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地域で楽しく過ごすためのゼミ 23年4,5月 1/2

2023年4月24日、5月22日、地域で楽しく過ごすためのゼミが2回にわけて開かれました。

 今回の課題図書は『西洋政治思想史』(著:宇野重規 2013年 有斐閣)です。担当は大浪と渡辺です。
この文章では、実際にゼミで使用した要約文章を掲載します。
※こちらは担当者一人目の分です。もう一人の分はこちら

〈以下要約(大浪)〉

<課題図書選定理由>

前回のゼミにて『正義論』を扱ったが、私個人が政治哲学を学ぶにあたって、基本的な歴史の流れを理解していないことを痛感した。そこで、現在まで連なる政治思想の要所を抑え、まとまっている本を探したところ、本書が一定の評価を得ていたため、こちらを選定した。

<主題>

本書はその名が示すとおり歴史の本であるため、過去の出来事や人物、その思想を紹介している書籍である。範囲は古代ギリシアから現在までで、各時代を同じくらいの量で解説している。

<論旨展開>

本書の章立てと基本的な展開は以下の通り。
・はじめに
政治思想についてと本書の方針の説明。
・古代ギリシアの政治思想
古代ギリシアにおける政治と哲学、プラトン、アリストテレス
・ローマの政治思想
ヘレニズムとローマ、帝政ローマの政治思想、キリスト教の誕生、アウグスティヌス
・中世ヨーロッパの政治思想
 ヨーロッパ世界の成立、12世紀ルネサンスとスコラ哲学、普遍論争と中世世界の解体
・ルネサンスと宗教改革
 マキアヴェリ、宗教改革、宗教内乱期の政治思想
・17世紀イングランドの政治思想
 イングランド内乱、ホッブズ、ハリントン、ロック
・18世紀の政治思想
 モンテスキュー、啓蒙思想、スコットランド啓蒙
・米仏二つの革命
 ルソー、アメリカ独立と『ザ・フェデラリスト』、フランス革命とバーク
・19世紀の政治思想
 ヘーゲル、トクヴィルとミル、社会主義とマルクス
・20世紀の政治思想
 現代の政治哲学の状況

<要約>

はじめに

 政治思想史に意味はあるのか。読者は次のように考えるかもしれない。政治思想家というのは、政治について根源的な考察を行い、何かしらの政治的「真理」を発見した人の筈だ。しかし、「真理」というのは本来、歴史を超えて妥当するものではないか。そうだとしたら、ある時代に「真理」だったものが、別の時代には「真理」でなくなるということがあるだろうか。もしそんなことがあるとすれば、それはそもそも「真理」ではなかったのだ。
 本書で扱う思想家の中にも、そのように考えたひとがいる。政治をめぐる「真理」は数学的な真理と同じように、いついかなるときでも一義的に証明できるものである。政治に残された課題はそれをいかに実現するかだけである。
 対して、政治をめぐる「真理」というのは、数学的証明のようなものではない、という考えもある。政治は、具体的な時代状況や、社会背景があってはじめて意味を持つ。それゆえ、具体的な歴史の展開を抜きにして、政治を語ることなど不可能だ。
 本書では以下の方針を採用している。第一の方針は「政治的人文主義」や「共和主義」という考え方を導入すること。重要なのは読むことの重視。政治思想史においては「古典」と呼ばれる一連の書物がある。この場合の「古典」とは、「時代を超えて読み継がれ、つねに参照され続けた書物」。
 政治思想史とは、「古典」が読み継がれてきた歴史である。「人文主義」とは本来、このような「古典」を読み解く知的営みの伝統を指す。そして、「政治的人文主義」とはとくに政治に焦点を置くものだ。また、「公共の利益」という理念を継承する知的潮流は、しばしば「共和主義」呼ばれる。
第二の方針は、グローバル・ヒストリーの時代にふさわしい政治思想史を構想すること。本書では、ヨーロッパの「地域性」を重視する。きわめて歴史的な個性をもち、その限りで「地域性」をもつヨーロッパが生み出した政治的理念のうち、何が、どこまでの「普遍性」をもちうるかをみていく。
 第三の方針は政治思想史と政治哲学の架橋である。政治思想史と政治哲学とは、直ちに一体であるとはいえないが、両者がバラバラに展開されるのも生産的ではない。
 本書では、現代政治哲学で論じられる多くのテーマや概念が、政治思想史の中でどのように生まれ、また変化してきたかを探る。現代を生きる人間にとって、政治思想史は尽きることのない知の源泉である。

