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映画感想文『大いなる沈黙へ』

はじめに

こんにちは、吉村うにうにです。普段は長編小説や夢の話を投稿しております。今日は、映画『大いなる沈黙へ』の感想文にチャレンジしていきたいと思います。映画感想文を書こうと思った時に、こちらの映画は変わっているから絶対紹介したいと思いました。読んで頂けると嬉しいです。

なお、画像は、映画『大いなる沈黙への』ポスターからの引用で、サイズの都合で一部をトリミングしております。映画.comさんから探しました。

それでは、早速本文に入ります。

ネタバレと言うか、内容説明はあります。ご了承ください。

 映画感想文『大いなる沈黙へ」~~眠くなるには理由がある、沈黙の世界
 
                       吉村うにうに
 グラントシャルトルーズ修道院の内部を初めて撮影したドキュメンタリー映画『大いなる沈黙へ』が上映された時、ノンフィクションものが大好きな私は、喜び勇んで観に行った。何しろ、この修道院は規則が世界一厳しく、外部のカメラが入るのは史上初との事らしい。そんな希少な映像を見逃すわけにはいかなかったのだ。

 ドキュメンタリーはメッセージを持つ。告発であったり、批評であったり、それを観て怒りや興奮を覚えるのがこういったジャンルの楽しみ方だと思っていた。今回の映画は修道院とそこに暮らす世間から隔絶された人々がメインテーマであるので、何らかの衝撃が伝えられるものだと胸が高鳴っていた。

 しかし、上映中の映像は暗くて見づらく、説明もほぼない。そうなると、映像で見せたいものがわからないのだ。これまで見てきた記録映像と比べて違和感だらけで当惑した。

 この映画は、照明禁止、音楽禁止、ナレーションもないという条件で撮影許可が得られている。暗がりの中で祈る修道士の息づかい、時間を惜しんで取る食事の咀嚼音、響き渡る讃美歌、与えられた作務である薪を割る音、こういった音が淡々と流れている。ほとんど口をきかず、ひとつひとつの行いに没頭する彼らの目が、いつの間にか「自分はどうしてここに何もせずにいるのだろう」と問われているような浮遊する感覚になる。

 映画の途中で何度も眠りに陥った。半分は寝ていたと思う。見終えた感想は、『真面目な修道士の生活を垣間見ることという貴重な経験ができた。しかし単調だったので眠かった』ぐらいのものだった。興奮も怒りも感じないし、深い知識が得られるわけでもない。

 しかし、なぜかこの映画が気になった。半分眠ってしまって、眠っている間に面白いイベントがあったのかもしれない。もう一度観れば印象は変わるはず。そう思って、最近、十数年ぶりにDVDを買って鑑賞することができた。

 本編は三時間近くの大作なので、初めからまとめて観るつもりはなかった。毎日布団の中で三十分だけ観よう。照明の無い暗めの映像だから、夜に見ても目が冴えることはないはず。そう思ってDVDのスイッチを入れた。

 なんと、毎日三十分持たなかった。毎日、修道士の学ぶ姿を見ているだけで、畑を耕すシーンだけで意識が飛んだ。映画館で観た時に眠ったのは、その日が睡眠不足だったからだけではなかったのだ。

これは、寝つきが良くなる映画だ。そこに気づいた私は、この静かで会話も音楽もない映像を五分から十分観て寝るという、入院前の儀式に使うことにした。これによって抜群に寝つきが良くなり、今のところ十数回本編を繰り返して観ている。

何度も観ているうちに、ようやくこの映画の価値がわかってきた。それと同時に、なぜ単調で感情を惹起させられないかという理由もわかってきた。この映画は、他の映画と同じ尺度で測ってはいけなかったのだ。

 フィクションでもノンフィクションでも、ストーリーを存在させそれを盛り上げるためには絶対に必要なものがある。『対立の構図』だ。主人公にパワハラをくわえる上司、恋敵、闇の組織の存在、環境汚染をする巨大企業、収容者を人間扱いせずに死に追いやる収容所など、誰かと誰かが争うから目を離せないのだ。それは、敵の存在でなくても構わない。夫がいるのに別の男性を好きになった女性の心の内面、現在の仕事をなげうって夢へチャレンジするべきかという悩みなどでもいいのだ。

