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0007 A-side 海の怪あるいは鈴木光司

1.海あるいは鈴木光司

 海——私たち生き物はここから生まれたと考えられている。だから、海というのは私たち人類にとっての母である。生命を育む愛しい母。実際、地球が生命に満ち溢れているのは、海のおかげである。この広大な惑星の、実に70%以上を占めると言われる海、私たちの住む星はほとんど海でできていると言っても過言ではない。それは私たち人間もそうだ。私たちの中には小さな海が広がっている。生命が、海から陸へと生活の拠点を移すことができたのは、海を体内に取り入れることに成功したからに他ならない。
 だが、私たちは普段、この小さな海を体内に宿しているという事実にはほとんど注意を払わない。だから、夏になると毎年多数の人間が、水を失い、病院へと運ばれる。私たちは水がなければ生きていけないことを忘れがちである。水は決定的に命と直結している。
 私たちの胸の中には、始原への郷愁が刻まれてもいる。私たちが海を見たときに抱く不思議な感慨はその想いを反映したものであろう。同時に、海は畏怖の対象である。それはグレートマザーへの畏れである。母なる存在は常に、私たちを慈しむと同時に、時に厳しく教え導く存在でもあるからだ。海は思慕の対象であると同時に畏怖の対象となる。もちろんこれだけではない、私たちが海を前にしたときに抱く感情は愛と憎を両極として、その間にある様々な感情のグラデーションである。例えば、

春の海 ひねもすのたり のたりかな 与謝蕪村
渡るべき 海の昏さよ 秋燕 高山れおな

あるいは

マッチ擦る つかの間海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや 寺山修司

などを読むだけでも、海を起点として喚起される感情がいかに様々であるかがよくわかる。
 明るい海、昏い海、ゆっくりと波打つ海、荒れ狂う海、海は千変万化の姿を見せる。私たちはその時その時の海の姿に自らの心象を重ね合わせ、海に思いを託す。あるいは、海があるからこそ、私たちの心象風景は色鮮やかなものになっているのだと言えよう。
 
現代ホラー界において、海あるいは水と最も馴染みのある作家といえば、鈴木光司である。そのデビュー作からしてすでに、海が大きな舞台装置となっているが、その後のホラー小説、怪談本においても海あるいは水というのは、多かれ少なかれ、必ず小説の重要な構成要素をなしている。もはや彼そのものが海あるいは水の象徴と化しているかのようである。以下に紹介する作品は全て鈴木光司を著者とするものである。

2.『楽園』角川書店 1990

https://www.amazon.co.jp/dp/4041880130

 物語は神話の時代から始まる。タンガータ族の青年ボグドと少女ファヤウの物語である。ボグドは勇敢な戦士であると同時に、類まれなる絵の才能を持っている。彼は人知れず、石にファヤウの姿を描きつける。ところが、部族に伝わる法では、「決して人間の姿を絵にしてはならぬ」とされていた。人の絵を描いてしまうと、その人間が死ぬか、生き別れになって永遠に逢えなくなるという。ボグドはその事実を知り、愕然とする。彼は運命に抗うため、伝説の赤い鹿を討ち、その加護を受けようと命を賭した狩りを行い、見事に鹿を討ち取る。それでも、部族の法は二人を無惨に引き裂いていく。
 二人を引き裂くのは広大な海である。彼らが同時代に出会うことは叶わない。海は圧倒的な距離として人を引き裂く。単なる物理的距離は単純なだけに、より絶望が際立つ。彼らが再会を果たすためには、時空を越える以外にないのだ。時空を超えた果てしない物語。それがこの物語の骨子である。先史時代、18世紀、そして現代と3つの物語において、二人の男女を分かち、結びつけるのは海(現代編では厳密には湖)である。海は時に非情である。自然の猛威は容赦なく人の命を塵芥に変えてしまう。18世紀編では、広大な海で漂流する男たちが巻き込まれるおぞましく、悲惨なエピソードが、現代編では、地底湖に閉じ込められた男が真の暗闇の中で体験するシーシュポスの神話を彷彿とさせるエピソードが描かれ、読者は精神的に追い詰められる恐怖を追体験することができる。
 とはいえ、海無くして彼らが時空を超えて出会うことは、決して無かったのもまた事実である。海は挑戦の暗喩でもあるのだ。その恐怖に打ち勝った者たちには、この上ない祝福もまた約束されている。

