石造りの迷宮 第一話
あらすじ
これは、君に起きた物語。
日雇いバイトで生計を立て、ネットカフェに暮らす君は、夕食を買っていこうと石造りの百貨店の地下へと向かう。
そこは一度入れば出られない迷宮百貨店だった。
やむなくそこに泊まり、翌日から百貨店で働くことになり、次の日も、また次の日も、そこから出られないが、親切な上司、優しい恋人、可愛いペット、何不自由のない生活を味わううちに、外の世界へ出る意義を見出せなくなる。
そしてある日、恋人が失踪したことをきっかけに、百貨店の秘密を知ることになる。
世界を股にかける人がいる一方で、狭い世界の中で生きていく人もいる。閉じ込められていると感じると脱出したくなる。でも、その先は?
第一話
安らぐような音色の音楽が鳴り終えると、人は消えた。君は買えなかった夕食の事を思って唇を噛む。
百貨店の食料品売り場で買って帰ろう。
君は荘厳で年季の入った石造りの建物を前に圧倒される。ビル風が君の頬を撫でてブルっと身を震わせる。その高級感あふれる存在は、薄汚れたパーカーにチノパンツの出で立ちの君には似つかわしくないと思っただろう。
しかし、この日は久々のバイトで日給が一万二千円も入る。紹介サイトを通じて入った仕事で、即時振り込み可の仕事だったから、ATMさえあれば、いつでも金は手元に握られる。そう思ったものの、つやのある木材にガラスを嵌め込んだ重々しい扉に手を掛けた時、もう一つの現実を思い出し君は躊躇う。スマホを宿泊先のネットカフェに置いて仕事に出ているのだ。仕事中はそのことを忘れていたが、自由の身になった今となっては、高い買い物をする前に早くカフェに帰りたい。
結局、君の心を決めたのは、百貨店の開いた扉の隙間から微かに流れ出てくる閉店の音楽。誘うように聞こえてくる。それに、今日は疲れた。金のあるこんな日くらいは、ファーストフードの牛丼などではなく、デパ地下にある有名店のカツ丼や幕の内弁当にしよう。何しろ重い機材を運び、少しでも手を休めると強面の社員から怒鳴られたのだから。念のため、財布に残っている金を心で数える。それはネットカフェの支払いをしてもまだ十分にあるはずだった。
今なら半額に値下げしたおかずがあるかもしれない。大きく開けた扉から中に入る時、ちらと扉の横の石造りの外壁が気になる。少し窪んだ変わった形の装飾は、太古の水飲み場を象ったものだと気づくだろう。だが、閉店の音楽に再び頭を占拠された君は、すぐに玄関を抜け、夜会でしか着ないような豪華な服が並ぶブランドショップの間を走る廊下を歩き、エスカレーターを求める。食料品売り場は地下に決まっている。君は初めて入る百貨店でもただ地下階へ続くエスカレーターか階段を探して早足になる。
ガラスの煌めく装飾品が君の目を刺激する。香水の甘い香りが意識を幻惑する。地下への道の通りすがりにうっかりと手を伸ばし、赤と緑の生地に金の糸で織り込まれたスカーフに触れる。それは羽のように軽やかで泡のように柔らかい。さらに歩き続けると、いくつもの高級ブランド店や婦人服、装飾品売り場のまばゆい商品が君の気を惹こうとしている。大理石のようなつるつると磨き上げられた石の上を歩いていると、場違いなところに居るようでいたたまれなくなってくる。自分はみすぼらしい格好に見えないだろうか? 何週間も洗っていないジャンパーは臭っていないだろうか? そういえば、ガラスケースの向こう側に立つ店員は、君と目を合わせることもなく、どこかよそよそしい印象だ。音楽が鳴り続ける中、オレンジと黒で統一されたブランド店の店員は、紙の台帳をひたすら捲っている。君は、自分の目的を思い出す。キュッキュッとゴム底の靴が作り出す音を響かせ、何度も何度も店の角を曲がり、入り口がどこかわからなくなるほど店の奥に入り込んだ頃、ようやくぽっかりと空いた暗い穴を見つける。周囲の売り場に比べてずっと仄暗いオレンジの照明に照らされた階段が、見えない底へと続いていた。
