見出し画像

0001 B-side 人形の愉楽

 怪異は常に私にとって思考の始まりである。本日は、『生き人形』によって導かれた思考の軌跡をお見せすることとする。これは『生き人形』のB-sideであり、『生き人形』の余白に記されたものである。


1.はじめに〜人形を怖がる、人形を愛しむ〜

 人形は人に似ている。だがこれは、単にその外見だけを指して言っているのではない。人と異なる似姿をもった人形なら山ほどある。ここでの「似ている」とは、人形が外界との関わりの中で生きるその様のことを言っている。
 ある個人は、決して「現在の私」として産まれ落ちることはない。人はその都度、唐突に与えられた環境の中で、環境から刺激を受け、そこに存在する人や物などから影響を受け、それに応じて自分を立ち上げていくのである。そうして立ち上げられた数々の「人格」の総体が「現在の私」となっている。だから、まず他ならない私がいるのではない。必ず先にあるのは私ではない誰かである。私ではない誰かの手によって、他ならないと錯覚する私が形成されていくのだ。実際は、他あってこその私なのである。私の始原は空っぽに過ぎない。
 人形にも同じことが言える。人形の始原も空っぽである。その後の人形の所有者との関わりの中で、初めて人形に魂(この呼び名が適当かどうかはさておき)が入っていく。人形も唐突に環境の中に投げ出される。そこには丁寧に大切に人形を扱う所有者もいれば、徹底的に痛めつけるだけの所有者もいる。所有者からどのような扱いを受けるかは、元も子もない言い方をすれば、運を天に任せる以外にない。これは子が親を選ぶことができないのと同じだ。それでも、人形は人間以上にその環境に甘んじるしかない。人間と違い、彼らには移動の自由も反抗の自由もないのだから。このことは人間よりも人形の方が、環境からの被影響体験を色濃く反映することを示唆している。私はここで「だから人形を大切にしましょう」などという陳腐な説教をするつもりはない。ただ、愛されようが、憎まれようが、撫でられようが、蹴られようが、人間の発する喜怒哀楽のすべてを受け入れて、なお泰然としてそこに居続ける存在こそが人形であると言いたいだけだ。使い古され、ボロボロになった人形を見たとき、私たちの胸中には実に様々な思いが去来しないだろうか。それは人間に対峙する場合よりもはるかに激しく私たちの感情を揺さぶるはずである。そして、そこから物語が生まれる。あるいは、怪談が。
 このような事情があって、人形は両価性を帯びた存在となる。その価値とは怖さと愛しさである。そして人形を愉しむとは、この両価性をいずれも十全に愉しむことに他ならない。人形を怖がりつつ愛しむ。今回、紹介する作品は両価性を余すことなく堪能できるものとなっている。これらを参照した後に再び『生き人形』に戻るのもよい。そうすればさらに深く『生き人形』を味わうことができるだろう。

