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非同期した、坂本龍一

坂本龍一氏が亡くなり、じきに4ヶ月が経とうとしているが、思いのほかいろいろと考えることがあった。

20代の頃、ひょんなきっかけである午後、彼と短い言葉を交わすことになった。
こちらの目を射抜くようなあの鋭い視線を忘れられず、あの人は今どうしているだろうかと、折に触れて思い出してきた。もちろん、彼の音楽も聴き続けてきた。

それがいつしか、病の進行を気にすることになろうとは。ともあれ、あと10年は生きるだろうと勝手に信じていた。

死後、いろいろな人の発言を読んだり聞いたりするなかで、asyncというアルバムに収められたfullmoonという曲について批評家の浅田彰氏が発言しているのを耳にし、この曲を改めて聴いてみた。

声が聞こえてくる。これは、ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『シェルタリング・スカイ』に端役で登場する、原作者のポール・ボウルズの声らしい。以下、拙い訳ですが訳してみます。


Because we don't know when we will die
We get to think of life as an inexhaustible well
Yet everything happens only a certain number of times
And a very small number, really
How many more times will you remember a certain afternoon of your childhood?
Some afternoon that is so deeply a part of your being 
that you can't even conceive your life without it?
Perhaps four or five times more
Perhaps not even that
How many more times will you watch the full moon rise?
Perhaps twenty, and yet it all seems limitless

ポール・ボウルズの声より

私たちはいつ死ぬかわからないから
人生を尽きせぬ井戸と思わなければならない
でもすべては決まった回数しか起きない
ほんとうにわずかな回数だけ
あと何回、子ども時代のある日の午後を思い出せるだろう
あなたという存在の一部となっているために
それなしでは自分の人生など考えられないほど深遠な午後を
4、5回あまりかもしれない
あるいはまったくないかもしれない
あと何回、満月が昇るのを見られるだろう
ことによると20回、でもそのすべてが果てしないものに思われる


このセリフは、坂本龍一が死の直前に「新潮」で連載していたインタビュー回想録のタイトルにもなっている。

ちなみに浅田彰氏によると、同じアルバムに収められたLIFE,LIFEという曲が、上のボウルズのセリフと完璧な対をなしているのだとか。このアルバムはそもそも、『ソラリス』『ノスタルジア』などで知られるアンドレイ・タルコフスキーの映画の架空のサントラを作るというコンセプトで制作された。

LIFE,LIFEでは、彼の父で詩人であるアルセニー・タルコフスキーの詩を、元JAPANのデイヴィッド・シルヴィアンが朗読している。
たしかに。この部分。ここでは墓の向こうの生が暗示されている。


No need for a date; I was, I am, and I will be

アルセニー・タルコフスキーの詩の一節


日付は必要ない。私は存在した、存在する、存在するだろう


このasync=非同期というアルバムが発売された当初、いったいどういう意味だろうと思いめぐらせたものだ。
今なら、非同期の最たるものは「死」だと解釈するしかない。


細胞から成り立つ有機体のシステムが同期しなくなる。
モーツァルトといい、フォーレといい、レクイエム=鎮魂歌は、死をうたうに際してさえ美しすぎる。というか均整がとれすぎている。合唱=同期によって厳かな調和が表現される。それらが天国のイメージと結びついている以上、当然のことかもしれない。

でも、死者のための音楽ではなく、死そのものを表現した音楽があってもいいのではないか。死者のための音楽というのは、そもそも生者のための音楽であるわけであるし。
崩壊する音楽。ズレていく音楽。生から死への移行を表現した音楽。

彼の生前は、まさかasyncをこのような解釈で聴くことになろうとは思いもよらなかった。

                                          *旧アカウントより転載*


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