君は背中に寒気を感じ、ぞわっと身を震わせる。だが、すぐに急ぎ足で地下に足を踏み入れる。階段を降りるにつれ、オレンジ色の照明は薄くなり、足元さえも闇に溶けこんでおぼろげに感じ、茶色の靴が見え辛くなる。それでも遠くから聞こえる閉店の曲に焦りを感じ、足裏の感触を頼りに、タ、タ、タ、とリズムを刻む。階段を下って踊り場らしき所に出ると、折り返し、再び下る。すると、再び踊り場に出る。それは無限に続いて行くように思え、道を間違ったのではないかという疑念に駆られる。踊り場、階段、踊り場……。
長い階段を降りながら、君は一度振り返って一階からどのくらい降りたのか確認しようとする。照明はとっくの昔に足元さえ照らさなくなり、上へ駆け上ることも不安だ。それに閉店の時間は近いはず。そう考えると、今度は手擦りを頼りに再び足を下に向ける。一階から聞こえて遠くなった音楽と同じ曲が、階下の遥か遠くから流れているのを耳で捉える。もう少しだ。あそこが食品売り場に違いない、畜生、階段なんか使わずにエスカレーターを探せばよかった。疲れ切った足の筋肉は歩く度に悲鳴をあげ、心臓は速いリズムで打ち鳴らし、肺はあえぐようにじっとりとした埃っぽい空気を求めて大きく膨らむ。もう少しだ。君は、自分に言い聞かせて更に何度も踊り場と階段の繰り返しを超えて降りて行く。
途方もない時間が経ったように思われた。だが、それもついに終わりを迎える。君は、非常用の鉄でできた厚い扉に遭遇し、そこで立ち止まる。やっと着いた。まだ弁当はあるだろうか? 頬をほころばせながら乱れた息を整える。息を切らせて割引弁当を買うことなど、君のプライドが許さないからだ。防火扉をゆっくりと押し開ける。すると、きっと、まばゆい光に顔をしかめるだろう。微かに聞こえてきた寂しげだが、どこか懐かしい調子の音楽が、今やはっきりと耳に届き、扉から体をフロアに入れると、紅茶の葉の香ばしさが鼻腔を刺激する。目の前にいた買い物袋を提げた中年女性と目が合い、その怪訝そうな顔に、気恥ずかしさをおぼえるだろう。まだフロアには大勢の客がひしめいていた。
紅茶専門店を通り過ぎると、今度はコーヒー豆を挽く焦げた香りが漂う。その奥はチョコレート店と洋菓子パイ屋が通路を挟んでいた。
洋菓子、チーズケーキ専門店、空腹の君は、何を見てもかぶりつきたくなる衝動に駆られる。しかし、本当に欲しているのは夕食で、しかも割り引いてあるものが望ましい。ケーキやクッキーは腹の足しにはなっても食事としては物足りない。それにそういった店はたとえ閉店間際になっても値引きしないことを知っている。
店員も客も活気のない菓子店の一角を過ぎると、人がごった返している。通路を中華料理と韓国料理が挟み、その狭い空間は最後の好機を逃すまいと陳列された品を手に取り、吟味し、戻す人たちの群れが滞留している。その中を少しの隙間ができることを期待し、キムチの臭いに顔をしかめながら、君は人の群れが引くのを待つ。しかし、人々は増えこそすれ、一向に通れるようになる気配がない。
「安いよ。これでおしまいだよ」
「半額! 今から半額!」
通路の両端で叫ぶ店員の声が、閉店の曲に負けない音量で空間に響き渡っている。
曲調は少しずつテンポアップしているような気がする。一瞬、中華でもいいかと、手前の店で買い物を済ませようと思った君だが、ご飯や麺といった腹に満足を与えそうなものが売れてしまったことに絶望する。
