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短編小説『あまさかる』 (2/2)

まばたきの勢いで重たるいまぶたをどうにか持ち上げると、車線を隔てる白線が波打っていた。左を見ても、右を見ても、真っ暗だ。倫子の記憶は現実への糸口を失っていた。

幾重にも重なる山間を貫く高速道。路傍の壁が凹んだ明るい場所をようやく見つけた倫子は、どうにでもなれ、ゆるゆるとそちらに引き寄せられていった。帰ってきたのではないか。そんな一抹の期待さえよぎった。

エンジンを止め、窓を下ろす。中央分離帯のはるか向こう側に、青灰色の帯が幽かににじんでいる。とっさに倫子は風の中に海のにおいを嗅ぎつけた。あれは水平線に違いない。夜光虫がひかっているのだ。海辺に生まれ育ったのだから、海の気配なら目をつむっていてもわかる。間違うはずがない。

防音壁と車の間の暗がりにしゃがんで用を足すと、念のため、後部座席から杖を手に取った。対岸に赤い小さな光が見える。そこが砂浜だ。2台の車が走り去るのを待ち、時間をかけて道を横断する。中央分離帯にのぼって一休みし——もっとも、倫子にとって同時にそれは防波堤だった——さらに半分を波打ち際にむかって横断する。

宙に浮かぶランプにしがみつくようにしてたどり着いた。撫でると指が赤く染まる。だがそこから先は行き止まりだった。手のひらで探ってみても、どこまでも上下左右に平らな壁が広がっている。

わたしはじゅうぶんに幸せだった。これが幸せの代償だろうか。わたしは十分に償ってきたつもりだ。まだ足りないか。自分の歩んできた人生がこんな壁の中に通じているだなんて、よもや信じられない。

自宅が流された後、汚れのせいか闇のせいか判然としない黒光りのする水の上を、子どもたちと舟に乗っていた夜、騒動のあとのあの静けさがふとよぎる。舟底を何か得体のしれない魚が舐めるような音がする。末の息子の覚は巨大な怪物が食べに来たのではないかとしきりに心配していた。何を馬鹿なと、上の子たちが笑う。とはいえ、それぞれがそれぞれに、多かれ少なかれ信じおそれていることが、母親にはわかる。長女の佳代でさえ、そんなこともありうるかもしれないと、いくらか不安になってもいるのだ。

遠くで、河原で、死体を焼く赤々とした炎の爆ぜる音がする。風に舞い散った無数の火の粉を子どもたちは人魂と呼んだ。わたしたちは全員助かった。こんな幸運があろうか。わたしたちは生きている。こんな幸せがあろうか。

倫子はまだ幼い子どもたちの目を手で覆い隠し、遺体の山の前を舟は通り過ぎる。いまや村そのものが川だ。川縁にたどりつき、汚濁に浸された村を見下ろす。連なる松明の光がしらじらと近づいてきた。近くで見ると盛大に燃えている。生き残ったものたちは、わざと呆けたふりをしているかのようにどこかよそよそしい。宙の一点を凝視し、何かを噛んでいる男の姿が見えた。四歳になったばかりの覚がそれを見上げている……

「おばあちゃん、大丈夫ですか」
誰かが倫子の隣に腰をおろす気配があった。体格からしておとこの人だ。向こうからもう一人、憲兵のような身なりの男が近づいてくる。懐中電灯を顔に向けられ、眩しかった。
「どちらさんですか」
「F警察のものです」と、隣に座ったおとこが言った。聞こえていないと思ったのか、もうひとりの男も、まったく同じ文句を繰り返した。「高速道路を歩いている人がいると通報を受けて、駆けつけたんです」
倫子は聞こえないふりをした。
「道に迷ったら、まちがって高速道路にのってしまって」
しかしけっきょく、しっかりしていると思われたくて、訊かれてもいないのに長々と説明してしまう。
「それはたいへんでしたね」
みずみずしい声の警官は、聞いているようないないような返事をした。でも倫子は、その一言で片付けてくれたことで、かえって気が楽になった。
濁った声の警官は、倫子の目の前に立ちはだかったまま、住所、氏名、年齢、電話番号、今日の日付などを立て続けに問うた。
息子にいちど連れていかれた痴呆症の検査を思い出し、倫子は緊張した。そのせいか、1人でなら復唱できるはずなのに、年齢も電話番号もろくに答えることができなかった。ただ、医者とちがい、それについて警官たちは何も言わなかった。
自分で書きます、とバインダーに挟まれた用紙を受け取る。
空欄と空欄の境目がまったく見えなかった。

「ずいぶん遠くまで来ちゃいましたね」
そう言われ、倫子は少し誇らしい気分になった。思わず笑みを浮かべた。
「同居されているご家族はいらっしゃいます?」
濁った声の警官が訊いてくる。
「携帯はお持ちです? だれか、身内の方の電話番号はご存知ない?」
助手席のポシェットの中の手帳に、子どもたちの電話番号が記してあるのを思い出す。毎年、手帳を変えるたびに書き写しているものだ、"もしものとき"のために。

