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物語は人生を救うのか、それとも殺すのか。マチュー・アマルリック監督『彼女のいない部屋』

マチュー・アマルリックってあのマチュー・アマルリック?

本作『彼女のいない部屋』(原題はSERRE MOI FORT わたしを強く抱きしめて)を観始めて浮かんだのは、まずその疑問だった。
マチュー・アマルリックといえば、皮肉屋でコミカルで、ちょっと間抜けな男性の役が板についているフランスの俳優というイメージがある。

そのマチュー・アマルリックが監督を務めているというのは本当なのか。
というのも、冒頭、黒の背景に浮かぶ、氷を砕いたような光の繊細な映像に早くも魅了されたからだ。

主演はヴィッキー・クリープス。『ハンナ』や、最近ではポール・トーマス・アンダーソン監督の『ファントム・スレッド』に出演している。

それからもう1人の、というかもう1台の主演が、AMC PACER BREAK 1979だ。

AMC PACER BREAK 1979

 ヴィッキー・クリープス演じる母であり妻はこの自動車に乗って旅をする。車には詳しくないけれど、この車体がとても美しいのだ。

断片的な映像をつなぐ、音楽のリズム

実は本作、最後のほうにならないと事実は明かされない。いや、一応、途中で明かされるのだけれど、本作の向かう方向がいまいちつかめないこちらとしては、その事実を"狂気"として受け取ってしまった。

例えば、映像では鳴るはずのピアノの音が聞こえず、鳴らないはずのピアノから音楽が聞こえてくる。このズレをどう受け止めるか、観る者はとまどう。

いったい目の前で何が起きているのか。わからないまま、しばらく断片的な映像を追っていくことになる。
ヴィッキー・クリープス演じる母親クラリスが家出したものとばかり思い込んで。

彼女の息子、娘、夫マルク(アリエ・ワルトアリテ演)の映像が頻繁に挿入される。とくに効果的なのが、娘が習っているピアノの演奏。この音が映像を縫い合わせていくリズムがなんとも心地よい。

娘のクラシックと、母のロック

さらには、娘が演奏するベートーヴェンの『エリーゼのために』やモーツァルトの「ピアノ・ソナタハ長調K.545」、ジャン=フィリップ・ラモーの『ガヴォット』などに加えて、オリヴィエ・メシアン『世の終わりのための四重奏曲(イエスの永遠性への讃歌)』、ロッシーニの『小荘厳ミサ曲キリエ』、シェーンベルクの『ピアノ小品第3番Op.19』、リゲティ『ムジカ・リチェルカータ第1番』などのクラシック音楽が、過去と現在、場所を自在にジャンプする映像とともに効果的に用いられている。

一方、母が旅の途上で聴く音楽は、J.J.ケイルの『チェリー』、グレイ&パーンの『I'll BE WAITING』などのロックやポップスばかり。

この音楽の割り振りかたも、本作を観終えた今となっては、ある意味があると感じる。天上的で重層的で垂直的な音楽と、地上的で水平的でストレートな音楽がせめぎあう。

母はずいぶんと長い旅に出ているのだろうか。
娘は長じてずいぶんとピアノが上達する。パリ音楽院を受験するまでになる。

マルタ・アルゲリッチになる?


【Wikipediaより マルタ・アルゲリッチ】

世界的なピアニスト、マルタ・アルゲリッチに憧れてか、娘は彼女の格好の真似をする。黒っぽいルーズな服をまとい、髪をグレーに染める。
娘はまだおそらく10代である。にもかかわらず……このあたりから、何かおかしいと感じ始めた。この映像は、もしかして母の妄想なのではないか、と。

(ちなみに、マルタ・アルゲリッチは天才だ。ショパン国際コンクールに出場した際、審査員はみだりに感情を露わにしてコンテスタントを評価することを禁じられていたにもかかわらず、彼女の演奏後は審査員みなが総立ちになって絶賛したというエピソードが好きだ。)

作中で引用されている、アルゲリッチのドキュメンタリー映画にも、さりげなく母と娘というテーマが見え隠れしている。そのドキュメンタリーを監督しているのは、じつはアルゲリッチの娘だ。

物語によって戦う母・妻・女

私たちはいよいよ、この、音楽に乗ってあちこちに飛ぶ映像の集積が、めまぐるしく揺れ動くクラリスの内面における静かな戦いをあらわしていることを知る。
ある事実に抵抗するために。

そのごく私的な物語はどれも美しく、いくらか破壊的だ。
だからこそクラリスはその物語にすがることで生き延びることができそうな気もする。
しかし同時に、その妄想という物語に閉じこもることで、もはや生きていくことができないようにも感じる。
この物語は、はたしてクラリスを救ったのだろうか。それとも殺したのだろうか。

クラリスの動揺をわきで見守りながら、最後までひやひやさせられどおしだった。

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