古代ギリシアの政治思想

・古代ギリシアにおける政治と哲学

 古代ギリシアについて、重要なのはデモクラシーの実現であった。全ての市民が民会に集まって意思決定を行い、あらゆる公職は抽選で選ばれる。民衆裁判が判決を下し、市民たちは自ら武器をとって国を防衛する。
 紀元前8世紀、王の下に神官や官僚の巨大な組織が形成された古代帝国と違い、ポリスにおいては一人一人の市民が政治的な意思決定に参加し、また戦いにあっては武器をとった。ポリスには王もいなければ職業的な軍人もいなかった。市民たちは公共の広場に集まって民会を開催し、ポリスの運命を自分たちで決した。力による強制はありえず、残された手段は言葉による相互の説得だけである。
 互いに自由で平等である市民たちが、純粋に言語だけを媒介に意思決定を行い、その決定に自発的に服従する。これこそがポリスにおいて最も重要なことであり、「政治」という言葉には、このような理念が込められていた。
 市民にとって重要なのはあくまでポリスであった。ポリスのために市民がいるのであって、逆ではない。古代ギリシア人にとって意味のある人生とは、ポリスの政治や軍事で活躍し、公の利益に貢献することであった。また、世界とは混沌ではなく秩序であった。万物を貫く神聖な秩序が存在するのであり、人間はその掟に従わなければならない。その意味で、古代ギリシア人にとっての自由とは、あくまで法の下に生きることであった。権力をもつ特定の個人ではなく、人々に共通なルールである法に自発的に服従することが、彼らの誇りであり、理想であった。

・プラトン

 古代ギリシア人にとって、法に服従することが自由に反することではなかった。しかし、ソフィストと呼ばれた知的革新者達は、法すらも自明のものとはみなさなかった。ポリスにとって法の根拠が危うくなることは、すべての秩序を揺るがしかねない事態である。
 このような知的動乱期にソクラテスは現れた。彼は著作を残しておらず、弟子のプラトンらによって伝えられているのみである。ソクラテスにとって、生きるとは「よく生きる」ことを意味した。
 ではどうすれば「よく生きる」ことができるか。彼は自らの魂への配慮が何よりも重要であると説いた。仮に権力者に迫害されて死ぬとしても、魂は傷つかない。しかし、自らの信念に反した行動をとることは、魂を損なう。肝心なのは不正を行わないことである。
 ソクラテスの主張はそれまでのギリシア人の価値観を180度転換させるものであった。ギリシア人にとって価値ある人生とは、仲間の市民の眼前で政治的・軍事的に活躍して、不朽の名声を後世に残すことであった。対してソクラテスは、社会的な成功や名声よりも、自らの内面の方が大切であると主張した。彼の考え方は、法に代表されるポリスの伝統的な価値観を否定する可能性を秘めていた。反面、彼は「すべては人次第」という相対主義者ではなかった。ソクラテスは、魂への配慮という新しい価値観を示したのであり、それまでの哲学者がもっぱら自然の中における不変の原理を探求したのに対し、人間の倫理における新たな原理を模索したのである。
 しかし、ソクラテスは祖国にて、祖国のデモクラシーによって死に至る。このことの意味を追求したのが、プラトンである。自らが「よく生きる」ことを目指したソクラテスは、なぜ死に追い込まれたのか。このことを自問したプラトンは、ポリス自体の改革に乗り出さなければならないという結論に達した。本当に大切なのは、自らの欲望すらもコントロールすることではないか。そのような見地から、理想の国家論を展開したのが『国家(前380ごろ)』である。
 プラトンは、魂にとっての正義を知るためには、より大きな対象であるポリスにおける正義を考えてみる必要があると説く。プラトンのみるところ、ポリスを構成するのは2種類の人々である。1つは、快楽を追求する大多数の人々であり、経済活動に専念すべきである。もう1つは、これらの人々を守り、指導する守護者層である。守護者層についても、軍事をもっぱらにする補助者層と、政治に携わる真の守護者層とに分かれる。
 この3つの階層がそれぞれの任務を果たし、より上位の階層に従うことで正義が実現するとプラトンは考えた。プラトンは、真の守護者層に選ばれた人々は、私有財産も家族ももってはならないとした。真に無私の人だけが政治にかかわるべきだと考えたのである。このようなポリスの仕組みを人間の魂に当てはめてみると、経済階層は欲望に、補助者層は気概に、真の守護者層は理知に該当する、欲望が気概、そして理知によく従うことで、正義にかなった魂の状態が実現するとプラトンは考えた。
 プラトンが理想としたのは、あくまで理知が支配するポリスである。彼は「哲学者が支配するか、さもなければ支配者が哲学を学ばなければならない」と説いた。いわゆる「哲人王」という考え方である。
 哲人王はいかなる原理に基づいて支配すべきか。プラトンはここでイデア論を展開する。人間は感覚的な世界に生きている。しかし、手にふれて知ることができる現象の世界は、真の実在ではないとプラトンはいう。彼は、心の目でしか見ることのできない「ものごとの真の姿」をイデアと呼んだ。さらに、様々なイデアを統括する究極のイデアを「善のイデア」とし、統治にあたる人間が最終的に学ぶものとした。
 プラトンの議論で目につくのは、移ろいゆく現象世界と、真の実在であるイデアの世界とを真正面から対比する思考である。このような思考法は、えてして現実を全否定する理想主義と結びつきやすい。歴史上現れた多くの独裁者の正当化に、このような考え方が利用されてきた事実は否定できない。

