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#18『人類の選択』佐藤優

 副題は「ポストコロナを世界史で読み解く」。コロナ問題で明らかになってきた国家の国民の関係の潜在的な問題や限界を、人類の事績から検証する。
 ロックは『統治論二編』とホッブズの『リヴァイアサン』はどちらも国民と国家の関係を述べているけれど、立脚点が違う。ロックは平時を想定しており、ホッブズは非常事態を想定している。
 平時において、国家は国民によって(間接的にだが)運営されることが望ましく、国民はそれを可能にするだけの権限を持つべきである。
 一方、非常事態においては国家は国民の自由を制限する力を発動する。国民生活存続の目的においては、これもまた当然のものとされなければならない。
 言うまでもなく、どちらをも同時的に取ることは出来ない。だからある国はロック型、別のある国はホッブズ型というふうに、現今のコロナ問題に対応してきた。
 完全に一致する訳ではないけれど、もう一つの分類もある。それは「自由」と尊重する国風と、「規律」を尊重する国風である。
 前者の方はイギリス、アメリカなど。後者は中国、韓国、台湾などの儒教国家などが代表として挙げられるが、コロナ対策としては後者の方が有利に働いた(もっとも中国の提示する数字を信じることなど出来ないが、ここではあえて思考の訓練として)。「規律」型の国家にはイスラエルも入る。というのはホロコーストの時、強制収用所でチフスが発生したという記憶が新しい。感染症、疫病の前では全員が一丸となって対応しないといけないと言う警戒心が今に伝えられている。
 そんな中、我が国日本は例によって、「どちらにも当てはまらない」というお馴染みのパターンを描き出している。日本はどういう方法を採ったのだろうか、と考えると「同調圧力」である。同調圧力については勿論、盛んに語られた言葉であるし、承知している。しかしこうして諸外国が類型AかBか、いずれに該当する傾向にあることを踏まえて改めて考えると、「どちらでもない」というのはいよいよ日本らしいなあと思えてくる。

 ただいずれにせよ、非常事態においては〈行政〉が、〈司法〉と〈立法〉を置き去りにして独走し始める。これは世界中で起きている現象のようで、現状への対応に切迫している状況では勿論仕方がない。問題は、その後、行政がこの非常時に獲得した力を手放すか、という問題。これも散々語られたことではあるが、さて、今どうなっているだろうか。

 確かに人々のライフスタイルは変わった。常識が丸ごと変わったと言って良いだろう。分かり易く言えばマスクをいつでもどこでもしている。リモートワークはコロナ前から政府が推奨していたが、民間はなかなか乗ってこなかったらしい。しかしコロナが出てくると一気に加速した。「働き方改革」と標榜し労働環境改善を目標としていたが、あにはからんや逆の効果を挙げているという。

「会社のオフィスでは社員がどのように働いているかが一目瞭然でした。そのため企業は労働者を数値的な成果とは異なる側面から評価することも可能だったのです…しかしリモートワークが一般化していけばそういった評価の物差しは使えないため結果だけが評価対象になるでしょう。つまり数値化されない頑張りは評価の対象から外れてしまうのです」85

 成果主義も、マスクや同様「そうせよ」と言われている内は「いやあ、別に」といなされてしまうのに、リモートワークという環境が整うと、自然と成果主義に移行してしまう。これが恐ろしい所である。
 それに対してどうする、という問いに著者は「身体を介した人間関係の重要性」(86)を解決策として提示する。
 この本は著者の厚みと広がりのある知性による分析や解説をピラミッドの底辺として、最上段に置かれるメッセージが非常に人間的で良い。日本は「自由」型でも「規制」型でもない、ロック型でもホッブズ型でもない、よく分からんやり方でこれまで切り抜けてきているが、その根底にあるのは「まあまあ、難しいことは言わないでここはひとつ」的な発想であると思う。これが悪い方に働くと同調圧力になるが、良い方に働くとこの著者のように「それより私たち一人一人の在り方をもう一度豊かにしてみようよ」という呼びかけになる。
 全体主義的な風潮の中で、「身体を介した人間関係の重要性」に注目することが私たちに自由を呼び戻してくれる、という。

「自分の内なる思い込みや偏見は自分だけで生きていてもなかなか解除できません。立ち止まって考えるためには…他者の対話が欠かせません。
 対話をするには利害損得だけに還元されない直接的な人間関係が必要です。例えば友達に本をプレゼントする、割り勘にせず御馳走し合う、家族と過ごす時間を大切にする。こうした商品経済の論理と異なる人間関係を大事にすることが、一人の個人にとって、国家の論理、行政の論理、資本の論理に支配されないための重要な方法なのです」184

 そう言われて考えてみると、ほとんど本能的にか、私は最近そういうことを積極的にするようになってきた。今までの自分なら「いいでしょ、それはやらなくて。損だし」みたいに思って退けていたことを、「だからこそ」という発想で進んで行うようになってきた。
 両親の顔を身に長野まで車を飛ばしたり、姉の用事で何度も訪問したり、お客さんと食事の席を設けるようにしたり…。当然時代の空気を吸っているから、こんなふうにして自分は自分の浄化や均衡回復をしているんだな、と思ったりした。
 そこから更に進んでもう一つ学びとしたいことがあった。
  

「直接的な人間関係は濃い人間関係だけを指すのではありません。むしろ濃い人間関係では同質性が高いため内輪に閉じてしまう危険性もある。そうならないように、薄い人間関係も同時に築いておくことです」185

 私なんて濃い人間関係しかないので(有難くも)、これは非常に大切なことだなと思った。考えてみたら、これも前から薄々感じ始めていたことなのだった。

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