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石造りの迷宮 第二話

     第二話


「礼田君が来てくれて嬉しいよ。履歴書は後で出してくれるね? 用紙はこちらで用意するから。それに給料の振込口座を教えてくれないか? え? 即日払いで現金がいい?」
 君は、那由多の優しさに甘えてみようと思った。さっきまでのしかめ面から穏やかな笑みに変化したのを見て、頼めそうな気がしていたのだった。
 ネットカフェの次の月の支払いが迫っていた。人材紹介サイトの仕事なら即日払いだが、今日もし設営バイトに行けなければ、今日の支払いはない。口座に残っているのは昨日振り込まれた分だけで、来月の「家賃」六万円には少し足りない。だから、一か月先まで給料が振り込まれないという事態は避けたかった。
 君の困っている現状をどこまで説明すればいいのかわからなかったが、その事情をそれとなく察したフロアマネージャーは、君の肩をポンと叩いた。
「いいだろう。中には、日払いを望む者もいないわけじゃないから、経理に伝えておくよ。きっと悪いようにはしないはずだ。さ、急ぎなさい。まずは、ここにあるものを新しい売り場に運ぶんだ。運ぶ先は片桐さんが案内してくれる」
 君は、先にピンクと水色のヨガマットらしき布を丸めた物を両腕で抱える片桐の真似をして、二本の束を持ち上げ、彼女の後ろをついて歩くことにする。どうやら新しい売り場は、前の売り場からはフロアを斜めに横切った対角線上にあるらしい。途中、白い発泡スチロールでできた簡易的な看板が多数ぶら下がり、その真下をひとつひとつが赤と白の布で覆われているが、隙間からちゃちなつくりの台を思わせる木製の脚がはみ出ているのを見つける。それを見て、ははあ、ここは物産展だなと見当をつける。その会場を通り過ぎる時に、立て看板を見つけ、やはりそこにも赤と白の布がかけられているのを見た。
「明日から、催事なのよ。ここの搬入は業者がやることになっているけれど、私達も手伝わないといけないのよねえ」
 君の看板への視線に気がついた女性は、そう言ってため息をついた。
 新しいスポーツ用品コーナーらしき場所に、君はドサッとヨガマットを床に置く。しかし、片桐の
「マネキンの前に置いちゃ駄目よ。ほら、後ろのここに積んで」
 という注意に、腰を屈めて慌ててマットを拾う。
 その次はゴルフクラブを持ってくるよう言いつけられ、十数本ものクラブを束ねて両腕に抱えてフロアを再び横切り、それが終わるとバランスボールを持ってくるよう指示された。
 空気を入れていないバランスボールの箱を台車に積み上げると、かなりの重さになった。君はぐいと腕に力を入れて、台車を押し始める。途中にある催事場では、出し物の間の通路が狭く、角を曲がる度に台車の遠心力にコントロールを失いそうになる。それでも、ここで台車をぶつけてしまうことで、働き始めてすぐにクビになるという事態だけは避けようと思い、懸命に足を踏ん張った。フロアマネージャーは案外優しそうだし、片桐という女性はお節介だが、親切そうだ。君は台車を動かす速度を少し緩め、懸命に以前誰かが膨らませたバランスボールの見本が置かれた奥へと大量の商品を運ぶ。
 
 
 売り場が徐々に雑然としたものから、マネキンや振動で脂肪を燃焼させるという機械、ずらりと立てかけられたゴルフセットといったものが揃うにつれて、スポーツ用品コーナーらしくなってきた。まだ忙しそうに立ち働いている者も何人かいて、君も次の仕事を探すことにした。
 その時、背中を軽く叩かれて驚いた。振り向くと、フロアマネージャーが、彫の深い顔を再び気難しそうにして見下ろしていた。
「さっきから見ていたが、足元がフラフラしているじゃないか。朝食は食べたのかね?」
 その時、急激に空腹が感じられて、その場にへたり込んでしまいそうになった。頭も痛くなり、心臓が速く脈打ち、足元が少し震えている。君が首を小さく振ると、那由多は呆れたように顔をしかめた。
