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0002 A-side 恐怖の心霊写真集

1.心霊写真事始

 心霊写真——霊、エクトプラズム、神仏などが映り込んだ写真、またはそこにあったはずのものが欠損してしまったり、増えてしまったりする(例えば、足がない、指が6本あるなど)写真を指して言う。現代では、意図せずして撮影される場合がほとんどだが、初期にはむしろ写そうという強い意図のもとに撮られていた。
 中には、あまりに滑稽すぎて、笑ってしまうほど明確な偽物もある。一方で、素人目には本物としか思われないものも確かに存在している。きっと、プロの写真家に言わせれば、人為的に作成可能なものばかりなのだろうが、私としては正真正銘の本物と信じておきたい。だが、真偽などは取るに足らないことである。ここで重要なのは、心霊写真の背後にどのような物語が存在しているかということだ。心霊写真は必ずその語り手を必要とする。ただし、語り手が撮影者であるとは限らない。むしろ、その語り手たちは基本的には撮影者とは全く異なる人物だ。彼らは心霊研究家と称される。70〜80年代には、心霊写真を心霊研究家=鑑定家に送って、その真偽の判定をしてもらい、真と見做された場合には、その背景にある物語を語ってもらうという営みが流行していた。この研究家たちは相当な目利きでもあり、しばしば依頼主が気づいていない場所にも別の顔を見つけることができた。それは研究家の能力を証明すると同時に、写真の真正性を保証する意味もあった。同時に、彼らは治療者としての役割を果たしてもいた。日常に侵食する恐怖に意味を与え、時には、どう対応すべきかの示唆を与えることで、撮影者が再び穏やかな日常を取り戻す手助けになっていたのである。心霊研究家と心霊写真は不可分の関係にある。心霊研究家を抜きにして、心霊写真を語ることはできない。
 このような研究家として著名な人物に、宜保愛子、池田貴族、下ヨシ子、新倉イワオなどがおり、彼らを一人一人語ることには大きな意味があると思われるが、心霊研究家の先駆けとして、まずは、中岡俊哉を取り上げないわけにはいかない(奇しくも最近「ダークサイドミステリー」でも取り上げられた)。70〜80年代に幼少〜青年期を過ごした世代にとって、心霊写真と中岡俊哉はほぼ同義語として機能していたと言っても過言ではない。著者の名前を意識せずに、心霊写真を眺めていた者もたくさんいるだろうが、中岡俊哉の鑑定した心霊写真を今一度見れば、幼少期の心的外傷となった写真が必ず見つかるはずだ。しかも、中岡の活躍は心霊写真だけにとどまらない。何せ著作は400冊以上もある。彼の活動はオカルトの全分野を網羅しており、その著作を通じて日本人の持つ心霊観そのものを形作った。
 そんな氏の著作のひとつに心霊写真本のバイブルとして名高い『恐怖の心霊写真集』がある。バイブルは必ず読まれなければならない。キリストの教えを知らずして、キリスト者たることが不可能であるように、『恐怖の心霊写真集』を読まずして、心霊写真の何たるかを知ることはできないのだ。
 かくして心霊写真が始まる。

