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#52『呼吸入門』齋藤孝

 浅い。
 感想はそれだけで良い気がするのだが、何をもって浅いというのか、明らかにしてみる。
 本書は、呼吸の大切さを説くと共に、日本古来の、呼吸を重視する伝統を紹介しつつ、そこに一定の「型」があることに注目している。例えば正座や胡坐という姿勢は、上虚下実の「型」を成し、深い呼吸を自然ともたらす。
 最近の子供は姿勢が悪い。つまり型がなっていないので、呼吸も浅い、呼吸が浅いから感情の抑制が効かず、集中力が乏しく、知力も低い。現場教育者ならではの視点で、まさしくその通りであろうと思う。
 著者自身、この本が出された時点で20年ほども、呼吸を初めとしたさまざまな身体ワークを学んできたという。その経験を通して獲得した呼吸に対する知見、効用と実践法の解説が、本書の内容なのである。集大成との自負があるようだ。

 だいたい王道的なことを言っているので間違いはない。しかし結局、そこで言っている呼吸は「コントロールした呼吸」であって、私の説く真呼吸とは根本的に違う。別に私と違くたって文句はないんですよ、ただ、まあこんなもんかな、というのが印象である。
 私が呼吸法について謎なのは、多くの人が「呼吸に同調する」という所まで着眼点が及んでいるにもかかわらず、なぜ呼吸をコントロールするという発想を超えられないのだろうかということだ。著者も3吸って、2止めて、15吐くということを具体的に提唱しているけれど、コントロール以外の何でもないでしょう。この呼吸を実践で、つまり会話中とか作業中に出来るかな。出来ないよ。となると、それはあくまでも一人で籠った時間とか、皆と一緒にいるにしても「さあ呼吸しよう」という了解がある時にしか可能にならない。でも呼吸が必要なのは「特定の時間」じゃなくて「いつでも」なんだ。
 勿論、「特定の時間」にみっちり呼吸をするのも良いと思うけれど、その先の発想って、湧かないものだろうか。スケールが小ささを感じる所である。
 後半、「気」について語っている所があるのだけれど、著者は「気」を信用していない。え!そんな奴がいるのか、と私はむしろ驚いてしまった。気を実感できぬまま呼吸をしても、悪いが何の価値もないぞ。それは単に酸素供給量を増やしているだけだ。いや、勿論、酸素供給量が多いのは良いことですよ。でもその程度のことが人間の達成目標?もっと先があるでしょう。もっと先が。
 気を感じるーーというのは、人間の感受性の中でははっきり言って初歩の初歩である。著者は気を何か捉えどころのない、あると言えばあるように思えるし、無視しようと思えば無視しきれる、重要ではない観念、と理解しているようだ(原文にそう書いてある)。
 「気」に対する感受性を復活させた・または失わないままでいる人にとって、気の存在感などは自明であって、これに疑いを挟むようでは…というレベルでしょう。
 私の理解では「気」の先に「霊」がある。気を扱うことは実際、誰にでも出来るし、している。霊という力を使う(というのは厳密には間違いで、霊という力と交流する)のはその先、はるかな先にある段階。人はそこに向かうべき存在。ゆえに気は、人間の目覚めの初歩なのです。

 …などと書きつつ、そんなことを言ってこの世で広く伝わる訳がない。多くの人が留まっているのはもっと初歩の初歩である。姿勢が悪く、口をぽかんと開けて、テレビやスマホを覗き込みつつ、お菓子やご飯を食べている。そういう状況では、まさに本書は『呼吸入門』なのかな、と思うが、はっきり言って、この本が入門書になってしまう状況は嘆かわしいとしか言いようがない。
 まあ、呼吸を説くにしてももっと良書はあるでしょう。#50『集中力』は呼吸にこそ言及していないが、読んでいると自然と呼吸が深まってくる。この本の内容を脳裏に再生させるたびに、呼吸が深まるはず。呼吸というものは、そうやって伝える・伝わるものだと私は思う。

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