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親しさと時間は比例する


私は今、適応障害で仕事を休んでいます。

親しいお友達には打ち明けつつある。
私は話す事によって自分の中で整理がつく人間だからだ。もちろん、みんな優しい方達なので、あたたかい言葉で私を包んでくれる。そんな優しさに甘えている。


相談したいと思う人は信頼出来る親しい人である。誰でも話せるわけではない。



以前、人事や久々に会う人に
「心配したよ〜」
って言われてすごく違和感を感じた。
『私、あなたに一言も喋ってないけど、私の何を知ってて心配なの?』
上っ面な言葉だと思った。もちろん相手に悪気もなく私の事を思っての言葉だろう。
そんな「心配した」って言う人は私にとってそこまで重要ではない人だと感じた。とても有難いお言葉だけれど。そこまで親しくないのに心配したってなんなんだろうって。いや、親しくないからこそ出てくる言葉なんだろうな。


だって本当に心配してくれてる人というのは、ただそばにいてくれて、じっと待ってくれていて、私の事を信じてくれている人だと私は思う。
「よくここまで頑張ったね」「急がなくていいよ」
「みおだったらなんだかんだ元気になるってわかってるから何も心配してないよ」「大丈夫だよ」って大好きな人達の口から出るその言葉たちに救われる。


言葉っていうのは誰から発せられるかって言うので言葉の意味が変わってくると思う。
同じ「心配した」でも、好きな人から出る言葉はしっかり心に届くだろう。それは、会い、話し、時間を共にし、親しさや信頼、好意を感じているから。

親しさと時間は比例する

私はそう思ってる。




だから今日も「ねえ、聞いてよ」って言うの。
そしたら、大好きな人の口から「どうしたの?」って言葉が返ってくるだろう。
そしたら私はこう返す
「どうしたらいいかわからない」

相手の方が私の人生なんざ知らんがな。ってな、 けどそんなオチのないやりとりに流れていく時間が今は必要なんだとそう思う。



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