「しっかり朝食を摂らないと駄目じゃないか。社会人の基本だよ、君。さ、もう開店の時間だが、大方スポーツ売り場の準備はできた。上へ行って食事を摂ってきなさい。レストランフロアは八階だ。好きな店に入って良い。八階のオープンは十一時からだが、どの店ももう準備に取り掛かっているはずだ。どの店に入っても簡単な食事位は作ってくれるだろう」
 君は、好意に満ちた彼の顔に、眼差しで返事をするが、不安の種も芽が出てきたので、それを口にする。
「あの……でも……お金はどのようにお支払いをしたら」
 昨日のかつ丼で、所持金があまりないのを思い出したのだ。それに、昨日の地下食料品売り場に置いてきたお金が足りているのかどうかも自信がなかった。
「そうか、訳ありなんだな。心配ない、給料から天引きする。それにレストランでの食事は従業員割引で食べられるようになっている。早く行きたまえ」
 彼は心配しているのか、追い立てるような身振りをした。
 
 
 見本のバランスボールに皺が寄っていたのが気になり、傍にあった空気入れを足で踏むと、皺は無くなり、ボールは一回り大きくなった。
「ここはいいから」
 再度、那由多が君に上に行くように告げた時、開店の音楽が鳴った。
 朝に相応しい緩やかなテンポと軽やかで明るい曲調に乗せられて、君以外の従業員はエレベーターの前、エスカレーターの前、通路の角に素早く立って、お客様を出迎えて頭を下げるべく、姿勢を正している。
 エスカレーター前まで行くと、世話を焼いてくれた片桐という女性がにっこりと微笑み「早く行きなさい」と小声で言う。
 昇ってくるエスカレーターにはもう二三のお客の姿が見えていたので、追手から逃れるように慌てて上方階へ向かうエスカレーターに乗る。動くエスカレーターの中をゆっくりと歩き、早く上を目指すことにする。七階では、クレジットカードの受付やペットショップの案内板が見え、エスカレーターの降り口では勘違いした従業員が、「いらっしゃいませ」と一斉に元気よく頭を下げ、君は気恥ずかしい思いを抱えて、さらに上に向かうエスカレーターに乗り換えようとする。
 八階に向かうエスカレーターは止まっていて、目の前にはベルトのパーテーションが立てかけられている。これは、レストランの開店が十一時だからなのだろうと思い、パーテーションをそっとまたぎ、止まっているエスカレーターを一段ずつ昇っていく。動いていないエスカレーターの上を歩くと、今にも動き出しそうで体が宙に浮くような変な感覚が君を襲う。その珍しい違和感に捉われながら大きな段差になっている黒と黄色の階段を踏みしめる。
 八階に到達すると、静寂が再び支配する空気の中に、まばらな照明が仄かなオレンジ色に照らす回廊が現れた。見渡すと、中華らしき模様が象られた格子の高級店、オムライスの模型がずらりと自己主張をするパステルカラーの洋食店、そういったものがあり、店舗を値踏みしながら回廊を一周してみようと決める。和カフェではオープンな造りがコンセプトなのか、テーブルと椅子が簡素な偽の植え込みの向こうに並んでいる。そこを過ぎて角の消火栓を曲がると、突然香ばしい空気が君の鼻腔から入って脳を揺らし、君を立ち止まらせるだろう。看板を見るまでもなく、それは鰻を焼く香りだと気づく。それにしても開店前でもう鰻を焼くなんてどういうわけだろう。来客前の鰻の匂いを不思議に思う。
   
 
もしかして僕のために焼いてくれた? 君はすぐにそれは馬鹿げた考えだと思い、苦笑いを浮かべる。店の表にはまだメニューが出されておらず、したがって本当に鰻丼や鰻重が食べられるのか、その値段はいくら位なのかもわからない。店内の様子を窺おうとしたが、衝立が店先に立ててあって、おいそれとは中が見えないようになっている。その衝立は漆塗りのような黒い輝きを放っていて、黒の背景に見事な枝ぶりの梅が描かれていた。
「おい、食うのか食わねえのか? 迷ってんのか?」