妥協してやったのに売り切れか。残ったのはザーサイや袋に入ったスープのみ。やはり奥の和食か洋食に辿りつかなければ。人込みの向こうから、揚げ物の匂いが漂ってくる。君の鼻は素早く方向と距離を捉えようとするが、通路にごった返す客たちのせいで、どちらも測りかねている。しかし、きっとこの向こうにあるはずだ。しかし、コートで膨らんだ羊たちは群れをなして通路を塞ぐ。彼らの汗の臭い。それは脂の臭いと溶け合って店の中の大気を歪ませている。
君は強引に群れを抜けようと考える。曲のテンポは益々速くなり、それに伴って群れの動きは益々ゆっくりで財布を手にする女性は、まるでこの期に及んで支払いを躊躇っているようだ。曲が終わってしまう。これ以上待つわけにはいかない。体を群れにねじ込むようにして前へ進んで行こうとした。群れが左右に避けるだろうという君の予想に反して、彼らは団結し、ピケットラインを作るように固まった。そこで我慢できずに声を発する。
「すみません。向こうに行きたいのでどいて下さい! 通ります」
その声には、微かに反発するような空気が漂っただけで、何の効果もなかった。ねじ込んだ体はあっさりと中華と韓国料理の前で押し戻される。再度強く体を横向にしてはいろうとすると、手前にいた大きな男に体を塞がれ、そのはずみで床に倒れ込み、頭に激しい痛みが走った。
意識が曖昧なものから次第に統合されたイメージを形成していくにつれ、頭を打ちつけた部分の痛みは、君の記憶の焦点を合わせだす。そうだ、ここは百貨店の地下食品売り場で……。痛む頭を片手で押さえながら立ち上がる。
静謐な空間が自らの見当識をまだ不安なままにする。曲が鳴り終えたことに気づき、失望に駆られるが、交渉すればまだ間に合うかもしれない。中華と韓国料理の売り場は、まだそのままだが、通路に人はおらず、今度は誰の妨害も受けずに通り抜けられる。靴音がどこまでも響く。そこで、君はすぐに立ち止まり、客はおろか店員さえも誰一人いなくなっていることに気づくだろう。諦めて帰ろうかと踵を返して非常階段へ戻ろうとする。しかし、コーヒーコーナー付近にある階段に続く扉はいつの間にか施錠されていて、ドアノブを引いてもびくともしない。結局引き返し、やはり中華の前を通り抜けて、閉店前に行くはずだった和食や洋食のコーナーを探す。ハムやソーセージの販売コーナーにある、冷房のボックスに入った売れ残りの肉塊は、電灯の光を浴びてピンク色を帯びている。君はちらとそれに目をやってから、隣の寿司屋に注意を向ける。高価な寿司も、割引になれば手の届く価格になっているだろう。しかも生ものだから必ず売り切りたいはずだ。しかし、冷蔵のショーケースの中は空っぽで「楓」「愁眉」「幻燈」「雪蛍」などといった値札の文字だけが虚しく響いている。
足早に寿司コーナーを去ると、ガラスの障壁の向こうに停止したエスカレーターが見えた。しかし、すぐにその降り口にはシャッターが下りていることに気づく。焦りは益々募り、天井付近に出口へのヒントを求めて目をやると、どうやら近くにあるエスカレーターはここだけのようだ。そのことに気づいた時、背中から汗が滲み出てきて、それを吸ったシャツがべっとりと張りついてきて逃さない。先ほどから聞こえる自分自身の靴音の響きも君を捉えて離さないように思えるだろう。
誰もいない――。あれほどの喧騒が一瞬で消失してしまった。閉店後に店の関係者以外の者が残っていると、警備員が飛んで来そうなものだが、それもない。世界にたった一人で取り残された――。その恐怖の感情は突然愉悦へと変化する。
「あはははは……」