しかし倫子は知らないと言い張った。
「ほんとに何も覚えてらっしゃらない? 今後運転されるとなると、ちょっと、心配ですね……」
「ちがうの」
とっさに否定し、倫子は口ごもってしまう。帰り道さえ教えてくだされば、自分でさっさと帰ります。頭に霧がかかったようになり、それだけのことが言えない。頭と口の回路がつながらない。
「あちらは浜ですか」
と、どうでもいいことを訊いてしまう。
「いいえ、山ですね」とみずみずしい声が答えた。「もう少し行くと、富士山が見えるはずですよ」
「私には海のにおいがわかります」
「そうですか。どの海のことでしょうかね。湖の間違いではないですか」濁った声が答えた。「さあとにかく、行きましょうか。こんなところにいても何なので。歩けますか」
隣に座っている警官が倫子の左腕を取った。背中に乗るかと訊かれたが断った。こんな濡れたズボンでおんぶされるわけにはいかない。

濁った声の警官は倫子から鞠のキーホルダーのついた鍵を受け取り、先導するように部下の警官に命じてから運転席のドアを開けた。
その瞬間に彼は跳び退き、その勢いで足がもつれてゆっくりと路面に尻餅をついた。みずみずしい声が、倫子の隣でひかえめな笑い声をたてた。倫子は赤面した。

倫子は鬘(かつら)を上着のしたに隠すようにして、パトカーの後部座席に乗った。パトカーに乗るのは人生で初めてだった。かぶりたくてもかぶれない鬘を膝の上に置いて撫でながら、子どものように啜り泣いた。みずみずしい声は無線に何かを呟いた後しばらく黙っていたが、大丈夫ですよ、どうにかなりますよ、と慰めようとした。倫子はまたもや、その大いなる勘違いに慰められた。

                 *

4時間後、三男の覚とその妻の暁美がトヨタ・アクア1台に乗り合わせ、F警察署まで迎えにきた。アクアに倫子を乗せ、暁美が倫子の軽自動車を運転するためだ。
「かあさん、免許はさすがにもう返上してくれるよね」
二人きりになると、覚が穏やかに言った。もうその覚悟はほぼできていたが、倫子は眠ったふりをした。そのうち、ほんとうに眠ってしまった。

騒々しい音楽が鳴っていた。時間が寄せては返すようだ。わたしはいま、いつにいるのか。
倫子はしばらく、目を閉じたままでいた。
まぶたに光を感じて誘われるように目を開けると、空に青みがさしていた。
窓を下ろしてほしい、とあくびをしている覚に頼んだ。
冷たい風が車内にどっと吹き込んでくる。
「気圧で耳が痛いよ」と覚が言い、運転席の窓も下ろした。
倫子は風を嗅いだが、海のにおいはしなかった。何のにおいもしなかった。

サービスエリアに入り、早めの朝食を摂った。
暁美は遅れて着いた。彼女はしきりにロングスカートの尻の部分を気にしている。
覚と暁美は山菜うどんを、倫子は明太子のおにぎりを注文し、同じテーブルで食べた。
「暁美ちゃんも、ほんとにごめんなさいね」と倫子は唐突に謝った。「こんなところまで来てくれて」
「いえ、とにかく、ご無事でよかったです」
暁美と覚はちらと視線を交わした。
「『こんなところまで』って、どこまで行ったか知ってるの?」
覚が尋ねた。
善人の道しか選ばなかった。だからきっと極楽にたどり着くものと信じていたよ。倫子は思う。思うだけだ。
「富士山は見えた?」
昔からひょうきんだった覚は、いたずらっぽく眉を弓なりにして言い、場をとりなした。
倫子の記憶のなかに、あの、夜光虫でひかる青白い水平線のかなたに、深い碧(あお)をたたえた富士がそびえ立った。手でそっと撫でると、火口付近のひだが指に冷たくて心地よい。凸凹しているが、くぼみに指をはめ、今度は上下に撫でると、表面はつるつるしている。溶岩が固まってできた山。お気に入りの山。まるで自分は巨人だった。倫子の両手は加工をすっぽりと包み込む。

私は海を蹴ってそこまで行ける。

「ああ」と倫子は両手を握り合わせた。「見えた、見えた。とても美しかったもの」
つぎは覚が暁美の顔を見る。
「しっかりしてよ。冗談で言ったんだよ。夜中だよ通報されたのは」
覚はそれでも言い足りなかったのか、
「静岡だよ、静岡。静岡まで行ったの」
とたたみかける。覚、おまえは何を知っているのか。倫子はあらぬほうを向いて微笑み、ほんとうにすばらしい体験をさせていただきました、と満足げにひとりごちた。ほんとうに幸せな人生でした。そうして、大切に膝に抱えていた鬘をかぶりなおした。

                 *

それからも、倫子は短い間に何度か遠出を繰り返した。
彼女以外はそれを「失踪」と呼びはしたものの。
一度は岡山(戦後、夫とふたりで旅した土地だ)へ。
一度は長野(家族旅行で訪ねたことがあった)へ。
目的地は、はっきりしているようにも思われた。そのたびに覚と暁美が迎えに行くはめになった。たぶん、お義母さんは死のうと思ってる、と暁美が言うと、覚は仰天した顔で彼女の顔を見た。