 中から恰幅の良い男が現れて怪訝な顔をする。すると、「す、すみません。いい匂いがしたもので」と男の磊落な感じの押し出しに圧倒され、思わず謝ってしまう。
「いや、怒ってねえけどよ。飯食いに来たんだろう? 見かけない顔だな。バイトか? うちで食っていくか? 鰻は食えるのか? 好きか?」
 君は質問に答えようとするが、鰻屋の主人らしき男の、青と白の着物からはち切れそうな腹、今にも怒り出しそうな頑固そうな顔の迫力を前に、口を開くことができなかった。しかし、黙っていると怒らせるかもしれない。君は一番気になっていることを口にする。
「あの……、鰻って従業員割引で食べられるって那由多さんに訊いたのですが……」
「那由多のところのバイトか? 何も教えてもらってないのかよ。とりあえず、そこに立ってても掃除の邪魔だろうから、こっちへ座れって」
 鰻屋はそう言うと、君を手招きする。値段も訊かないまま店に入るのは嫌だったが、彼がいつ怒り出さないとも限らないので、木目のついたテーブルの一つに座った。
「従業員用のまかないは六百円だよ。鰻重でいいか? お客さんには梅で出してるやつで悪いけどよ」
 梅って一番安いのだっけ? 今の言い方からするとそうだろうな、そう思いながら、いずれにせよ昨日のかつ丼とそう変わらない値段というのが気に入った。あれ? 昨日のかつ丼は800円で半額だったから……。君は昨夜の地下食料品売り場の喧騒とその後の静寂が入り混じった記憶の中に、かつ丼にいくら使ったかが溶けていくのを感じていた。
「じゃあ、それを頂きます。あの……お金は……」
「つけとくんだよ。それも知らないのか? まったく、那由多は気が利かねえな」
 男はお茶をお盆で運んで来ると、白い紙を一緒に目の前に置いて、給料から引くために名前を書いておくように告げた。そして、ご飯は大盛にしてやるからと言うと、カウンターの向こう側へと行き、炊飯器の湯気の中に顔を隠した。
    
 
「ふうん、それで、昨日はデパートに泊まっていったのかい?」
 君は鰻屋の主人を相手に、ここに来た事情をぽつりぽつりと話し始める。ふっくらとした肉厚のウナギはたれが染み込んでいて、君を幸せな気分にさせる。そのせいで、目の前のテーブルの椅子にどっかりと座った主人を相手に、つい口を滑らせてしまう。
「凄いだろ、鹿児島の鰻は。それにうちはちゃんと炭で焼いているんだぞ。そろそろ社員かバイトが来ると思って焼いておいたら、お前さんが来たってわけだ」
 君はご飯が喉を通るのを確認してから、おしぼりで口元を拭いて答える。
「こんな旨いの……というか、鰻食ったの何年かぶりです。本当に六百円なんですか? 鰻って高いと思っていたから」
「ああ、ここの従業員は店の賄いメニューだったら、どこで食っても六百円なんだよ。ほら、うち、社食がねえだろ? それも聞いてないのか……、社食を作ってパートさんを雇うくらいだったら、レストランでここの連中の面倒見てくれって支配人から言われてるんだよ」
 君は、重箱の隅にあった米粒を箸で掻き出しては口に放り込む。その時、主人が思い出したように言った。
「で、礼田君だっけ、バイトと勘違いされちゃったわけね」
 頷くと、男はガハハと豪快な笑い方をした。
「那由多って、仕事ができる風を装っているんだけど、肝心なところが抜けているんだよなあ。あいつは昔からそういうところあるんだよ。俺、あいつと同じ大学でよ。合コンの幹事をあいつがやった時、あいつだけ来ないと思ったら、待ち合わせ場所の居酒屋の隣の蕎麦屋で待ってたんだよ」
「ええ? どうしてですか?」
 君は、気さくな男の話し方に、打ち解けたような気分になる。
「居酒屋も蕎麦屋も木造で、雰囲気が似ていて間違えたんだとよ。言われて見てみりゃそうだけどさ。蕎麦屋は飲み物訊いてこないし、メニュー見たらわかるだろうって思うんだけどよ」
 主人の愉快そうな顔を見て、つられて久し振りに笑ったような気がした。君は、搬入のバイト、皿洗いのバイト、警備のバイト、野球場でのビール売りのバイトと、数多くの単発や短期バイトをしてきたが、個人的な話をされたのは、思い出せる限り、なかった。
 