笑ってみたくなる。その声は無機質な白い天井を揺らしたように響くが、残響はやがて減弱して虚となり、元の静寂に戻る。しばらく誰かを待ったが、誰一人駆けつけてくる様子はない。
本当に独りぼっちだ。寂寥が君の肩をそっと撫でる。その時、「チン」というエレベーターの到着した音を耳にする。それは微かな音だが聞き逃さなかった。そうだ、エレベーターだ。この店はきっと閉店すると同時に階段やエスカレーターを閉めてしまい、帰りの客は全てエレベーターに乗るというルールになっているのだ。この奇妙なルールは君が思いついただけのもので、よく考えると馬鹿馬鹿しく思えるものかもしれない。しかし、今はそれに縋りつくしかないのだ。
小さな鈴を鳴らしたような可愛らしい音の方向と距離を、今度は捉えた自信があった。早足で何度も角を曲がりながら、対角線上の音源に向かう。物産展――北海道の鮭弁当やあられ、チョコレート、クッキー、乳製品が所狭しと並べられている――の所で一旦立ち止まる。その上にはエレベーターの表示案内。案内に導かれるようにして足元は段々と早く動く。すぐにエレベーターの開いたドアが見えた。幸か不幸か誰も乗っていない。気遣わなくて済むがルールの確認もできない。そう考えていると、目の端からとんかつ専門店が飛び込んでくる。ガラスケースの前にあるワゴンケースには、かつ丼とお茶のペットボトルがひとつずつ。その手前には「かつ丼五百円 お茶百円」の手書き文字が記載されている。君は、たった一つ残ったかつ丼を見つめる。蓋の向こう側に透けて見えるカツは、卵の黄色と白の入り混じった膜に覆われ、仄かに湯気を立てているようにも見える。蓋の上には「八百円」の文字が二重線で消されている。
逡巡した後、それを買うことを決意する。ワゴンの向こうにはガラス台があり、その上にはレジと小さなベルがついている。君は、人気のないことと音楽が鳴り終えたことで諦念の気分に襲われながらも、「チン」とベルのボタンを押してみる。反応はない。そこで大きな声で「すみません、誰かいませんか? かつ丼下さい!」と呼びかけてみる。それは小さなこだまとなってその向こう側のバックヤードに響くと思われたが、すぐに元の静謐な空気が戻ってきた。
段々と焦りと苛立ちが入り混じったような気持になる。このまま盗んでしまおうか? いや、監視カメラがあるだろうし、それはいけないことだ。君は邪な考えを脇へ追いやると、くしゃくしゃになってポケットに突っ込まれていた古いレシートを取り出すだろう。そこにレジの横に刺してあったボールペンで以下のような文を作る。
「店員がいないので、お金を置いておきます。ワゴンの割引品で、かつ丼とお茶。900円です」
心に澱のようなものは残ったが、これで捕まる心配はなく晩御飯の調達ができたと、安堵の息をつく。監視カメラがあれば、金を払う意思があったことを証明できるし、なければ、かつ丼が蒸発したに過ぎない。かつ丼が本当に蒸発するところを想像してみて、君はふふふと笑う。
かつ丼を両手に持ち、腋にペットボトルを挟んで開いたままのエレベーターへと向かう。君が歩く端から煌々と輝いていた電灯が消えてゆき、不安な気持ちになる。消える灯りに追われるようにエレベーターに乗り込むと、ドアが閉まりガシャンという音が内部に響く。エレベーターは君を床に押し付けながら急上昇し始める。階数ボタンを見ると、五階のランプが点灯している。「おいおい」そう言いながら一階のボタンを押すが、そのランプは点かない。天井近くにある現在位置を示すランプは一階を通過してしまった。本当に五階に行くのか? 五階から外に出られないことを予測できるので、焦りは益々募り、五階に着いたら再度一階を目指そうと考える。