・アリストテレス

 プラトンのイデア論は、どこか数学的である。対して彼の弟子であるアリストテレスは、むしろ生物学から多くを学んでいる。
 植物の種子には、葉や花のかたちなど、その植物の未来の姿が秘められている
その意味では、植物が成長するとは、最初から潜在していたその植物の本質が実現していく過程であるといえる。ここからアリストテレスは、人間を含むあらゆる存在は何らかの目的を実現するために存在すると考えた。
 感覚的世界の彼方にイデアの秩序を求めたプラトンに対し、目に見える物事の中にその本質や目的を見出したアリストテレス。プラトンが現実とイデアの世界を鋭く対比してとらえようとしたのに対し、アリストテレスはあくまで現実に内在する本質を見出そうとした。
 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で学問を3種類に分けている。この分類は、以後2000年にわたって西洋思想に影響を与えた。第一は、理論学である。「それ以外の仕方では、あることができないもの」を対象とする(数学や自然学など)。第二は、実践学である。「それ以外の仕方でも、あることができるもの」を扱う(政治学、倫理学など)。第三は、制作学である。変化する素材を使って一定の結果を生み出すものである(修辞学、詩学、医学など)。
 最大のポイントは、理論学と実践学とを分けたことにある。プラトンは両者を区別していない。アリストテレスは、厳密な認識が可能な知と、時や場所など具体的な状況に左右される思慮とは別であると主張した。
 あくまで善は単一ではなく、それゆえつねに争いがあると強調した点に、アリストテレスの特徴がある。争いがあるからこそ賢明な状況判断が重要であり、そのための思慮は経験なくして学びえないものであった。その意味で、彼が何よりも重視したのが実践学であった。彼はこれをさらに、ポリスを対象とする政治学、自らの一身にかかわるものとしての倫理学、さらに家を経営するための家政学に分類した。
 アリストテレスにとって、ポリスを離れて政治はありえなかった。とはいえ、何をしなくても人間がよき方向へと向かうわけでもない。外からの働きかけが必要であり、ポリスの中での習慣づけが不可欠である。それが政治術であり、その方法を教えるものとして、彼は『政治学』を執筆した。この意味で、彼にとって、倫理学と政治学とは連続していた。
 結果として、ギリシアの諸ポリスは統一されることがなく、それぞれの国制を発展させた。さながら古代ギリシアは、多様な国制の実験場のようであった。この場合、国制とは多様な内容を含む概念である。その国の根本原理や制度こそが国制である。
 アリストテレスはこれらの諸国性の分類を試みた。形式面では、支配者の数と統治内容の是非を組み合わせて六政体論を提示している。
 アリストテレスが現実に可能な範囲で最善と考えたのは「国政」である。この場合の「国政」とは、寡頭政と民主政を混合したものであるとされる。富者と貧者の対立を調停することに主眼を置いた政体であり、選挙と抽選を併用することが説かれた。また、支配と服従の両方を経験した中間階層の役割が重要とされ、この「中間階層の厚さが政治体制の安定の鍵」という知見は、以後の政治学の常識となっていく。アリストテレスの政体論は、法や中庸を重視するという点でより伝統的なポリスのあり方に近く、これをソクラテスやプラトンの哲学と架橋したものと言えるだろう。