 ふと、どれくらい休憩していたのかがわからなくなり、周囲を見渡した。しかし、掛け時計が見当たらない。
「どうした? 礼ちゃん」
「いや、そろそろ仕事に戻らないと。もともとお昼休みと言うより、腹空かせてたのを那由多さんが見かねて、食べてくるよう言われただけなんで……」
 男は、お茶を一口啜ると、おしぼりで顔を拭いた。
「いいじゃねえか、少しくらい、スポーツ売り場はほぼ完成したんだろう? そうだ、もうすぐ開店だから、うちで働いて行けよ。な、皿洗いと注文取って料理運ぶくらいできるだろう? 教えてやっから」
      
 
 スポーツ売り場のフロアマネージャーには電話をしておいてやるという男の押しの強さに、君は断れないと思った。上手く言ってくれればいいけれど、六階の仕事が嫌で逃げてきたなどと思われたら、明日から仕事ができなくなる。そんなことを考え、本物のバイトが現れたらどうなるのだろうということはもはや考えなくなっていた。
「おい、那由多君。礼田って今日来たバイトの子、いるだろう? あいつ、今日一日、いや、お昼時だけでも借りていいか? おかみが遅れてくるらしいんだ、頼むよ。あいつ、面白い子だし。そっちが忙しかったら返すからさ」
 君はもうここで働くつもりで、自分が食べたお重の載った膳を持って、カウンターの向こうにある、主人が話をしている電話口の所まで行った。
「福盛です。よろしくな」
 男はこの時だけ改まった調子で右手を差し出し、君はそれを握ると、さっそく言われた通り、シンクにたまっていた重箱やまな板、細い包丁を洗い始めた。
 
 
「礼ちゃん、二卓! ああ、そうか。卓番はそこの紙に書いてあるけど、入り口から順に一卓二卓な、これ頼むわ」
 君は両手にお重や丼の載った膳を持ち、手をぐらぐらさせながら、黒いテーブルに運ぶ。最初はスーツ姿で首からカードをぶら下げた男性や、白いブラウスに紺のベスト姿の女性といった百貨店の従業員らしき人たちがパラパラとやって来た。その中に、はち切れんばかりのベストを着て、背筋を伸ばし、上機嫌な笑みを浮かべて小さな椅子に腰かける女性がいた。今朝君を起こしに来た女性に違いなかった。ええと……名前は確か……、君は彼女とその同僚らしき女性にお盆でお茶を運びながら名前を思い出そうとする。
「礼田君! ここで働いているんだ。那由多マネージャーから聞いたわよ。あなた、レストラン階に午前中配置されたって? 鰻屋なんてツイているわねえ。ここの大将、優しいから。この子よ、五階のベッドで仮眠してた子」
 途中から、彼女は前に座る同僚に紹介するように言ってから、カウンター内にいる福盛に笑いかけた。同時に「頑張りなさいよ」と言いながら、君の背中を叩く。その気さくさに気おくれがして、口を開けたまま何も言えずにいると、主人が口を開いた。
「おい、礼田君ビビっているじゃねえか。それと大将はやめてくれ、寿司屋じゃねえんだから」
「いっそのこと寿司屋にすればよかったのに」
「生ものなんて怖くて触れねえよ。よくあいつら食中毒出さねえよな。うちのは、ちゃんと焼いてあるから平気だけどよ」
 主は、炊飯器の蓋を開けて君を呼ぶ。
「礼田君。この二人のお澄ましとご飯の盛りつけも頼むわ。ご飯は二百グラム、いや大盛にしてやれ」
「ちょっと大将。私たちそんなに食べないわよ」
 片桐が、大食いだと決めつけられていることを不満に思っているように返答した。
「おおい、食べないって。やっぱり少なめで頼むわ」
 君は、大将の顔を一瞥し、お重から一旦入れ過ぎたご飯を炊飯器へ戻そうとする。すると、彼女は
「いや、折角だからやっぱり盛っておいて」
 と言うので、君は再びご飯を盛りなおす。福盛は、やにさがった目で女性二人を見て、「いつも大盛だろうが」と言った。
 十二時を過ぎると、一般客がちらほらと入って来た。君は注文を何度も聞き直しながらメモを取り、大声で主に伝える。