ランプが五階を示し、エレベーターが止まった。開いたドアから見えたのは、革製のソファ、それに備えるようにあるロ―テーブル、柔らかそうな布団を乗せた木製のベッドだった。すぐにインテリアの階だと判断する。フロアの照明は地下一階と違ってまだ点いていた。
君はそこで降りようかどうか迷う。一階へのボタンを押してみるがそれは何度押しても点灯しなかった。そこで階数ボタンの上にある非常用ボタンを押してみることにした。これを押すには勇気が必要だったが、閉店から何分も経って出口に辿り着けないという事実は、充分これを押す理由になる。そう考えた。
強くそれを押してみた。しかし、何の音もせず、相手と通話が繋がったようには思えない。「もしもし」と話しかけて返事を待つが、通話装置が作動しているのかどうかも怪しい。
箱の中で数分――君にとっては途方もなく思えたが――待ってみたが何の応答もなかった。
「非常時に使えなければ、何の意味もない」
吐き捨てるように言うと、インテリアのフロアへと足を踏み入れた。
目の前の暗赤色の高級ダンスが威圧的だと感じた。行燈、囲炉裏と実生活に使わないようなものまで並んでいて、どれも真新しさに相応しい鈍い光を放っていた。それを見ているうちに、電気がまだ点いているのなら、ここに店員が残っているかもという希望が浮かび上がってくる。
君は恥ずかしさを抑えて声を張り上げた。
「すみませーん。誰かいませんか? 店に閉じ込められてしまって。助けて下さい」
その叫びに近いような声はフロアに響き渡るが、すぐに静けさに引き戻される。カツカツと早足でフロアを巡ることにし、丁寧に折り畳まれた今治タオルがワゴンの中に陳列されているコーナーを曲がる。次に、個人別に頭の形を測定して枕をオーダーメイドするエリアを通り抜ける。すると、黒とオレンジのきらびやかな着物が展示されたガラスのショーケースの前に着き、そこで立ち止まってふうと息をつく。
「いいんですか? ここで休んじゃいますよ。あっちのベッドに寝ますよ」
これだけ騒げば誰かが来てくれるだろうと半ば期待して、半ばやけになって言ってみたが、誰も応える様子はない。火災報知器の赤ランプを遠目に見て、いっその事、あれを押してしまおうかと考える。しかし、火災でもないのに虚偽の通報をすることはさすがにできないと思いとどまる。本当に捕まってしまうかもしれないし、巨額の賠償金を課されるかもしれない。心の底からネットカフェに置いてきたスマホが恋しく思われた。
きつい労働の後で、鉛のように重くなった足が言うことを聞かなくなっていた。何周もフロアを歩きまわり、どこか他の階へ行ってみようとエレベーターを呼ぶボタンを押してみたが、君をここまで送り届けたエレベーターは扉を閉じたままで、ボタンは点灯しなくなっていた。
もう動けない、こんな客を閉じ込める百貨店が悪い。自分は悪くない。だからここに泊まってやるか。そして朝一で店員がやって来たら、連中の不手際をなじってやろう。そんな風に考えて、展示用のベッドの上に腰かける。座ると急激に足回りの疲れが取れると共に空腹が権利を主張し出した。
ここで弁当を食べてしまおう。そのうち監視カメラを見た警備員が来るかもしれない。君は、ベッドに靴を脱いで上がり込み、かつ丼の蓋を開ける。
卵とカツと出汁の染み込んだ飯はなんて旨いのだろう。しばし囚われの身であることを忘れ、夢中で箸を口に運ぶ。弁当箱を空にして、ペットボトルの茶をゴクリと飲み干すと、苛立ちは鳴りを潜め、小さな幸福感が君を包み込む。
腹がくちくなると、今度は不安がもたげてきた。朝まで本当にここにいなければならないのだろうか? ネットカフェの料金は一か月分払ってあるが、戻らなくても荷物は片付けられたりしないのだろうか?