ローマの政治思想

・ヘレニズムとローマ

 紀元前338年のカイロネイアの戦いによって、諸ポリスはマケドニアの軍門に下った。連合して大勢力になるよりも、最後まで自分たちのポリスの独立とそこでの政治参加を優先した結果でもあった。ギリシア人の東方への移住が進んだ結果、古代ギリシア文化はオリエントの広い世界に拡大し、各地の文化と融合することになった。いわゆるヘレニズム文化である。ポリスの独立と自由が失われた結果、市民はその活動の舞台を失ったのである。人々はあらためて人間の生きる意味を問い直すこととなり、哲学は、非政治的な空間へと向かった。
 古代ギリシアにおいて政治とは何かについて理論化が行われたとすれば、ローマにおいてはより具体的で実践的な政治制度をめぐる考察が進んだ。多様な特殊利害を競合させながら、1つの制度へと統合しようとしたのである。ここに多元性と普遍性を独特なかたちで媒介する古代ローマの共和制が成立した。これは、以後続く政治的英知の源とみなされるようになる。
 ローマの共和制の特徴は、あくまでその一体性を維持しつつも、その内部に多様性と対立を組み込み、制度化していたことにある。その内部に競合する社会利益があることを認め、これを正当な存在として制度的な表現を与えたのである。単一の原理に基づく限り、いかなる国制もやがて衰えると考えたローマ人は、執政官・元老院・民会の三つの機関にそれぞれ王政的要素・貴族政的要素・民主政的要素を担わせた政治体制を構築することで、政治の安定を実現した。ここに確率された混合政体論は、以後の政治論の重要なモデルとなる。
 ギリシアとローマは、以後の西洋政治思想史に対し、二つの重要な政治モデルを残した。一つは閉鎖的な都市国家のデモクラシーであり、市民による政治参加と自由な決定を重視した。もう一つは開放的な帝国であり、普遍的なローマ法の下に異邦の市民を統合し、それをむしろ拡大の原動力へと転化させた。