2.中岡俊哉とは誰か

 先に断っておくが、中岡俊哉はインチキ霊感商法やヤラセ心霊番組の首謀者などでは決してない。彼は科学的に心霊現象を捉えることに余念がなく、そういった現象がエンターテインメントショー的に取り上げられるのを心から嫌悪していた人物である。彼の書き記した膨大な著作群もそのことを証明している。単に金儲けのためというだけで、あれほどの量を物すことはできない(最高記録は年間26冊出版!)。その著作群は心霊が正しく科学として研究されるよう、日本社会全体を啓蒙するという強い動機に牽引されてできたものである。どこまでも真摯に彼は心霊現象と向き合い続けた。
 中岡俊哉、本名は岡本俊雄、中国での名は東峰輝。妾腹の子として千葉に出生した幼少期は決して裕福なものではなかった。思春期になると満州で馬賊になるという突拍子もない志を持つようになる。単独で満州に渡った彼は戦争に翻弄される青年時代を送った。敗戦後も日本に帰ることは叶わず、八路軍の一員として、死と隣り合わせの生活を余儀なくされたが、ここで体験した3度の臨死体験が、中岡のその後の生き方を決定づけたことは異論をまたないだろう。ようやく日本に帰れたのは戦後14年経って後のことだった。
 中国時代に溜め込んだ現地の怪談・奇談の蒐集が、少年・少女漫画で大当たりし、売れっ子ライターとしての地位を確立する。その後、彼の興味は次第に日本の怪奇ネタへと移り変わり、日本中を飛び回って取材を続けた。今では誰もが知る鉄板のオカルトネタ、「髪の伸びるお菊人形」、「恐山」、「青森県のキリストの墓」、「座敷わらしの出る旅館」、「出羽三山のミイラ」、「平将門の首塚」、「来迎寺の幽霊の足跡」などをいち早く紹介したのは他ならぬ中岡俊哉である。心霊研究のためなら、どんなに遠い場所にも足を運ぶことを辞さなかった。まだ海外旅行が全く一般的でなかった頃、すでにブラジルに心霊医療の視察に赴いている。私財を投げ打ってでも取材を完遂するほどの豪胆な人物であり、ベストセラーでかなりの印税を得ていたが、晩年には財産はほとんど残らなかったそうである。
 時代の波も彼に大きく味方した。娯楽の軸足が雑誌・ラジオからTV放送へと移りゆく中、彼の持つ膨大なオカルト知識とそこから生み出される企画は、局側の視聴率獲得の思惑と相俟って、一つの王道ジャンルとしての「オカルト特集」を形成していった。中岡俊哉を見ない日はないという時代が実際にあったのである。彼は様々なブームの火付け役であった。もちろん、これは中岡が意図して行ったわけではないことは強調しておかねばならない。意図したのはマスコミであって、中岡ではない。ここで、その全てを詳細に語る余裕はないが、簡単に列挙すると、「スプーン曲げ」、「コックリさん」、「心霊写真」、「超能力による犯罪捜査」、「ハンドパワー」、「死後の世界」などがある。今でこそ、耳慣れた感じのする言葉ばかりに聞こえるかもしれないが、これらの造語全てを一般社会に浸透させたのは中岡である。いかに彼が他の心霊研究家とは一線を画す存在であるかがわかるだろう。
 写真やTVで喋る姿を見たことがある人はわかるだろうが、一見すると怖いおじさんである。人相が厳ついうえに、低音ボイスで喋る。ちょっとしたことで怒り出しそうな雰囲気も持っている。もちろんそういった側面もあったのには違いないが、基本的には柔和で、愛くるしく、若い人の意見にも素直に耳を貸す、広い心を持った人物だったという。だが、研究に関しては徹底的に厳しい人であった。彼の座右の銘は「七疑三信」であり、研究の絶対条件は「実見至上主義」であった。彼は実際に自分の目で見た現象しか信じなかったし、見たとしても、一度目にした程度では決して信じなかった。心霊を科学的に捉える以上は、再現性がないものは評価に値しないというスタンスだったのである。だから、彼のお眼鏡にかなう人物は驚くほど少なかった。おそらく1000人は下らない「自称能力者」と出会ってきたはずだが、「本物は18人」とマスコミの取材で答えている(ただし、彼らは一人として表に出てきたことはないらしい)。その代わり、一度認めた者を決して疑うことはなかった。だから、マスコミが一転してオカルト批判に転じた時でさえ、彼が宗旨替えをすることはなかったし、生涯にわたり冷静に一貫して同じ姿勢を保ち続けた。また、中岡を諸悪の根源と見做すような記事を書いた雑誌社の取材にも快く応じるという懐の深さがあった。
 惜しむらくは、西洋医学的治療をよしとしなかったことである。もう少し生きていたら一体どんな新しい話題を提供してくれたことだろう。彼の研究成果は、遺志を尊重し、著作群以外全て破棄されてしまった。だから、著作群と少しの映像以外に研究成果はもう残されていない。ここには心霊科学者としての彼の矜持が表れているように思えてならない。
2001年9月24日永眠。世界貿易センターの悲劇が起きた頃には、ほとんど昏睡状態で、最後の日は家族に見守られて静かに息を引き取った。
中岡俊哉、又の名を、偉大なるオカルトの父という。

ちなみに、中岡俊哉の生涯については、次の書物に詳しい。心霊史に興味のある方は一読をお薦めする。岡本俊雄はいかにして中岡俊哉となったのか。その詳細が記されている。実子である岡本和明氏が著者の一人である。
岡本和明 辻本真理『コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生』新潮社 2017

3.恐怖の心霊写真集

中岡俊哉 『恐怖の心霊写真集 』二見書房 1974

 「日本、初の怪奇異色写真集」と銘打たれている。何て大袈裟な、と思ったのであれば、それはこの書物をあまりに過小評価していると言わざるを得ない。これでも十分に謙遜された表現である。なぜなら心霊写真集というジャンル自体が「日本初」どころか「世界初」だったのだ。当然のことながら本書は大ベストセラーとなった。
 本書の構成は、巻頭と巻末に解説があり、各章は中岡が真と判定した心霊写真の提示とそれに続く実話怪談からなる。巻頭・巻末の解説では、ふんだんに心霊用語が用いられてはいるが、中岡の心霊に対するスタンスは徹底して科学的である。「神秘のベールを科学で取り除こう」とまで明言している。だから、中岡にとっては、心霊現象一般は特に恐れるものではない。そのことは次の言葉に端的に表されている。