 ところが、この映画には『対立の構図』は存在しない。修道院内の二十数名の修道士たちは、真剣に神に救われることを願って黙々と目の前のことに取り組む。そこから出て行くのは自由だし、修道院の性質にそぐわないと判断されれば、追放される。

 全員が同じ目標と生き方を共有する純培養的な環境で暮らす人間の世界なのだ。個々の考え方に小さな相違があったり、個性の違いはあったりしても、キリスト教との距離や宗教への価値の置き方はみんな揃っているらしく見える。そこでは、視聴者をドキドキされるイベントも、憎しみを向けてカタルシスを味わわせてくれる敵役も存在しない。これでは、ストーリーの無い退屈な映画だと思われるだろう。

 この映画の作り手は、ドキュメンタリーとは何かという問いを投げかけていると思う。私は、これまでドキュメンタリーに必要なのは、『作者は存在するが、作為の無い真実性』だと思っていた。しかし、これまでの対立の構図を必ず仕込んできたドキュメンタリー映像に『真実性』はあったのだろうか? と考えさせられた。

 例えば、照明の当て方で物の印象は変わる。話し手の発言内容を切り取り方ひとつでその人に対する評価が正反対に変わることもある。シーンに音楽を挿入することで、視聴者の感情の流れはコントロールされる。ナレーションの入れ方ひとつをとっても、作者の意図が見え隠れしている。そんな印象操作が当たり前のようにされてきたこれまでのドキュメンタリー映像は、本当に『ありのまま』を映してきたのだろうか?

 この映画は、そう言った意味で、真実性を担保しようとやっきになって作った野心的な作品と言える。ありのままを見せて、作品への理解や判断は、観た人が勝手にして下さいといったスタンスであるように思える。それは、観る人がこれまで培ってきた経験と想像力に依存し、物語のストーリーを作成することを放棄しているため、分かりやすさを犠牲にする。きっと何度も観ないと理解できない人が大半なのではないだろうか。

 ストーリー構成の無い、真実の切り取り映像は、観る人から未来への期待感を奪う。つまり、今映し出されている映像に没入させるのだ。これは眠くなる。座禅やマインドフルネスを行っているのと似た状態になるからだ。 

 座禅やマインドフルネスなどの瞑想は、意識の流れを『今、ここ、自分』に繋ぎ止めることを目指している。それは副交感神経優位の状態に導くので、瞑想が上手になればなるほど眠くなる。現在の起きている淡々とした事象を見つめ続けさせるこの作品は、言わば『観る瞑想』と言えるかもしれない。

 最後に、この映画には死を象徴するシーンがある。これは、メッセージ性を排除した監督が例外的に意図して入れたものかもしれない。そのメッセージとは、この世界に足を踏み入れたら死ぬまでそこで修行を続けるということを暗示している。

 もちろん、この修道院を辞めるのは自由だ。つまり、出て行けるのに、死ぬまでそこにいるものが、複数存在していることを示している。

 ここまで、この感想文を読んだ方の中には、『修道院は終身刑の牢獄みたい』だと思った人はいないだろうか? とんでもない。この映画を見て私は、『あなたは本当に私たちより自由に生きているか?』と尋ねられたように思った。

 一見、どこへでも行け、会話も自由で、休みの日はいつまでも寝ている私だが、いつも仕事や家庭の制約に悩まされ、お金がないと嘆き、税金を課する国を恨んでいる。そんな状態で魂は自由に浮遊できているのだろうか? 神のいないこの俗世間で、対立する相手にいつも苛立ちながら生きている、そんな私が修道士たちの生活を真似はできなくとも、大好きな信仰の事だけを考えて生きていける彼らを憧憬の目で見てしまうことが何度もあった。

 彼らは、似たレベルで同じ志を持った集団の中で、迷うことなく、神に近づくことを喜びとして、祈りを捧げている。日常で起きる問題に困ることはあるようだが、全て神の御意志と信じて生きているので苦しんでいない。少なくとも映像の中の修道士たちは、真剣さと充実感を顔に出している。実は、規則だらけの厳しい修道院生活は、穢れの無いとても恵まれた世界ではないだろうか。

最後に

毎日このDVDを観ているので、元が取れたような気がしています。何度も観ていると、観る度に発見があって楽しいです。でもすぐ寝落ちしますが……。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

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