・帝政ローマの政治思想

 都市国家から出発したローマはイタリア半島を統一し、さらには地中海周辺地域を支配下に収めた。ローマは、この地域に暮らす多様な人種や民族、宗教を包括する統一的な世界を作り上げたのである。
 ローマが拡大したことは、その社会のあり方にも影響を及ぼすことになる。まず、征服戦争に動員されたのは小規模の土地を持つ農民たちであった。しかし、出兵期間が長期化するにつれて彼らは窮迫し、土地を有力者に売り渡して無産階級に没落していった。無産階級になった市民はやがて、武器を与えられて給与を支給される志願兵になっていく。彼らは、退役後も庇護してくれる将軍たちに依存するようになり、最終的には国家よりも将軍自身に忠誠を誓うに至る。有力政治家たちは庇護民を私兵化して武力抗争を展開し、名門貴族たちの門閥派と対立。両者の対立はローマを深く分断することになった。他方、市民権をもつ住民が飛躍的に拡大した結果、ローマの民会は事実上、最高議決機関として機能しなくなる。
 このような共和制の危機の時代に台頭したのが、ユリウス・カエサルである。彼は有力政治家間の抗争に勝利し、終身の独裁官となる。このことは一面から見れば、権力を一身に集めて独裁を行うことで、空洞化し形骸化した共和制に代わって、ローマを分裂から救ったことになる。とはいえ、共和制を支持する人々にとってみれば、彼は共和制の存続を脅かす存在であった。
 紀元前44年、カエサルは共和制支持者に暗殺されたが、彼の後継者となったオクタウィアヌスは内乱を収束させ、元老院から「アウグストゥス」という尊称を受けた。その後アウグストゥスは「第一人者、元首」を意味するプリンケプスとなり、ここにローマは実質的に帝政へと移行していった。この後次第にローマはオリエント的な支配へと近づき、市民が皇帝に隷従する専制政治へと変化し、ローマの共和制は終焉を迎えた。
 カエサルの同時代人の政治家で、時代を代表する知識人がキケロである。彼の政治思想は、ローマの政治的伝統を継承しつつ、これをヘレニズムにおけるストア派の思想と結びつけるものであった。伝統が失われつつあることを自覚するキケロは、ストア派の自然法思想によって補強しようとする。
 宇宙全体を支配するのが自然法であるが、人間は理性によってこれを認識することができる。理性を媒介に人は神と結びつくのであり、個々の国家ではなく、全人類を包括する理性の共同体こそが法や正義の基盤となるとキケロは説いた。人間には正義を実現する能力が内在するのであり、それを目に見えるものにするのが政治家である。道徳なくして共和制は存続せず、共和制なくして道徳は実現できないとキケロは考えていた。その意味で国家とは、法や正義についての合意と公共の利益に基づく人的集合であった。
帝政への移行によって、ローマ人の政治的な価値観が変化した。共和制の中核にあったのは、自由の理念であった。政治に参加して、自由に発言することこそ、ローマ市民の誇りであり、自尊心の源であった。しかし、そのような誇りや自尊心は失われ、皇帝の権力の下で、人々は軟弱になれ隷従に甘んじるようになった。長く続く内乱期に、ローマ人は共和制や自由よりも平和を選んだのであり、ここに政治における中心的価値が変わった。
 中期ストア派を代表するのがキケロであるとすれば、後期ストア派を代表するのは哲人政治家セネカである。彼にとって自然法が支配する宇宙と、現実のローマの政治との距離は、キケロ以上に大きなものとなった。セネカは、自然の秩序と目の前の国家を二元論的に考えたが、それを示すのが彼の「神の国」と「人の国」という区別であった。賢人の名前にふさわしい優れた人々の国が「神の国」なら、現実に存在するのは「人の国」である。
 悪徳と欲望が募った結果、それを抑えるための権力や法が必要となる。国家はまさにその産物であった。アリストテレスなど、古代ギリシアの思想家たちがまさに人間性の実現する場所として描いた国家。キケロが法と正義、そして共通善によって定義した国家はセネカの時代に人間の悪徳に根拠をもつ必要悪にまで引き下げられた。このように政治の価値が低下し、現実世界の外部に人々が救済を求めるという時代の精神的土壌が出来上がっていった。

