社会の相対化と群れの二極化について

極端になりすぎた資本主義というものが、私たちの生活を歪ませている。

と言ってみて、今それを否定する人は、そういないだろう。資本「主義」はその名の通り、生命や物理のような、社会の絶対的な基盤ではなく、ある時代から起こった、一つの考え方・やり口にすぎないということでもある。

この歪みを、無理のない程度まで和らげるにはどうしたら良いか?ということについての、実験的な活動が今起こっている。

あるいは、そこまでの射程を意識しているわけではないが、なんか、なんとなく、だからこそ言語化できない絶妙な気配を察知し、従来では経済的に成立しえない形で出資を募る活動も増えてきた。

こういった傾向自体は、大変素晴らしいことだ。国家運営体から特別な圧力をかけられるようなこともなく(彼らもまた苦悩する主体であるし、重税は既に圧である)、望ましい社会変革へ向けて、草の根運動が起こることには、とても希望を感じる。

その一方で、個人的に意識しておきたいのは、資本主義のような一つのパラダイムが書き換えられようとする時代において、その社会の前提が、ひび割れた狭間から溢れてくる、悪意と短絡的な暴力である。

資本主義とその前提となる取引形態は、約束された過剰さによる非人間的な最適解をもつものではあるが、その一方で、あまりに強力な思想の類にもれず、劣化したモラル・劣化した倫理を担ってきた。

深くものを考えなくても、商品を盗むことは損であり、人を気軽に殴ることもまた損である。見知らぬ人によくすることも(徳に至らずとも)得であり、朗らかで健康であることも得である。

この発想が、現世の振る舞いが、来世や死後の世界での待遇を決定するという発想や、どんな行いも絶対的監視者に把握されていたり、間違ったことを決して言わないド偉い御方の教えに従うだけで、幸せになれるという発想などに代替あるいは共存していた。

ここで説明もなしに「劣化」と称したのは、モラルも倫理も、社会に必須のものとして、今日にいたるまで厳密な議論が行われ続けている対象ではあるが、人口に膾炙するためには、そのような厳密さを捨てなければいけないという、一種の諦念を実践の場に立った先人たちから引き継ぐものである。

社会をつなぎとめるために、最良ではないが、まあまあ機能していたものが新たになろうとしている時期と、物事の道理をガン無視して、従来の社会ではおかしいとされた発言や行為が正当化されていく時期とが、今こうして一致することは、どうやら偶然ではないように思われる。

話が通じなくて自分たちとは違う人たちを「人間」の枠から下に引きずり降ろして、彼らならどんな暴言を吐かれても罪にならない。盗まれたり殺されたりするならば、こんな気分の良いことはない。そういった短絡的な暴力欲求が「正義」と呼ばれるようになってしばらく経った。

そのような極端な発露だけではなく、どこか底意地の悪いコメントばかりする人、先手を打って相手の意見を「暴力」と呼び、正義を執行せんと罵詈雑言を吐く人、見知らぬ人に礼儀なく自分の意見を送り付ける人、そういった振る舞いが、増えたというより、新しい常識になった。と言ったほうが正確かもしれない。

この暴力のはびこりを踏まえて、もう一度、冒頭の新しい活動群について見ると、そこには暴力に対する防衛の機能を期待する要素があるように思われる。

とりわけ防衛といっても、これは暴力被害の発生に対する防衛というより、自分自身が孤立することで、最終的には暴力による加害によってしか他者とつながることができない存在になることへの防衛でもある。

言いたいことを、一人で言うのではなく、集まった一員として言う。むしろ言葉にするまでもなく、社会から失われた<わたしたち>の連帯感を得られるだけで、じゅうぶん私の自我の拠り所になる。そういうものへの希求が、冒頭にあるような、資本主義経済では考えることのできない「対価なき支払い」へ、多くの人を駆り立てる。

そして支払いができない人々、ここでは金銭的な理由よりは、思想としてできない人々は、もっと安〜く・わかりやす〜く・楽し〜い<わたしたち>に取り込まれていく。

こうしてモラル・倫理感が「主体的に支払うかどうか」で分断されていくことは、社会に生じる格差の中でもかなり奇妙で強烈なことであるし、やはりこれも粘り強い資本主義のに包摂されている事象でもある。

それでどうするのか?考えの違う人達が、比喩でなく殺し合い続けているこの世界で、まずは自分が拠り所を見つけて、それで終わりだろうか?

例えばそこから外へ、話の通じない相手と対話を実現させるなんてことが、できるのだろうか?できるなら、どうしてこんなことになるまで、できなかったのだろうか?

こうした問いは、ある目的地へ急にひとっ飛びしようとする短絡さを含んでいる。世界のことは、私の知っていることであり、私の関わる人達、私の身の回りの人たち、そして私自身と絶えず結びついている。だから自分自身の暴力と倫理について具体的な行為を改めることからしか、始めることができない。

しかし、どうやら私を含め、その事実に耐え続けられる人間はまずいない。そうでなければ社会において劣化したモラルや倫理が台頭することはない。

むしろ、この私達の弱さを許してしまうとするとどうなる?これは都合の悪いことを無視して、これまでの間違った道、資本主義の過剰にさらに加担することになろう。

では、この弱さを否定するでもなく、許すでもなく、耐えて抗おうとする態度は可能だろうか?それはとりもなおさず、私たちの(俺の)限られたリソースを、世界との結びつきから逃れることのできない対話に割き続けるという態度である。

ここで、言葉にすることのできないアクロバティックな判断が必要になる。説明しようとすることで毀損され、行為もまた複数に解釈され、もはや主体によっても制御しきれない、世界と社会と<わたしたち>と、そして自分自身への前のめりの参加が割けられない。

きっと歴史上の人々が、こんな程度のことは既にたくさん言い当てているのだろう。それを知ること、それを自分のこれからの、ひとつひとつの判断に用いること。当面、俺はそういうことをしていこうと思っています。

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