3.『リング』角川書店 1993

https://www.amazon.co.jp/dp/4041880017

 同日同時刻に死んだ4人の少年少女の死の原因を追う過程で、浅川和行は謎のビデオテープを見つける。4人はビデオを見たちょうど1週間後に謎の死を遂げたようだった。自身もビデオを見てしまった浅川は、友人の高山竜司とともに、無情のカウントダウンを止めるため、テープの謎を解くべく東奔西走の調査を開始する。
 もはやあらすじを書くことが憚られるほどの国民的小説である。ジャパニーズホラーを世界に知らしめた日本文学史に燦然と輝く名作である。ホラーにさほど興味がない者であっても、貞子という名を聞いたことのない者はおそらくあるまい。彼女が世界に与えた衝撃と恐怖は、今後もしばらく塗り替えられることはないだろう。
 ここでの重要なモチーフは井戸である。貞子は井戸で殺され、井戸より出でる。貞子は井戸に落とされたとき、まだ生きていた。だが、二度とそこから出られないことはすでにわかっていただろう。彼女は世界への怨嗟の言葉を唱えながら「井戸の内側に怨念を塗りこめていった」のである。これは私の単なる想像だが、貞子の呪詛は井戸という閉鎖空間の中で無限に反響しながら、その強度を高めていったのではないだろうか。井戸とは特殊な閉鎖空間である。怪異譚には井戸の話が尽きないほど多くあるが、そこからは必ず怨念が立ち上がってくる。融通無碍な水という物質がその性質を制限されたとき、そこにできる淀みが怪を醸成する場となるのは必定の理なのかもしれない。
 無論、これ1冊でも独立して楽しむことは十分可能だけれども、『らせん』、『ループ』と読みつぐことで、また、新たなリングワールドが開示される様を見ることができる。呪いから科学へ、そして最後はシミュレーテッドリアリティへと主題が変容していく過程は圧巻である。『らせん』、『ループ』のエピローグが海で展開されるのは偶然ではなく、そこに生命の誕生を暗示する意図があることは間違いないだろう。
 ちなみに、案外注目されることが少ないのだが、貞子は睾丸性女性化症候群であり、身体は女性のように見えるけれども染色体上は男性である(子宮はない)。この貞子の複雑な両価性はリングシリーズにおいて極めて重要な、母性という問題に深く関わっているが、本日は軽く指摘しておくだけにとどめる。

4.『仄暗い水の底から』角川書店 1997

https://www.amazon.co.jp/dp/4041880025

 水にまつわる恐怖譚を集めた短編集。リングの恐怖は、際立つ存在感を持ったダークヒロインから発散されるが、本書の短編集では、名指すのが難しい恐怖が、まさに水がじわじわと染み込むように、読む者の心を蝕んでいく。本書でも澱んだ水が、多彩な怪異をもたらす様が見てとれる。
 「浮遊する水」では、母娘が屋上で偶然発見したキティちゃんの赤いバッグがもたらす怪異が描かれる。屋上に据えられた高架水槽の中を漂う少女の腐乱死体を幻視した途端に、もう恐怖から逃れることはできない。高架水槽は水道を通じて全ての部屋と繋がっているのだ。怪異はどの部屋にも現れる。
 「孤島」に登場する女・中沢ゆかりは第六台場に住み着く怪異である。肉眼で確認できる孤島、そこに住みつき、この世とは隔絶した生を営む者たちがいるという空想は、ある意味で山窩の暮らしに思いを馳せることと似ている。
 「穴ぐら」は家族に暴力を振るってばかりいる男の身に待ち受ける悲惨な運命の物語。おそらくは、妻の死の瞬間からこの男は魅入られていた。殺された妻のたった一度だけの、だが、決定的な復讐劇。溺れる恐怖は読者の呼吸さえ止めかねない。オチが秀逸である。
 「夢の島クルーズ」は、ひょんなことからクルーズを余儀なくされた男が強制的に体験させられる怪異である。海上を漂流する子供用の青いズック靴。そんな物に遭遇するだけでも十分な恐怖だが、最悪な空想が現実になったとしたら、冷静でいることができるだろうか。
 「漂流船」は、漂流船に乗り込んだ男が体験する姿の見えない怪異の恐怖譚。四方に何もない海の上で感じる視線ほど怖いものはない。だが、それは確実に、じっと獲物を見つめている。人ならざるものは海の上でこそ本領を発揮するのだ。もうこれで安心とホッとした途端に、隠れていたそれは突然姿を現し、襲う。
 絶望的な話ばかりではないので、安心してほしい。
 「ウォーター・カラー」は、一見するとトイレに潜む怪異の話のようだが、実は作中に巧妙な仕掛けがなされている。ネタバレは避けておこう。ぜひ、この驚きを一緒に体験していただきたい。出来のいいお化け屋敷を体験したような爽快な感覚が味わえる。
 「海に沈む森」は感動譚である。前述の『楽園』を彷彿とさせる、時を超えて紡がれる父子の物語である。父の遺したメッセージが悲しくも力強く感涙を呼ぶ。