「あいよ」と彼は快活な調子で答えながら、たっぷりと液だれに漬けた鰻の串を、真っ赤に焼いた金網に置く。金網の下では赤く染まった炭が、煌々とした熱と脂を焼く煙を発している。君は、その光景を見るともなく見ているうちに、主の汗まみれの額を袖で拭う動作を真似したくなってくる。
 
 
 思ったより忙しくなかったな。と重箱を泡まみれのスポンジで擦っていると、赤や朱色の華やかな着物姿の女性が店内に入って来た。今時、着物姿は珍しいので、じっと見つめていると、女性は「バイトの子ね」と言って、申し訳なさそうな顔で話しかけてきた。
「おい、遅いって」
 福盛は、やや乱暴な声を発して、休憩がてら座っていたテーブルから立ち上がった。
「ごめんなさいね。ここへ来る途中で、少しフラフラしていたの」
 彼女は、やはりすまなさそうな顔をする。君は、彼女をつい観察してしまう。着物姿で一見ふっくらした体形だと思ったが、よく見ると、首は細く、傾けると筋張っており、かなり痩せているようだ。顔色も見てみると、頬の所にはチークか何かで赤みが差しているが、目の周りの窪んでいる部分は青みがかっている。君は、口に出さずにはいられなくなった。
「あの……失礼ですけど。お体でも悪いんですか?」
 自分の名前を名乗ってから、体の具合を尋ねると、彼女はにっこりと優しげな笑みを見せた。
「何でもないのよ。昔から虚弱体質でねえ。でもあなたが手伝ってくれるって、メールがあったから、安心して遅れて来られたの」
「だったら休んじまえば良かったんだ。来るなら来る、来ないなら休め」
 主は、突き放すようにいった。その口ぶりに冷たい印象を持ち、さっきまでの君に対する態度とは違うことに混乱しかけた。しかし、女性の
「この人、本当は優しいのよ。いつも、私の体の心配をしてくれるの」
 と言う言葉を聞いて、二人の関係性がわかり、腑に落ちる思いだった。
「おい、礼田君に余計な事を言うじゃないよ」
 主は顔を赤らめていた。
「いいじゃないですか、あなた」
 和服の女性はにっこりと笑う。主は椅子から立ち上がると、煙草に火を点けようとした。
「あなた、駄目よ。ここは禁煙よ。吸うなら喫煙コーナーへ行って下さいな」
「わ、わかっているよ。火を点けてからボックスに行こうと思ってたんだ」
 君は店の外の角にある喫煙用の透明なボックスに目をやる。さっきから紙巻煙草の箱をポケットから出したり入れたりして落ち着きがない主も同じ方向を見て、女性に
「くれぐれも礼田君に恥ずかしい話をするなよ。客が来たら知らせてくれ」
 と言って店から出て行った。君は、主が喫煙ボックスで上手そうに煙草を吸う姿を見届けてから女性に言った。
「あの……、福盛さんの奥様なんですよね?」
 彼女はカラカラと笑う。
「そんな奥様なんて上品な者じゃありませんよ。あの人から聞いていなかったのね」
 彼女は、店の外に目をやってから、君を見た。
「あの人、照れ屋だから。私があの人の話をするのが恥ずかしいのよ。昔からそうだったわ」
「優しい人ですよね。僕、まだバイトして少ししか経っていないけど、とてもいい人だと思いました」
「外面はいいのよ、なんてね、嘘よ。家でも、あのまんま。変わらない人だったわ」
 夫人は遠い昔を懐かしむような言い方をしたと思った。君は、もしかしてと思って訊いた。
「今だと、頑固になっちゃった……とかですか? いや、すみません」
 女性はカウンターに置いてあった急須を手にすると、着物の袖が机につかないように注意しながら、湯のみにお茶を入れた。
「さ、どうぞ。いえね、今は一緒に暮らしていないのよ。会えるのは、ここで働いている時だけ」
 彼女は目を閉じて小さく首を振った。離婚したのか? いや……奥さんは旦那のこと嫌いじゃなさそうだし……。初めから結婚していなくて、恋人関係のまま歳をとったとか? まさかあの主人は他に家庭があって……。君は三通りの仮説を立ててみるが、二人が長年連れ添った、優しい女性とちょっと照れ屋の人の良い昭和の男性の夫婦にしか見えず、どの仮説も正しいという気がしない。
