴史による立体視

これまで自分は、所有・負債・価値・儀礼という関連トピックを、贈与と同一平面上に並べて、どの項目から勉強しはじめても、いずれは全体を網羅せざるをえないものだろうと考えていた。

しかし、これらの項目が展開される平面と思われた経済空間には、メソポタミア文明以前まで遡る歴史と、それにもとづく平等・公平についての歴史がある。

もし贈与が、その歴史を飛び越えるのであれば、今日の経済という同一平面に対して、歴史を一つのz軸として、上記関連トピックを配置しなおすことができる。

それだけではなく、所有と儀礼は経済空間の歴史をどこかはみだしているし、負債や価値も歴史によって大きく変容し続けていることを、z軸で意識することができる。

(むしろ贈与は、経済性はおろか、互酬性の歴史すら飛び越えているように思えるけど、「互酬」という言葉遣いも含め、ここはあんまり自信ないです…)

ひび割れから這い出るもの

一方で、この本の中で岩野さんが問題提起している点の一つである「資本主義の行き過ぎ」については、ちょっと見える景色が違っている、ということも書き留めておこうと思う。

資本主義に最適化された社会が失ったものを、贈与によって取り戻そうとする「冒険」は、実は望ましくない形で、すでに全員強制参加のかたちで始まっているのではないか?ということである。

ロビン・ダンバー「宗教の起源」に依る発想として、人類は、取り扱う集団の単位を家族、集落、地域、国家、宗教、経済、情報技術、と拡大させてきたとしたら、

いまや、情報技術によって、経済(資本主義)で取り扱うよりも大きな集団が世界全体として意識されるようになってきたことが、経済が担っていた(もちろん不完全な)公平性とモラルを相対化しようとしており、その軋轢が、身近なところにも発生しているのではないかと思われる機会が増えた。

その時、歴史を貫通する贈与のエッセンスが、パラダイムのひび割れから溢れ出る暴力や悪意を緩衝するものとして機能する(コロナ禍でおこったことのように)。このことを知っているかどうかで、既に人々の間に、生きていきやすさの差が生じているように見えてしまう。

とはいえ、このような冒険の強制開始という物語は、ハンマーを持てば何でも釘に見えるような、贈与論が好きな市井の人間の盲目さによるものであることを願う。

終わりに

読書感想文ということで、あとは自分で取り扱いきれなかった話題について列挙して結びとする。

贈与が帯びる権力性や、ギブ&テイクのような後経済的な贈与と、ムラブリ的な前経済的な贈与では、性質が変わるということについて言及しておきたかった

だから対処療法を超えて環境問題に取り組むことは、経済→情報技術から、さらに2段階(つまり伴侶種の取り込みを経由して)拡張された概念においてのみ可能なのではないかという、これは一種の不安。

ちょっと怖い領域に踏み込みそうになってしまったので足を引っ込めた様子

これはまあ、たぶんそうで、それまでの秩序がもつ不平等を解消する新たな秩序は、いつでも新たな不平等をうみだすものだという気がする。

人が困窮から抜け出せる時、そこには必ず贈与がある。とまで言ってしまっていいのかもしれない。

サンタクロースの段についてのメモ。私という自意識が死者と他者によって構成されているのだとしたら、受贈者という性質は主体をすり抜けているのではないか?私の背後にこそ、精神的な贈与の要素の受け手が立っているのではないか?トリックオアトリート


この記事が参加している募集

#読書感想文

188,766件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?