そもそも、どうして霊魂を恐ろしいもの、不吉なもの、不気味なものとして扱わなければならないのだろうか。私は、自分が殺した、死に追いやった霊魂以外は、なんら恐ろしいものではないと考えている。それ以外の霊魂には怨念はないと信じている。
中岡俊哉『恐怖の心霊写真集』二見書房 1974

  中岡にとって心霊写真とは純粋な科学的観察対象に過ぎない。怖いとか不気味だとかいう以前に、冷静に真偽を見極めるための観察眼が必要とされるのだ。心霊写真鑑定の大きなポイントを中岡は次のように記している。読者諸氏はぜひ参考にされたい。

もう一つは、鑑定どころのヒントになると思うが、どんな心霊写真でも、その霊体に目がはっきりついていることがもっとも大切で、裸体のものにはヘソがきっとあるということである。
中岡俊哉『恐怖の心霊写真集』二見書房 1974

 ヘソという観点は非常に新しい(ひょっとすると現代においてさえも)。

 興味深い心霊写真が目白押しである。白黒写真なので、見づらい部分もあるが、かなり鮮明に顔が写っているものが多く、白黒であることが余計恐怖に拍車をかける。私はしかし、くっきりと映る顔よりも、エクトプラズムの映る写真を好む。エクトプラズムとは、Wikipediaによれば、「霊の姿を物質化、視覚化させたりする際に関与するとされる半物質、または、ある種のエネルギー状態のもの」を指す。文字だけでは、分かりにくだろうからWikipediaにも載っている有名な写真を紹介しておこう。ヘレン・ダンカンの体内から生じたエクトプラズムの写真である。

Wikipedia エクトプラズムより

 ……まさか、笑っていないだろうか。まあ、この写真の真偽は置いておくとして、エクトプラズムとはこのようなものであると分かってもらえればよい。本書の中にも貴重なエクトプラズムの写真が掲載されており、中でも、特に珍しいのは象の周囲に漂うもので、中岡によれば死産した象の霊体が写っているという。また、驚くべきことに中岡はエクトプラズムに触ったこともあるのだ。その手触りは、

ちょうど綿アメとマシュマロをミックスしたようなもので、体温と同じぐらいの暖かさがあり、つねると霊媒が痛さを表す反応を示した。
中岡俊哉『恐怖の心霊写真集』二見書房 1974

 とある。
 心霊写真を撮影するという行為について賛否両論はあるだろうが、中岡にとってのそれは純粋な科学的営為であるため、積極的に推奨している。心霊写真だけに限らず、中岡に言わせれば、心霊現象とはすなわち、万人にとって避けることのできない、死について想うことなのである。そこに科学のメスを入れたい、という強い欲求が中岡を動かしている。この視点をきちんと理解しておかねば、私たちは中岡の営みの真意を曲解してしまうことになりかねない。
 最後に、心霊写真を撮る際の心構えを中岡本人がまとめている。今の時代にはそぐわない部分もあるが、ここまでしっかりと指南してくれたものはないので、貴重な資料として引用し本記事を閉じることとする。

(1) カメラは、心霊写真専用のものを使うようにする。
(2) 興味本位にさわぎたてないこと。
(3) 写真を写す場合は、危険な場所はさけること。
(4) 鑑定は十二分に注意を払って行ない、ポイントの「目」をよく見ることで、無理やりにこじつけてはいけない。インチキ写真を作る危険性がある。
(5)  心霊写真を持っていても、無害であるからそのことでさわがないこと。
(6)  一つ場所で、かならずアングルをかえて、数カット写し、露出やシャッター速度もそれぞれ変えること。
(7)  シャッターを切るとき、かならず心の中で「姿を写させてください」と念じること。
(8)  写した写真は、不要なものを焼き、霊が写っているものは、清潔な場所におくこと。
(9)  心霊写真を撮ろうとしたときは、関係のない被写体(人物)を一緒に写さないこと。
中岡俊哉『恐怖の心霊写真集』二見書房 1974

 最後、私事で恐縮ですが、所有するこのバイブル、もう古さが極まって、ページがどんどん外れ、分解が進みまくっています。そろそろ二見書房様は新調版を出してくれないでしょうか。そのことを切に願ってA-sideを終えます。B-sideもお読みいただければ幸いです。

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