「さて、明日の発注でもしようかしらね。あの人の顔色から見て、昼はあまりお客さん来なかったみたいね」
 女性は、やおら立ち上がって腰のあたりをトントンと叩いてレジが置いてある台に行き、レジの下から伝票らしき用紙とペンを取り出した。そして、冷蔵庫を開いて、食材を確認し出した。君は、二人の関係がわからなかったが、そういった事情に立ち入るべきではないと思い直し、何も訊かなかった。
    
 
 伝票を書き上げ、店の入り口に立っていた女性の顔色が、突然変わった。ふと、遠くの方に目を向けていたが、すぐに視線を動かして見ていた方と反対側にある喫煙ボックスを睨んだ。そこには、まだ鰻屋の主がいた。用事があるなら声をかければいいのにと君は思うが、彼女は声を発さず、身振り手振りでひたすら彼に何かのメッセージを送ろうとしていた。主は女性の無言の呼びかけに気づかなかったのか、惜しむように煙草の煙を深く吸い込んでいたが、彼女が最初見つめていた方向を見て、顔色を変え、咳込んだ。そして、慌てて煙草を灰皿に押しつけると、ボックスから飛び出て、早足で店に戻って来た。
 主が急いで来た方向と丁度反対側から、黒いシルクハットのような帽子を被った男がやって来た。店の衝立の前で、二人は鉢合わせになり、主は縮み上がったように肩を丸め、下を向いた。そして、一呼吸おいて顔を上げ、シルクハットの男の方と目を合わせると、
「ああ、これはこれは、川上さん」
 と今気づいたと言わんばかりのわざとらしい演技をしてみせた。女性は、衝立の後ろへと下がって君に近づき、そっと耳打ちした。
「ゼネラルマネージャーの川上さんよ」
 君は、帽子の男が偉い人だということをなんとなく理解はしたが、その聞き慣れない役職名に首を傾げた。
「百貨店の支配人みたいなものよ」
 女性は更に、畏れを表象したように声をひそめる。男は、鼻の下に細く整えられた髭をぴくりと動かし、主の方をじっと見た。
「福盛さん……、でしたね? 煙草を吸っていましたね? 業務時間中に」
 主は、小刻みに首を振り、口を開いた。声は少し震えているように思えた。
「きゅ、休憩時間でした。お昼は、お客様が多くて……」
 すると、男は、奥のテーブルに座っている君の方を見つめ、指を差してきた。
「彼かね? 今日入ったバイトの子は?」
「は、そうです。妻が……、いえ……、おかみが遅れて来るというので。あの……、フロアマネージャーには伝えて……」
「わかっているよ。煙草休憩はほどほどにしたまえ。健康にも悪い」
 シルクハットの支配人は、ゆっくりと店内の備品や通行の妨げになりそうな台車や壁の染みといったものに眼を遣りながら、君の座るテーブルに近づいた。そして、立ち上がろうとする君を手で制し、君とおかみの女性の間に立つと、両手をテーブルの上について、両方の顔を覗き込むようにしてから、話しかけてきた。
「礼田君だね? 聞いているよ、慣れない仕事をよくやっているそうじゃないか。スポーツ売り場は大変だったろう?」
 君は、これまでのバイト経験と比べて、それほど大変だとは思わなかった仕事を褒められることに違和感をおぼえ、皮肉かもしれないと警戒した。
「すみません、こっちで皿洗いや注文取りに行くように言われたので」
 君は、鰻屋の主に視線を向けたが、主はさっきから入り口で支配人の様子をずっと窺い、君の視線に気づかない。その時、おかみが君の斜向かいの椅子をそっと引いたので、支配人は君を見つめたままそっと席についた。
「それも聞いているよ。引っ越し作業から、急にレストラン業務と忙しいね。レストランの経験はあるのかね?」
 その眼は、鰻屋の主人に向けていた非難めいたものではなく、穏やかな優しさを湛えていた。そこで、似たような仕事は短期バイトでならやったことがあると、簡単に告げた。男は困ったような顔をした。
「君ぐらいの若い人は、短期バイトで生活できるのかね? 一人暮らしか? それとも親御さんの所から通ってきているのかね?」