5.『海の怪』集英社 2020

https://www.amazon.co.jp/dp/4087880400

 怪談集と呼ぶには勿体ない本。怪談という体裁をとらずとも海は怖い話に溢れている。本書は、著者の25年に及ぶ航海経験の中で、著者自身の体験した話、友人から聞いた怖い話、不思議な話、ユーモラスな話などが集められたものである。けれども、著者自身には決して怖がらせようという意図がないことは申し添えておかねばならない。海好きの著者のことである。もちろん誰もが海で楽しく過ごして欲しいと思っているのは明らかである。むしろ、ここで追体験して欲しいのは、自然の脅威や神秘に対する畏怖の念である。山もそうであるが、海もまた中途半端な態度で望む人間には容赦無く牙を剥く。海は当たり前ではあるが、裸の自然である。それは私たちの想像をはるかに超える現象を巻き起こす。しかし、私たちの想像など所詮経験に基づく浅い類推に過ぎない。海は私たちがちっぽけで卑小な存在でしかないことを知らしめる。
 全18篇のうち、いくつか心に残った話を紹介しておこう。
「第2話 繋がってはいけない」
 太平洋戦争では海に浮かぶ島々で。大規模な戦闘が行われたことが知られている。いくつかは歴史の名残をとどめたものもあり、当時の爪痕をいまだに見ることができる。だが、決してそこに落ちている貝殻などを持ち帰ろうとしてはならない。歴史的価値の問題ではない。あなたの身を守るためである。島の物を持ち帰ることは死者と不用意に繋がることを意味する。死者とつながった暁に待ち受けるのはただならぬ怪異であることは言うまでもないだろう。
「第10話 誰か、いる」
 屋久島の南、吐噶喇(とから)列島の話。列島内の無人島を訪れた一向は廃墟探訪を始める。彼らを待ち受けるのはただならぬ気配であった。誰もいるはずがない。いるはずがないのに強烈な視線を感じるのだった。やがて、彼らは脇道に入り込んでしまう。そして現れる鹿の群れ。鹿に追い立てられるうちに、彼らが運ばれた先にあったものは……。彼らが感じた視線は鹿のそれだけだったのだろうか。それとも……
「第14話 吠える60度線 船の墓場世界篇—ドレーク海峡」
 船の墓場、何とも不気味な響きである。海の難所は実は陸地のない絶海ではない。難所のほとんどは陸地が間近に見える所にある。その中でも世界最恐ランクに位置するのが「吠える60度線」ドレーク海峡である。時速70kmを超える偏西風が吹き荒れ、30mを超える高い波が襲いかかる。おまけに冬季には氷山まで流れているというのだから、命がいくつあっても足りない。実際にここでは多くの船が海の藻屑と化している。そんな海峡を単独ヨットで通過した日本人をご存知だろうか。彼の名は白石康次郎、海洋冒険家である。彼が文字通り命を賭けて臨んだドレーク海峡越えを、鈴木光司が小説風に臨場感溢れる筆致で描き出す。

 以上、お読みいただきありがとうございました。次回0007 B-sideでは私の推しの海あるいは水にまつわる怪談、小説をご紹介します。お読みいただければ無上の喜びです。







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