2.人形を学ぶ

菊池浩平 『人形メディア学講義』 河出書房新社 2018
https://www.amazon.co.jp/dp/4309921531/

 まずは、人形を学ぼう。しかし、これは退屈なお勉強などでは決してない。
 早稲田大学文学学術院で2年連続面白い講義第1位に選ばれた講義の書籍化である。現時点では最も読みやすく、通読可能な人形論と言ってよい。圧倒的なリーダビリティがある。一口に人形を語ると言っても、その切り口は様々である。身体論的にも、民俗学的にも、美学的にも、いかようにも人形を語ることは可能だが、本書はそのタイトルにもあるように人形を広義のメディアと捉え、多角的に作品の中の人形を検討するスタイルをとっている。読みやすさの一因は、作品選びの巧さにある。『トイ・ストーリー』、『ゴジラ』、『くまのプーさん』、『チャイルド・プレイ『クレヨンしんちゃん』、『それいけ!アンパンマン 命の星のドーリィ』など誰もが一度は目にしたことのある作品を足がかりとしながら、これまでにはなかった視点から、人間と人形の関係をわかりやすく論じている。例えば、人形愛というとどうしても澁澤龍彦を連想してしまうが、本書ではもっと「ささやかな」人形愛が論じられ、これまでの視点を相対化する力を持っている。
 4部構成となっており、各部は関連していながらも、独立したものとして読むことも十分に可能なので、興味を持った箇所を拾い読みするだけでも十分に楽しめる。ホラー好きの私としては、第4部「人形とホラー事始め」をお薦めしたい。『クレヨンしんちゃん』には、伝説のホラー回と称される「殴られうさぎ」というエピソードが存在する。これがなぜ怖いのかについて、映画『チャイルド・プレイ』と比較しながら語られており、非常に興味深く読めた。また、一見ホラーとは無縁に思える『それいけ!アンパンマン』の中の隠されたホラー性が暴かれていくのも面白い(アンパンマンに何かしらの異和を感じる大人は実は少なくないと思うが)。間奏として、プロレスラーのスーパー・ササダンゴ・マシン、そしてリカちゃん人形研究の第1人者である増淵宗一との対談も挟まれている。リカちゃんも怪談並みに奥深い。
 硬派な学術書とは一線を画しながら、知的スリルをしっかりと味わうことのできる1冊である。

3.人形を怖がる

怪談専門誌『幽 vol.25 人形/ヒトカタ』 KADOKAWA 2016年https://www.amazon.co.jp/dp/4041044901/

 何が良いかというと、表紙が良い。そして、冒頭の小説家・皆川博子と人形作家・中川多理の共作『そこは、わたしの人形の』が良い。さらに言えば、山岸良子のロングインタビューも良いし、東雅夫の『百鬼人形師の工房を訪ねて』も良いし、それに続く百鬼ゆめひなのインタビューも良い。絢辻行人と京極夏彦という2大巨頭の語る人形論は文句なく良いし、ダラダラ書くのが疲れるので、以下省略したエッセイ、論考、ブックガイドも良い。つまりすべてが良い。パーフェクトな特集なのである。まあ、『幽』の特集にハズレなどないのだが。
 怪談の本質というと大袈裟に聞こえるかもしれないが、もし、そういうものがあるとして、それを構成する重要な要素の中に人形を入れることにあまり異論はないと思われる。なにせ、ルキアノス(西暦150年頃)の時代からすでに銅像が夜な夜な徘徊しているのだ。怪談と人形の関係は相当に根深いものとみえる。私はこれまで怪談の中の1ジャンルとして人形怪談があるものと思っていたが、真実は全く逆で、人形が怪談を包摂しているのかもしれない。怪談は人形にとっての自己表現の1ジャンルに過ぎないのではないだろうか。いずれにせよ、本書を読むことで、怪談にとっての人形、人形にとっての怪談とは何かということを考えるきっかけになるだろう。ますます人形が怖くなる。それは中毒性のある怖さであり、怖くなって一旦ページを閉じたとしても、必ずやまたページを開きたくなるはずだ。
 私のお薦めは大道晴香の論考『躍動するオシラサマ—ヒトガタという身体について』である。柳田國雄が自邸に迎え入れた民俗神、岡本太郎がその「静」の中に反転された「動」を見て驚嘆した神秘、未だ脚光を浴び続けるこの飛び神をモチーフに、ヒトガタのもつ宗教的機能と「他律」の性格を簡潔に論じている。
 表紙だけでも楽しめる。中川多理の人形に引き込まれそうになること請け合いである。