 君は、地方から出て来たことを説明し、口ごもりそうになったが――どうせ履歴書を提出すれば全てバレてしまう話なのだと開き直り――ネットカフェで寝泊まりしていることを早口で喋った。彼は、それに興味を惹かれたのか聞き逃さず、体をぐいと君の方へ乗り出してきた。
「それはいかん。何かで聞いたことがある。ネットカフェを住居代わりにしている若い子がいるというのを。女の子までそうしているらしいじゃないか。そもそも、あんな所で眠れるのかね? 周囲は明るいだろうし、隣の物音も聞こえるのだろう?」
 君は、光や音は慣れればどうってことはないと答える。もっとも快適とはいえませんが、ともつけ加える。男は、大げさに首を振り、うちの従業員がそんな劣悪な場所で休んでいるのを放っておくわけにはいかない、しばらくは五階のインテリアコーナーで泊っていきなさいと熱心な様子で説得し始めた。おかみさんも、支配人の言葉に賛同するように頷き、
「今夜から、そうしなさい。片桐さんにベッドを用意しておくように言ってあげるから」
 と告げた。
 その申し出に、そうしたいのはやまやまだが、ネットカフェには前払いでお金を払っているし、何よりスマホや充電器も置きっぱなしになっているから、今日はどうしても戻らなければならないと言った。本当は今日、機材搬入のバイトもあると言いたかったが、なぜか、それは心の中での比重が次第に軽くなり、どうでもよくなってきたので、口にするのをやめた。
 支配人は、それを聞いて、悩みが晴れたような表情になった。
「なんだ、そんな事か。いいじゃないか、荷物は取って来させるよ。どこのネットカフェかね? 宿泊代も精算できるなら、した方がいい。とにかく、あんな所に居てはいけない。それに、ああいったネットカフェは、あまり清掃もしていないというじゃないか。今、トコジラミっていう恐ろしい虫が流行しているっていうぞ。うちの従業員に被害が出ては一大事だ。それに比べて、うちの五階にある抗菌防ダニベッド……、あれ、サイモンズ社製だったかな? そのベッドなんて清潔で快適だし、うちで泊っていくのが一番だ。そうだろう?」
 男は、女性の方に同意を求めた。彼女はにっこりとしたまま
「ええ、シモンズ社ですけれど……」
 と頷いてみせた。
 ほとぼりが冷めたと思ったのか、鰻屋の主人がいつの間にか支配人の背後に立って、君を注意するように言った。
「そうだぞ、礼田君。支配人のおっしゃるように、五階で寝ればいいんだ。風呂もそこで入れるし」
「ええ? ショールームのお風呂ってお湯が出るんですか?」
 君は思ってもいなかったことに驚き、声が高くなる。
「そうだ、うちの百貨店だけだ。風呂のショールームの場所はわかるな? その一番右のリクシルのコーナーだ。シャワーカーテンに囲まれているからすぐにわかる。ただし、使い終わったら、タオルでバスタブを拭いておくんだ。君が使うバスタオルや浴槽を拭くタオルは、近くに置いてあるはずだ。時々、従業員が使うんでな。使ったら、浴槽の中に入れておいてくれたまえ。そこの売り場の担当者が交換してくれるんだ」
 支配人が真面目腐ったような表情で説明した。君は、他にも従業員がよくショールームの風呂を使うのだろうかと疑問に思い、それを口にした。
「いや、使っても良いとは言ってあるが、あまりおらん。だから、気兼ねなく使ってもらっていいんだ。もっとも、お客様の前でお湯を出して見せることはあるがね。あそこでシャワーヘッドの性能を見てもらうんだ。タオルはその時のためだ」
 君は、サービス精神旺盛な売り場の姿勢に感心して、小さく何度も頷いてみせる。そして、徐々に、ここで泊まっていくのも悪くないと思い始める。何しろお金がかからないだろうから。まさか宿泊代や入浴料などは取られまい。そう決めてかかる。
 その時、「すみません」という女性の声が店の外から聞こえてきた。
     
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