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宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』を観てきた。あるいは、「晩年に円熟に背を向け、気難しく、自分の属する社会と矛盾に満ちた関係を持つに至るもの」

なんの前情報もなく観てきた。忘れないうちに、溢れる情報を見てしまう前に、すばやく書いておきたい。ネタバレがあるかもしれません。それも心許ない。どこまでがネタバレかも、もはやわからない映画だった、というのが正確なところかもしれない。まとまりがないけれど、ご寛恕いただきたい。

吉野源三郎原作の『君たちはどう生きるか』をアニメ化した作品だとたかを括っていた。ら、まったく違った。過去に読んだことがありすっかり忘れてしまったものの、明らかに違いすぎる。

舞台は戦時下、冒頭、火災が起き、眞人(まひと)という少年の母の入院している病院が焼け、彼女は死ぬ。

(ところで、ここのところの繊細な炎の表現が、今までに観た宮崎映画では観たことのないものだったので驚いた)

その後、戦争はいよいよ本格化し、眞人は地方に疎開するとともに、父が再婚することがわかる。新しい母が人力車に乗って駅まで迎えにくるのだ。彼女は眞人のきょうだいをすでに身籠っている。しだいにこの女性は、眞人の亡き母の妹であることがわかってくる。

眞人の父は、疎開先でも、戦闘機のコックピットのカヴァーみたいなのを作る工場をとりしきっているようだ。その製品を従業員たちが続々と屋敷に運んでくるシーンがあるのだが、それが『風の谷のナウシカ』の王蟲そっくりである。

話を戻すと、新しい母は、夏子という。彼女は立派な屋敷に住んでいて、昔からの使用人である老婆たちと暮らしている。数えてみると7人いる。「白雪姫」の7人の小人たちを思わせる。じっさい、老婆たちは小人のように背丈が小さい。

あとあまり目立たないが、病に伏した老婆と、彼女の世話をしている老爺も暮らしているが、謎だ。この2人が登場する場面は、『もののけ姫』の、癩病らしき人たちが収容されている一郭を描いたそれを連想させるものだった。

この屋敷の、離れの洋館に、眞人は暮らすことになるのだが、この屋敷に足を踏みいれてから、ずっと執拗につきまとってくる存在がある。それはアオサギだ。なにか凶々しい雰囲気をまとっている。

ところで、この屋敷のある敷地には、妙な塔が建っている。
この凶々しいアオサギに誘われて、眞人はこの塔に近づくことになる。なかば廃墟のようになっているが、アオサギはしきりにそこへ来るように誘う。

新しい母、夏子によると、大叔父がヘンになってその塔にひきこもったという。眞人はそこへいくことを禁じられるのだが、しかしつわりがひどくなり、寝たきりでいた夏子が、ふと森へ姿を消すのを目撃した眞人が、使用人の老婆とともに後を追っていくと、なんとそれが塔へ通じている。そしてここから異世界への冒険が始まるのだ。

塔では例のアオサギが待っている。それはしだいに本性をあらわにし、じつは嘴の中にほんとうの顔をもつ怪物のような存在だった。それはどちらかというと邪悪そうだが、まぬけで憎めないやつだ。

このアオサギには、ボス的存在である白い髭の老人がいる。彼はどうやら大叔父のようだが、もはや人間とは思われない風貌である。

塔じたいも不思議で、パラレルワールドになっている。いろいろな世界に通じている(バベルの塔、あるいはダンテの『神曲』も思い出した)。

しかもこの塔に入ると、どうやら時間がシャッフルされてしまうらしい。価値観も変わってしまう。姿も。
塔にあるおびただしい扉を正しく開ければ、それぞれの時系列に戻ることができる。

また塔はスタジオジブリのようでもある。あらゆるイメージが生み出される場所としての。ひょっとしてあのアオサギとは、鈴木敏夫プロデューサーなんだろうか。

とにかく、現実のものが、デフォルメされて登場する。あるいは、この塔の中が現実で、それが外の世界に現実然としたものとして投影されているとも読める。
大叔父は、何か高邁な使命を担っているらしい。これなんて、宮崎駿の盟友である高畑勲を連想させる。

それからもうひとつ、気がついていささかギョッとしたのが、この大叔父というのは、ひょっとして天皇なのではないか、という点。
塔が、宇宙から降ってきた石を取り囲むように建っているというのは、「天孫降臨」を彷彿とさせる。
そう思わせるにいたったイメージは、例えば、眞人がたどりつく、ストーン・ヘンジみたいな、あるいは古墳みたいな墓。
それから、インコの王様みたいな、滑稽な軍人が登場するのだが、これがどうしても太平洋戦争と大日本帝國の軍部を連想させる。

(ちなみに、本作にはいろいろな鳥および飛ぶ物体(これから生まれる赤ん坊たちを象徴する「わらわら」など)が登場する。グロテスクでさえある。アルフレッド・ヒッチコックの恐怖映画『』をずっと思い出していた。「飛ぶ」という主題で観直しても面白そうだ(「鳥、飛行機etc…))

そして何より、眞人の母でもある、ヒミという名の、卑弥呼を連想させる少女。宮崎映画の定番、シャーマンとしての少女が登場する。

さらには、夏子が伏している室は、明らかに天の岩戸を連想させる。

などなど。

おそらく、本作はあまり言語化を突き詰めてはいけない映画なのだと思った。こちらは言語で解釈しようとしても、むこうはイメージで思考している。イメージは反対のものを、対義すら、ひとつのもので表現できるから。

言葉で一貫させようとすると、こう説明するしかない。眞人という少年が、次々といろんな試練を経て現実に戻る。これではあまりに貧しいではないか。

とはいえ、意識的には無意識的には、宮崎駿はじぶんがみずから過去に創造したイメージを見据えていることは確かだと思った。それらを塔の中にごたまぜにして放り込んでダンゴ状にしたのが本作だと思ったーーといったら宮崎駿は怒るだろうか。

なんだか、やけくそでやっているようにすら感じた(多くのスタッフの労働力を浪費して)。
でも誤解しないでほしいが、なにかすごいものを観たという印象は変わらない。まだ整理しきれていないけれど。
そして、負けた、という感想を持ったのは、以下の理由。

というのは、本作には鳥の鸚鵡(オウム)をディフォルメしたようなキャラたちが登場するのだが、それがダジャレのように王蟲(オウム)とつながるな、と気がついたからだ。これはもう、なりふりかまわぬ狂気の沙汰の遊びだと思った。たぶんわざとやっているんじゃないだろうか。

そうとうな衝撃を、少年時代に『もののけ姫』を劇場で観たときに受けたものだったが、宮崎駿はここまできたか、という別種の感慨がひとしお。私は宮崎駿についてほとんど知らないけれど、ひょっとして本作は、彼の動向を追い続けている人にとっては、私小説として読解できる作品なのかもしれない。

エドワード・サイードの著作『晩年のスタイル』の一章に入れてもよい人。
晩年に円熟に背を向け、気難しく、自分の属する社会と矛盾に満ちた関係を持つに至るもの」(本書の、岩波書店によるキャプション)のひとりが宮崎駿だ。




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