4.人形を愛しむ

『ユリイカ 2005年5月号 特集 人形愛あるいはI, DOLL』青土社 2005

『現代思想』と対をなす有名雑誌。『現代思想』は徹底的に硬派だが、こちらは尖った特集が多い。時々、狂気すら感じさせる偏愛的な特集が組まれる。2005年のこの特集もそう。編集部によれば、人形趣味が一部の幻想文学マニアのものからポピュラーなものへと変貌しつつある事態を受けての特集という。2005年周辺がどんな時代だったかというと、金原ひとみの衝撃作『蛇にピアス』が脚光を浴び、押井守『イノセンス』が公開され世界的に話題になっていたような時代だった。これもまた、あまりにも尖りまくった雑誌『ドール・フォーラム・ジャパン』もこの頃にはまだあった。ちなみに『ドール・フォーラム・ジャパン』44号の表紙はオシラサマである。確かに、人形が一部の人間の特異な趣味では無くなってきつつある時代だった。
 頭脳明晰な批評家たちが、豊富な、しかも難解な語彙を振り回しながら語る人形愛ほど困ったものはない。正直半分くらい何を言っているかわからないが、それでも私の脳髄を締め上げ、甘美な陶酔の叫びをあげさせるには十分である。私は自分の手に負えないものを読むのが大好きなのだ。彼らは批評家なので、当然批評対象からは一定の距離をとって冷静に論じているのだが、それでも、そこかしこから人形愛が漏れ出てくるのがわかる。私くらい語彙が貧困であれば、「好きだ」とか「すげえ」とか、たった一語で終わらせる感想を彼らは数ページに渡ってふんだんに語りまくることができる。これらを読み込むことで、人形を愛でるための、新しい語彙を手に入れよう。私も何食わぬ顔で、「肉体のアルファベットの全体は脳髄の中で常時戦闘準備態勢にあり、肢部を切断した時でさえそうなのだ」(ベルメール)などと言えるようになりたいものだ。
 お薦めは『人形作家列伝』。恋月姫、吉田良、三浦悦子、与偶、堀佳子、井桁裕子、紅樹時雨、清水真理、秋山まほこ、佐藤美穂、陽月、小畑すみれといった名だたる人形作家たちの作品写真を拝むことができる眼福の解説集となっている。文章を読むのが嫌という方でも作品写真を見るだけで、人形を愛する気持ちが理解できるようになるだろう。

5.おまけ〜人形の愉楽のその後に〜

加藤一編著『恐怖箱 怪玩』竹書房 2020
https://www.amazon.co.jp/dp/4801922945/

 そろそろ人形を味わい尽くして舌も疲れてきたことだろう。デザート代わりにはこれ。安定・安心の竹書房怪談文庫である。恐怖箱テーマアンソロジーの中でもおもちゃ=玩具にまつわる怪談ばかりが集められた興味深い怪談集である。
 人形に限らず、長年使い古された玩具には魂が宿る。いわゆる付喪神である。しかし、『つくもがみ貸します』くらい可愛いものなら良いが、ここに集められた怪異の数々はそんな生やさしいものではない。笑えるのは加藤一「玩具怪談」くらいのもので、他の怪談は全て後味が悪く、考えれば考えるほど尾を引く怖さがある。
 どれも一癖も二癖もある怪談ばかりで、甲乙つけ難いのだが、個人的なお気に入りをいくつか挙げておくと、雨宮淳司「人形の話」。人形に対する歪んだ感情は臓腑に響くような怖さがある。人怖系かと思いきや怪異は最後に意外な形で訪れる。洒落た話だ。つくね乱蔵「くまさんのぬいぐるみ」。ぬいぐるみには全く罪はない……のだと思いたい。末代まで続くと思われる狂気の連鎖に震えない人間は果たしているだろうか。極めつけは久田樹生「小さき手−−−奇譚ルポルタージュ」。語り手はやはり怪異に魅入られていたのだろう。もしかすると今でさえも。だが、ここには怪異とは別の怖さもある。昨今の社会的事情を大きく反映した内容には、同情の念を禁じ得ない。けれども、そう思うこと自体が偽善なのではないのか、と自問自答を促される怪談でもある。これが最後にあるというのが構成の妙である。実に複雑な感情が胸の中に渦巻いたまま読者は再び現実世界に投げ出されることとなる。これは最高の褒め言葉であるが、この上なく性質が悪い。


 以上、B-sideでした。0002 A-sideへ行く前に、次回は間奏として、私のもつ数少ない実話怪談のひとつ「人形とおばあちゃん」を披露します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?