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活字中毒道、まっしぐら

幼い頃に母が絵本を繰り返し読んでくれた影響か、私はいわゆる本の虫というやつだ。
幼稚園に入る前からひらがな・カタカナの読み書きは完璧だったし、近所に住むお姉さんよりも文字を覚えるのが早かったらしい。

小学生になった私は、”朝の10分間読書(通称:朝読)”が何よりも好きだった。でも10分で足りるわけがないから授業の合間の休み時間も返上して、卒業までに「図書室にある本を全部読み尽くしてやる!」と意気込んでいた。
さすがに全部は無理だったが、世界名作や偉人の伝記、ファンタジーなどのシリーズものは随分と読んだ記憶がある。
だがそれも高学年になると物足りなく感じ、その頃には高校生向けの課題図書を読むようなおませちゃんだった。

友達がハマっている漫画も多少は嗜んだが、あっという間に読めてしまうため、暇潰しをするための読書としてはコスパが悪かった。
そのせいでどんどん文字が多い本を求めるようになっていった。
当時のこだわりは、読み応えがある分厚い単行本。内容は二の次だった。
授業ではあまり開くことのない国語や歴史の資料集さえも、隅々まで読んでいた。

怖…狂気の沙汰である。いや、あの頃は純粋に文字を読むことに喜びを見出していたのだ。(と言い換えれば、多少は聞こえがいいか?)

中学に入って孤立した時も、本は私の味方だった。本の世界に逃げ場があったのは救いだ。それこそ重松清さんの本を読んで感化され、人間関係って難しいんだなと実体験と紐づけて学ぶことができた。
反抗もせず授業態度も良い優等生タイプ(自称)だったのもあり、先生からは気に入られていたし、実力以上の評価をいただいていた。”成績泥棒”だったと自負している。
そのお陰で、志望校には面接だけで合格できた。私はまともなお受験を体験したことがない。

打って変わって高校生活は楽しかった。部活に生きていたのもあり、多少読書の時間が減ったかもしれない。

逆に大学は通学に片道2時間半かかったため、本が手放せなかった。下手したら複数冊は持ち歩いていた。スマホは充電が持たないけど、本ならその心配はいらないもんね。重たいけど。

ここで集中的に読むようになったのがミステリー系だ。電車の中で泣いたり笑ったりするわけにもいかないから、おのずと読めるジャンルは限られてくる。

ああ、今から思えば学生時代は恵まれていた。こんなに本を読む時間があったなんて。
社会人になった今は”積読”が増えてしまった。それはそれで幸せなことなのだが。

そんな私が本屋でバイトすることになったのは、まあ必然といえば必然だろう。履歴書の志望動機に「本屋さんの匂いが好きです」と馬鹿正直に書いてしまった私をよく採用したものだなぁと思いつつ、3年半くらい勤めた。

駅直結のショッピングモール内にある書店だったせいでかなり忙しかったが、仕事自体は楽しかった。
基本はサービスコーナーを担当していた。お客様と一緒に本を探したり、注文をして取り寄せたり、出版社さんと仲良くなったり…”本屋さんの窓口”にいると思うと、とても誇らしかった。
(その分厄介なクレーマーの相手をしなければならない可能性も一番高かったわけだが…)

たまに専門書担当をお手伝いすることもあった。専門書とは、いわゆるビジネス系の自己啓発本、株や投資、教育関係、歴史、宗教、精神世界、哲学、医療、理工、建築、資格などの本の総称だ。
それは私にとって、普段は手に取ることのない未知のジャンルの本に触れ合う機会でもあり、品出しをする際に気になったタイトルをこっそり立ち読みするのがマイブームだった。
専門書と謳ってるだけあって、テーマが深く掘り下げられている。どれもこれもぶっ飛んでいるのだ。それがまた面白かった。

理数系の教科なんて、クラスの平均点を著しく下げていた側の人間なのに、”相対性理論がよくわかる”みたいな本を見つけては知りたいと思ったし、興味のある幕末の本には目がないせいで、ホイホイお買い上げしていた。
”世界遺産検定”の問題集や”鉱物図鑑”も好きだった。眺めているだけでわくわくした。
友達にナースがいるため、彼女たちが教科書として使っているであろう医療系の専門書に関しては、その重さにげんなりし、判の大きさがバラバラで本棚に片付けにくいことを嘆いた。
新興宗教のシリーズ本は、私には不可解すぎてもはやホラーだった。信じるのは個人の自由だが、宗教は決して人に強要するものではないということを強く感じた。でも”お坊さんの人生相談”には癒されたし、大ベストセラーの”聖書”を読み比べて翻訳の違いを探したりしていた。(何をやっているんだか)
自己啓発本では、大抵”早寝早起き”と”部屋の掃除”が推奨されていて、なるほど、私が一向に”できるオンナ”にならない理由がつらつらと並べ立てられていた。
今でも本屋へ行くと、必ず専門書コーナーに立ち寄ってしまう。

最近は、ただ文字を追うことだけが生き甲斐だった頃に読んでいた本を読み返している。つまり、児童書だ。
マリー・ビスケットのカスが挟まったまま(私のバカ!)の”ハリー・ポッター”や、開き癖のついた”赤毛のアン”。国際アンデルセン賞を受賞した上橋菜穂子さんの作品。怖くて悲しくて最後まで読めなかった”ああ無情(レミゼラブル)”。その他、早く大人になりたくて背伸びして読んでいた本たち。

そして、同じ本を読んで気づく。歳を食って見えたこともあれば見失ったこともあるということに。でも見失ったことは、その本を読んでいた昔の自分を呼び起こせば、また見つけられる。
さすが名作は大人の心にもちゃんと響くし、新たな気づきを与えてくれる。

読書は、自分の知らない世界を垣間見せてくれるのだ。そしてその世界に生きる登場人物も、境遇は違えど自分と大差ない悩みを抱えていたりする。
(だから一時期私は、大・大・大の苦手なスポーツが題材の青春ものを読み漁ったのだろうし、わからないなりに共感もしたのだろう)
未知の世界を安全圏から覗くというのは、何とも言えない愉悦を覚える。
例えるならば、猛暑日にカンカンに晴れ渡った空と道行く人々を眺めながら、冷房のガンガン効いた部屋で触り心地の良い毛布に包まっているような。
やめられるわけがない。その毛布に包まりながら、私はやがてまた本を読み出す。加えて冷凍庫にアイスが冷えているとなれば、幸せでにやけてしまう。

活字中毒者の活字中毒者による活字中毒者のための最高の休日の過ごし方ぞ、ここにあり!

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