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最寄りから7歩!-歌川広重『東海道五十三次』

今日はひっさびさに記事を書いてみようと思います。
久々に開いたので、noteの仕様も変わっている部分が多く、使い慣れるまで時間を要しそうです。
この約1年間、研究の調査や情報収集、精神と体調を崩し、就活を終え、走って走って、さらに研究を進めておりました。
何も書いていなかったのに、その間に記事を読んでくださったり、フォローをしてくださったり、通知だけは確認しておりましたので非常に嬉しい気持ちでいっぱいでした。ありがとうございます!!

やっと、来年から社会人となりますが、その前に修士論文を書かないとなりませんので、のうのうと遊びまくりの夏休みを過ごすわけにもいきません。
昨日やっと前期課題を全て出し終えたので、今日から研究に戻らないといけないわけなのです。
そのスタートダッシュのためにも、モチベーションを保つためにも今日から記事を再開しようと試みています。

さて、何のシリーズを書いていこうかと迷っておりますが、やはり私は広重の東海道を研究テーマにしておりますし、何より大好きなので変わらず広重の東海道シリーズを続けて書いてみようと思います。

今回から始めるシリーズは歌川広重『東海道五十三次』

こちらの作品です。
広重って『東海道五十三次』と題される作品をいくつもいくつも出版しております。今回も『東海道五十三次』という作品ですが、一番世の中に知られている”あの”保永堂版の『東海道五十三次』ではなく、村田屋市五郎版の『東海道五十三次』です。

今回は国立国会図書館デジタルコレクションの画像を使用させていただきます。

この作品の情報について、大まかな情報が以下の通りです。


書誌情報

https://dl.ndl.go.jp/pid/2541077/1/1

一応題箋に『東海道五十三次』とうっすら書いてあります。
表紙もギシギシで題箋も見られませんが、本としての体裁を保てていますね。
残念ながらこの本に刊記がどの丁にも記されていないので、何年の作品なのかがわかりませんが、国会図書館の書誌情報には嘉永年間と記されています。
1844年から1855年までの間です。

出版は村田屋市五郎からされています。
村田屋市五郎は江戸末期に活躍した版元であるらしく、彼か出版した作品には
一登斎芳綱写『浅草奥山生人形』という作品があります。
安政2年(1855)に出版された作品ということで、嘉永から安政にかけて様々出版した模様ですね。

今回の『東海道五十三次』、通称「人物東海道」と呼ばれているみたいです。
広重の東海道シリーズはおよそ八種あり、「美人東海道」「隷書東海道」「行書東海道」「竪絵東海道」などなど、同じ『東海道五十三次』ではありながらもそれぞれの作品の特徴を反映した名前で呼ばれることが多いです。
その八種東海道のほとんどの作品を慶應義塾大学高橋浮世絵コレクションにてデジタルで公開されております。

日本橋

東海道の始まりといえば日本橋
どの東海道シリーズを始めても始まりは日本橋ですね。

国立国会図書館蔵

ファーストインプレッション!

日本橋といえば日本橋の全様と、江戸城、そして富士山を描くことが鉄則みたいな風潮がありますが、この絵では日本橋の橋脚の部分しか描かれていませんね。
その代わりに女性2人をメインに描き、その仲睦まじい様子がしっかりと伝わります。

この女性2人は船から地上に降りる瞬間でしょうか。
芸妓さんと思えるほど身なりをしっかり整え、涼しい印象さえ与えていますね。
日本橋川は多くの船で行き交い、物流とりわけ魚などの新鮮な食料が運ばれた地でありました。
その中でタクシーのように人を運ぶ役割を果たす船が走っていたのか、検証する必要がありますね。

女性は非常に上品で涼しげな柄の着物を着ています。
左の女性は今で言うチェック柄ではありますが、日本的な柄の呼び名は何なのでしょう。
髷の種類も特徴的で鏡餅の様な形に結えられています。
どのような身分、所属の女性であるかが少しはわかりそうです。

