自己責任論は弱さの裏返し

いわゆる自己責任論はインターネットでよく論争になるトピックの一つである。

私は自己責任論には限界があると感じている。その理由を以下に述べていく。

自己責任論者がよくインターネットに書き込む例として、痴漢被害者など性被害を被った方へ「どうせ薄着で夜道を歩いていたんだろう」「男を欲情させるような服装をしていたに違いない」などと勝手に想像し、被害者バッシングに持ち込むケースがある。

どう考えても、悪いのは痴漢魔であり、性犯罪者である。にもかかわらず、自己責任論者は被害者をバッシングする。「何故被害に遭ったのか反省しろ」とばかりに。

これは自己責任論者の脳内に次のような思想、思い込みがあるからである。


“この世の中に理不尽なことはなく、一見すると理不尽な目に遭った被害者も、実はその理不尽に遭うべく理由が必ず存在するのだ。“


この思い込みがあるからこそ、全ての理不尽な目に遭った人、犯罪被害者は何かしら負い目に感じることを抱えているに違いないという結論に至るのだ。

もちろん、この世の中は、いくら品行方正に生きていようが突如理不尽な目(事故、犯罪、病気、中傷など)に遭うことは多々あるので、上記の思い込みは絵空事に過ぎない。

自己責任論者は脳内に、品行方正に生きていれば、理不尽な目に遭うことはない。然るに理不尽な目に遭った被害者は自らの今までの行動を悔いるべきだ。と勇ましく被害者叩きに奔走する。この思い込みが発生する理由として、自己責任論者の理不尽なことへの過剰な恐れがある。


私は品行方正に生きているから理不尽な目に遭わないはずだ。だから頼むから理不尽なことには遭わせないでくれ(祈り)


半分宗教じみているが、このような心理状況から自己責任論は発生する。理不尽なことに耐えられない己の弱さ、恐れが自己責任論の根底にあるのだ。

さらに自己責任論者が理不尽な目に遭うことを恐れる理由は他にもある。それは他の自己責任論者からのバッシングである。

例として、自己責任論者の店に強盗が入ったとしよう。他の自己責任論者は、被害者に対し、何故もっと警備設備を整えていなかったんだ?などと責める。当の被害者は被害者で、自己責任論に取り憑かれており、自分が悪かったと泣き寝入りする。

この状況になると、もう自己責任論者に勝ち目はない。強盗の一人勝ちである。自己責任論者は被害に遭ったことを隠す以外、自分の主張の一貫性を保つ方法はなくなる。


最後に自己責任論の論理的脆弱性について話す。

数年前、辛坊治郎氏がヨットで海を渡る企画をし始めたものの、事故で遭難しする事件があった。

自己責任なんだから助けに行く必要はないという意見もネットには書き込まれていた。

ここで問題提起されるのは、どこからどこまでは自己責任の範疇なのかということである。辛坊治郎氏がヨットで無謀な旅に出て遭難することは自己責任だと言う人もいた。いや彼は万全の準備をしていたのに不運な事故にあっただけだという意見もあった。

このように、自己責任として責める、責めないの線引きが個人によって様々であるので、自己責任論は信奉するに足らないと私は判断した。


まとめ

人は「この世の中は、品行方正に生きていても、理不尽な目に遭うことはある」と自覚できていないと、自己責任論に飲み込まれてしまう恐れがある。

自己責任論はどこからどこまでが自己責任であるか個々人により異なり、線引きが不鮮明である点において、説得力に欠ける








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