自分探しには意味があるのか
地元で行われているイベント「蓑笠市」の打ち上げ会の時、若い人から自分探しについての相談があった。自分は即座にこう答えたのだった。
「自分なんて、ない」
自分探しをするのに、向いている人と向いていない人がいると思う。伝え方はいろんな角度があるけど、自分にとっては「自分を探すことが目的」になってしまうのは怖いのだろう。仮に、自分というものがダイヤモンドのようなお宝だったとして、それを見つけた時に嬉しいのだろうか。ダイヤを手にして、終わってしまう人生は楽しいのだろうか。
以前、南日本新聞のコラム「南点」にも書いたことがあるのだが、小学生の頃、鏡をじっと見つめていて、瞳の奥に自分がいないことに気がついた瞬間があった。恐怖すら覚えた。それから、自分は、あまり自分のことは考えずに、鏡ではなく、徐々に「自分が表現したもの」を見て、自分を確かめるようになっていった。
相談してきた若者は、就職して解雇されたことを気にしていたようだったが、本当の意味での就職というのは「職に就くこと」であって、会社に就くことではない。就社と就職は大きく異なる。手に職がある人は、そもそも解雇や残業という概念がない。大工さんや農家もそうなのではないか。
結局のところ、自分が動いて遺していった有象無象の何かを見て、他者は自分を判断することになる。自分が、どのように人の目に映っているのかどうか、自分ではわからないが、他者は軽々と自分のことを判断する、そういうことなんだと思う。
SNS時代になって、自分〜他者の関係性が、数値化したり可視化されてしまって様々な問題が起こるようになってしまった。各地で戦争が勃発しているのもSNSの影響がかなり大きいと思うし、自分も間接的に加担しているのだろうという意識がある。
ではどうすれば良いのか。これは語弊があるかも知れないが、みんなが何かに属するのではなく、先ほどの話で出てきた「手に職のある」表現者になって、周りの人に理解してもらう努力を惜しまないことが大切。そして、誤解が誤解を生んで、個性や欲望というものが、他者と溶け合って溶け合って「自分イコール社会」のような状態になることが望ましいと思っている。
この考え方は、今の政治や宗教とはかけ離れすぎているのかも知れない。
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