そこへ、別の喫緊の不安が君の感情を上書きする。ここで眠ることは可能なのか? 「今夜は雪が降る」とバイト先でリーダー格の男が言っていた。暖房は一晩中ついているのだろうか? 天井を見上げ、エアコンの送風口を見つける。ベッドを降りて、裸足でそこに近づき手をそっと当てる。暖かくて穏やかな風に安堵のため息をつく。
ベッドに戻り眠ろうと考える。だがその前に、もう一度足掻こうと声を張り上げる。
「出られないなら、ここで泊まりますよ。本当にいいんですね?」
やはり応える声はなく、君はいよいよ覚悟を決めた。ネットカフェの人が心配して警察に届けてくれないだろうか? バイト先の人はどうだろう? ネットカフェの店員とは仲良くはなく、バイト先は今日初めて行ったところだ。どちらも可能性が低いことに気づき頭を振る。そして、フロアを再度歩き回り、どこにも電灯のスイッチが見つからないことで明るい中で寝ようと諦めをつけてから、ベッドに横たわる。不思議なことに、君が布団を引っ掴んで被ると同時に、待っていたように電気が一斉に消えた。
それが偶然であるとは思えず、誰かが来るのではないかと、期待と不安の入り混じった気持ちで耳を澄ませる。しかし、その疲労感を押して張り巡らせた注意力は、やがて無駄に消耗しただけと気づくだろう。闇の中で目を開け、被った布団から顔をそっと覗かせてみる。濃いグリーンと白色の非常灯以外何も見えない。物音一つせず、見回りに誰かが来る気配はない。
こうなったら本当にここで眠ってやろう。いや、疲れているから今だけ仮眠を取って。明け方にもう一度出口を探そう。そんな風に考える。再び布団を頭まで被ると、真新しい綿の臭いに安堵感をおぼえる。ネットカフェのフルフラットシートと違って、周囲は壁に囲まれておらず開放感がある。目の前にパソコン用の低いデスクもなく、膝を窮屈に押し込める必要もない。ベッドには柵がないので手足を伸ばしてもどこにもぶつからない。久し振りに広い空間を独り占めして寝られるという贅沢さが――しかも無料で――君を幸福な気分へと連れ込むだろう。そして、疲れに引き摺られ、まぶたが重くなって……
「起きなさいよ! いつまで寝てるの?」
肝っ玉母さんのような、女性の高いが太い声に君はびっくりして目を覚ます。ネットカフェでパソコンデスクの下に膝を入れて寝る時の癖で、膝を机の天板にぶつけないようにそろりと膝を抜いて腹に引きつける。もうすっかり明るくなった周囲に、見慣れぬ形の電灯と中年女性の顔が視界に入ってきた。
「うわっ、すみません。これには已むに已まれぬ事情がありまして……」
君は、目が大きく団子のような丸い鼻をした恰幅の良い女性を見つめる。制服である紺のはち切れそうなベストを、無理にしっかりとボタンを留めている彼女を前に、思わず謝罪を口にしていた。ところが、彼女は君が泊ったことをつゆほども気にせず、眉間に皺を寄せて、時間が遅いことだけを責め立てるように声を発する。
「あなた、売り場の変更を手伝いに来たバイトさんでしょう? スポーツ売り場は六階よ。来るべき人が来てないって言うから、探しに来たのよ」
彼女の言葉に困惑した眼差しを返す。ここに泊ったことを咎めているのではなさそうだ。ツキがあると思う反面、どこかのバイトと勘違いされていることには落ち着かない気持ちになる。この日は午後からイベントの機材搬入のバイトがあるのだ。その前にネットカフェでスマホを取りに戻らないといけない。できればシャワー……。女性の時計をそっと覗くと、九時少し前だった。
「何をグズグズしているの? 早くしなさい」
「いや、僕はその……、ベッドが空いていたので……、ここに閉じ込められて……」
彼女の剣幕の隙間を縫って言葉を発したが、彼女は首を傾げただけだった。
「まだ寝ぼけているのね。十時の開店に間に合わないでしょう! ベッドくらい使っても構わないわよ。布団はきれいに畳んでおいて」