倫子はどこへ行っても、富士山を見た、と言った。
四度目はガス欠で、それほど遠くには行けなかった。倫子の住む隣の市の外にさえ出られなかった。
その夜、暁美は、どうして免許を返納させないのかと覚を責めた。

覚は翌朝、実家を訪ねた。インターホンを押すと、玄関の扉が少しだけ開き、倫子が顔を覗かせた。覚が中に入ろうとすると、強く拒まれた。
「なんで」
覚は情けなさに声が震えた。
「あんたに怒られるからさ」と倫子は答えた。
「免許を返しにいくよ。約束しただろ」
「無理だよ。今日はボランティアがある」
いつまでも運転していたって。もう年なんだから。いつか事故を起こして人様に迷惑をかけることになるーーと何度繰り返したかわからないセリフを覚は機械的に言う。
「もう少しだけ」
「もう少しだけって、またどっかに行くんだろ? 迷惑なんだよこっちだって。暁美も仕事があるんだし。頼むよ」
うつむく母を見ると、覚の胸のあたりが針の先で刺されたように痛んだ。
「わかった。待ってて」
扉が閉まり、内側から鍵が回る音がする。
このまま出てこないのではないか。覚は怪しんだ。しばらくして出てこないなら声をかけてみよう。庭石に腰をおろし、煙草を吸って気長に待つことにした。
3本目に火をつけた頃、外出着に着替えた倫子が玄関から出てきた。石に押し付け、慌てて火を消す。
「免許証は持った?」
「車の中。取ってくるわ」

倫子はダイハツ・ミラの運転席に時間をかけて座り、ルームミラーで鬘を位置を調整した。それからようやく、鍵をさしこみ、エンジンをかける。甲高い音とともに全身が震え、車は勢いよく発進した。夫が生前に育てていたランの鉢植えをなぎ倒して。
覚は呆然と庭に立ってその様子を眺めていた。

覚は手の空いていそうな姉の佳代に電話をかけた。かあさんに逃げられた、と。話すうちに可笑しくなってきて覚は笑うのをやめられなくなった。こんどはどこに行くんだろうね。
「何を他人事みたいに」と佳代に叱られた。他人事はそっちだ。若い頃の母親の話し方とそっくりだった。
基本、自分のことにしか興味のない母だった。
覚は電話を切ったあと独りごちる。

どうにか家の中に入れないものかと、庭に面した窓や勝手口、農具をしまってある倉庫などを探ってみるが、どこも鍵がかかっていた。まだ頭はあんがい大丈夫かもしれない、と思いかける。
そうこうするうちに、佳代からまた電話があった。
「りんどうの里に電話してみたらかあさんいるって。早く行ってみて」
「また逃げないうちにね」
覚は電話を切るなり車に乗った。

老人介護施設りんどうの里の駐車場に車を停め覚が受付で入館証をもらうとき、覚の電話をとった職員が、ミチコさんにいまちょうど談話室で傾聴のボランティアをしていただいてます、と耳が痛くなるほどの声で話した。

倫子は話に夢中で、覚が近づいてくるのにまったく気がついていなかった。話し相手も倫子と同じくらいの年恰好の老人だった。
「わたしね、富士山を見たんです。ほんとに美しくて」
そう言う倫子の声が覚の耳にも届いた。
きっと何度も繰り返しているのだろうと推測する。相手の老人は目をつむって顔を皺くちゃにし、手を叩いて笑った。雰囲気は楽しそうだったが、会話は成り立っていないようだ。
「みーつけた」
覚がしばらくして声をかけると、みるみるうちに倫子の表情が険しくなっていくのだった。ソファ座ったまま覚を睨みあげた。子どもの頃に同じ表情で怒られたことがあったと思い出した。
「そんな目で見なくても……」
思いかけて覚はハッとした。自分はいったい誰として見えているのか。誰なのか。
覚は佳代に電話をかけ、助けを求めた。
しかし、いざ姉がやってきて母を叱りつけると、こんな場所でそんな言い方はないのではないかと覚は佳代をなじった。
佳代はうむを言わせず倫子を警察署へ引っ張っていった。そして免許返納の同意をもぎとった。

翌日、覚は富士山の写真集『富士の絶景』を書店で購め、倫子に持っていった。気を利かせたつもりだった。
玄関先の倫子は微笑むだけで何も言わなかった。あいかわらず中に入れようとしないので、本は扉の隙間から差し入れた。
その一と月後、倫子は死んだ。
                                (了)

あまざかる【天《離る】(枕)(「あまさかる」「あまさがる」とも。語義も一義ではなかったろう。一般には、都から遠く離れた意から)「ひな(鄙)」に、また(はるかな天は向かい見ることから)「むかふ」にかかる。「ー(阿麻社迦留)ひなに五年[万五・八八〇]」

「新潮現代国語辞典」より


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