右の女性は雨の日の水面のような柄の着物を着ています。
地味な色味ではありますが、帯の存在感を引き立てる上品な柄であると思います。

日本橋と歴史

江戸時代、特に19世紀の日本橋についてどの様な役割を果たしていたのかを見てみましょう。

東京都中央区にある、江戸時代以来の橋。またそれに由来する広域地名。橋梁としての日本橋は、慶長期に江戸下町を造成する過程で、江戸城下の平川(のちの日本橋川)の河口が延長され、平川上に架された。架橋の年代は明らかではないが、慶長八年(一六〇三)には完成していたと思われる。翌九年には、街道の整備に伴い日本橋を起点として一里塚が建設された。江戸市街の中心にあったため、橋が焼失することも多く、明暦三年(一六五七)の大火以来、安政五年(一八五八)までに合計十回焼失している(半焼もふくむ)。橋の南側には高札場が設けられ、また罪人の晒し場が置かれていた。日本橋周辺は江戸の下町の中心であり、北側の本町には奈良屋・樽屋・喜多村の三人の町年寄の役所があった。また陸上輸送のため幕府の伝馬を扱うため、大伝馬町・小伝馬町・南伝馬町などに伝馬役が置かれている。小伝馬町には牢屋敷もあり、本石(ほんこく)町には蘭人の宿泊所である長崎屋もあった。日本橋一帯は江戸湊の中心でもあり、堀留をはじめとして河岸(かし)が発達していた。周辺には大伝馬町の木綿問屋街をはじめ多種の問屋商人が軒を連ねている。また平川沿いに倉庫が並んでいた。明暦の大火後、日本橋四日市から東へ江戸橋にかけて広小路も設けられ、ここに床店など多様な商人が進出、江戸の盛り場の一つとしても発展している。四日市には年末になると三河万歳の太夫が相方を探すための才蔵(さいぞう)市もたった。

国史大辞典 日本橋

まさに江戸時代の始まりからある橋なのですね。
やはり河岸は発達しており、以下の角川日本地名大辞典にもその様子が書かれています。

浅井了意の「江戸名所記」には「橋の長さ百余間北みなみにわたされし橋の下には,魚舟槇(まき)舟数百艘こぎつどいて日ごとに市をたつる。橋のうえよりみれば四方晴れて景面白し。(中略)西のかたは御城なり,東には海づらちかく行きかう舟もさだかにみえわたれり,されども橋のうえは貴賤上下のぼる人くだる人ゆく人帰る人馬のる物人の行通うこと螘(あり)の熊野まいりのごとし」と描写され,日本橋付近のにぎわいのありさまが記されている。

新版 角川日本地名大辞典 日本橋

魚を運ぶ船が数百も泊まり、市を建てるほどの賑わい。
日本橋川の船の往来はほとんど魚類を運搬する船なのでしょうね。

身分の上下も関係なく、多くの(だけでは表現しきれないほど多くの)人々で賑わう様子が記載されています。

平安時代に盛んになった熊野街道の参詣を想起させるほどとのことです。

本宮(現和歌山県本宮町の熊野本宮大社)・新宮(現同県新宮市の熊野速玉大社)・那智(現同県那智勝浦町の熊野那智大社)の神神が鎮座する熊野三山への参詣は、平安時代後期から上皇・法皇の御幸が相次ぎ、やがては武士や一般民衆の参詣も盛んになり、「蟻の熊野詣」といわれるほどの隆盛をみた。

日本歴史地名体系 熊野街道

描かれる2人の女性~髪型~

まずは女性の髪方から調べてみましょう。

国立国会図書館

ズームしてわかる範囲では鏡餅のように二つの大小の楕円が重なっています。

つぶし島田
年代
江戸時代後期から昭和初期
江戸後期の代表的な島田髷で、町娘から芸者や遊芸師匠まで、若い女性は皆これを結ったと言われる。明治以降は芸者など粋筋の女性に結われるようになった。
結い方根で束ねた髪の毛先を折り曲げ元結で縛り、毛先がいち(髷の後部)の内側にくるように折り曲げる。さらに前に折り曲げ、中央を元結で結び いちを作る。髷の前部を広げて、裏から紺紙を貼って整え、丈長をかける。
特徴「守貞謾稿」(喜田川守貞著 江戸後期)に『此島田髷を江戸にてツブシ島田と云、中央ツブシたる如く凹故成』とある。髷の中央に高さを出さず、結んだ箇所が潰れているため「つぶし島田」と呼ばれた。江戸時代後期に大流行し、若い女性の代表的な髪型に。明治以降は粋筋に好まれ洗練した形になっていった。結い方次第で可愛らしくも粋にもできる髪型である。

https://www.edononihongami.com/blank-28 つぶし島田

おそらくつぶし島田という種類の髪型ではないかと思います!

国立国会図書館

若柳吉蔵『踊姿』第8輯に掲載されているつぶし島田の挿絵です。
こちらは昭和8年の本なのですが、調べていくうちに見たいくつかの図と同じであると判断して載せておきます。
上記の引用にあるとおり、町娘から芸妓まで幅広く多くの女性が結った髪型であるとのこと。
今で言う、韓国風みたいな顔周りを生かす髪型に似たニュアンスでしょうか。

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