大騒ぎになり、もしかしたら警察沙汰になるかもと構えていた君にとって、ふくよかな彼女の親切心の混じった物言いは、拍子抜けするものだった。きっと従業員もベッドを使っているに違いない。しかし、彼女は誰と間違えているのだろう。
「さあ、行った行った。私もすぐに行くから」
彼女の勢いと、忙しいからと取り合わない姿勢に、考える間もなくベッドから降りる羽目になった。
あれほど、昨夜は探し回って扉を開けられなかった階段が、フロアの片隅にぽっかりと口を開けて待っていた。確か行くべき場所は六階だが、このまま階段を下りれば、百貨店から出てネットカフェに帰れる。君は下向きの段に足を一歩下ろしてみる。その灰色の空気は重く、まとわりつくようで、違和感のような、何かこの下に行くのは間違いのような感覚に捉われて、それ以上下りて行くのを躊躇してしまう。このまま帰ったら、僕がここのバイトを無断欠勤したと……。でも、本当のバイトが来るかもしれないし……。それに無断で泊まって事情も説明せずに帰るというのも……。
フロアよりも薄暗い階段でチカチカと光る白色灯を見つめていると、後ろから焦ったような声が聞こえてきた。
「どこへ行くの? そっちは下よ。売り場は六階よ、いつまで寝ぼけているの」
振り返ると、さっきの女性だった。驚いた君は、小さく「ヒッ」と声をあげ、階段から足を踏み外しそうになる。そこへ女性の手が、君の肘を掴み、力強く引き上げられるだろう。
「もう、危ないでしょう! 階段から落ちたら労働災害よ。それに人手が足りないんだから、怪我でもされたら困るの。大丈夫?」
彼女の言葉の強さとは裏腹に、優しいトーンの口調に思わず「す、すみませんでした」と謝る。この受け答えの流れで、これ以上階段を降りるわけにもいかなくなり、体の向きを変えて階段を昇って行くことにする。
今日の設営バイトどうしよう。昼前にここをこっそり抜けてしまおうかと考えている間に、六階の雑然と物が置かれて、その中をせわしなく動く人の群れに投げ込まれていることに気づく。そこのピリピリした空気に圧倒されてしまい、言葉が出ない。
目の前に気難しそうな顔をした男が、首を動かして周囲を見渡していた。後ろからついてきた女性が
「ほら、フロアマネージャーの那由多さんよ、挨拶しなさい」
と、母親の口調で言いながら君の背中を押した。
遠慮がちに前に一歩踏み出すと、フロアマネージャーという男の、彫の深い皺に囲まれた目は、鋭く君を捉える。
「おはようございます。ところで、君は?」
その質問に、心臓をギュッと握られ、潰されたような苦しさを感じる。ち、違うんです……、僕は……ここに泊まっていただけで。
言葉を口にできないままでいると、後ろから擁護するように、今朝起こしに来た店員が口を開く。
「那由多さん。ほら……バイトの子ですよ。しばらく働いてくれるという」
しばらくの言葉を、慌てて否定しようと思うが、君の頭上で交わされる会話に口を挟むタイミングが悪く、二人の威厳の強さも相成って、何も言えなくなる。
「そう……だったな。ところで、履歴書を預かっているのかね?」
「いえ、この後書いてくれるわよね?」
「おいおい、片桐さん、今日はやることが遅いな。それはもっと早く準備してくれないと。レイアウトの変更だってギリギリなんだから」
「それは、支配人の決定が遅いからですよ。私達の責任ではありませんよ」
那由多という背の高い男は、気まずそうに口をつぐみ、肩をそびやかしてから、君に視線を落とす。
「ところで、君、履歴書は後でいいけど、名前は?」
「れ、礼田です」
そこでフロアマネージャーは初めて笑顔を見せた。
(つづく)
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