・キリスト教の誕生

 ローマが元首政へと移行して間もない時期、ローマ帝国の周辺部ユダヤの地で、キリスト教が誕生した。この宗教は、やがてユダヤ人共同体の枠を超えて拡大し、ローマ帝国の国教となっていった。キリスト教の母体となったユダヤ教の神が、民の倫理的堕落を厳しく弾劾し続ける「義の神」であったのに対し、イエスが説いたのは、人々に救いの手を差し伸べる「愛の神」であった。イエスの教えは、律法を守りたくても守ることのできない、被差別民を含む庶民に受け入れられた。
 イエスの活動は当時のユダヤ教の指導者たちの目には危険なものに映った。イエスはやがてローマ帝国への反逆者として処刑される。このことは逆に、イエスこそが神の子であるという信念をその信者の中に生み出した。ユダヤ教の神があくまで選ばれた民であるユダヤ人を救済するもであったのに対し、イエスの神にとって、民族の違いは無意味であった。ヘレニズムが普遍主義的な傾向をもっていたのに似て、キリスト教もまた、現実の政治秩序の枠組みを否定したのである。
 イエスの教えをユダヤ人の共同体を超えて、広く地中海世界に伝えるとともに、初期のキリスト教会の発展の基礎を据えたのがパウロである。彼がキリスト教の伝統に加えたのが原罪の思想である。この思想によれば、人間は肉欲に囚われた罪深い存在であり、自らの力では救済へと辿り着けない。人間に唯一残されたのは、神の愛を素直に受け入れることだけである。ここにおいて、ストア派などヘレニズムの思想に見られた自力主義は明確に否定された。
 ユダヤ教の神がユダヤ人の神にとどまる限り、ローマの神々と競合することはなかったのに対し、キリスト教の神の普遍性の主張は、ローマ帝国との秩序との間に緊張をもたらした。キリスト教の共同体は、その初期において既にユダヤ民族の枠を超え、出身地や階層において同質的ではない集団であった。この集団を支えたのは非政治的な一体化・連帯の原理である、人間相互の隣人愛(アガペー)であった。
 キリスト教徒の共同体にとって、究極の目的は時間と空間の彼方にある救済であった。初期のキリスト教徒は、自分たちを政治秩序の外にある存在とみなした。しかし、時間が経つにつれて、最初は仮のものと考えていたこの世について、それなりに意味づける必要が生じてくる。中間時における世俗秩序の役割を単に否定的に論じているだけではすまなくなったのである。
 キリスト教がユダヤ教から引き継いだ一神教という考えは、独特な世界観をもたらした。キリスト教的な一神教において、世界は全て神の被造物であり、神が創造した現世に、人間は他の被造物とともに残される。このことは人間に独特な責任を与えることを意味した。キリスト教において、この世のことは人間の責任である。その意味で、この世に生きるキリスト教徒は、現世を超えた意味との関係において、現実の秩序に向き合わなければならなくなった。現世における道徳や社会的紐帯を、信仰の見地から再検討する必要に迫られたのである。
 キリスト教の影響の下、以後の西洋政治思想史においては、政治を非政治と対照してとらえる思考法が定着する。結果として、古代ギリシアに期限を発する政治と、キリスト教的な流れに由来する非政治との緊張に満ちた関係こそが、以後の思想の展開の主旋律となっていった。

・アウグスティヌス

 キリスト教会の秩序と世俗の秩序は、互いに独自の正当性を主張しながら競合していった。両者の関係こそが以後の政治思想にとっての最大の焦点となるが、この議論の展開にあって決定的に重要な役割を果たしたのがアウグスティヌスである。彼によれば、この世には「神を中心として霊に生きる人々」と「自己を中心に肉に生きる人々」が混在している。前者は救われ、後者は救われないが、どちらに属するかは最後の審判まで人間にはわからない。
 このような議論は初期のキリスト教徒には不要で、信仰による団結こそが重要であった。これに対し、信徒の数が増大しローマ帝国の国教になるに及んで、同じキリスト教徒といっても、その中に多様な人々が混じるようになった。
 アウグスティヌスは、神と人間とを媒介するものとしての教会が不可欠であると考えた。国家については、人間の罪や欲望がなくなるわけではない以上、秩序を維持するためには、つねに強制力が不可欠であり、存在理由はそこにあるとした。国家は堕落した人間のための、「罪と罰の矯正」のための存在である、いわば必要悪というのが彼の考えであった。
 キリスト教においては、すべての被造物は神の創造による。そうだとすれば、なぜ神はこの世に悪を許すのか。アウグスティヌスは、神の全能をあくまで皇帝しつつ、悪の原因をむしろ人間の自由意志によるものだと主張する。悪とは人間が自らで選んだものにほかならないというのである。彼の考えに従えば、問題は全て人間の罪から生じることになる。ある意味で、個人の内面性にきわめて大きな比重が置かれることになったのである。
 アウグスティヌスは個人の自由とその責任という問題設定を明確に打ち出した。強調されたのは、あくまで人間の自由であった。自由こそが人間の最も本質的な条件であり、しかもその自由を通じて、人間は善へと到達しなければならない。このような自由論とある種の目的論の結合こそが、後世に多大な影響を残した。

中世ヨーロッパの政治思想

・ヨーロッパ世界の成立

 395年に東西に分割されたローマは、その後二度と統一されることはなかった。このうち特に西ローマ帝国は、476年に早くも滅亡した。いったいいつヨーロッパ世界は生まれたのか。西ローマ帝国の廃墟の上において、諸民族の諸王国の興亡が続いた。7世紀には、台頭したイスラム勢力が地中海の制海権を掌握する。その結果、ビザンティン(東ローマ)とイスラムから切り離された、内陸中心のヨーロッパが取り残されることになった。この時期にヨーロッパの一体性を保持したのは、キリスト教のネットワークであった。ローマの司教がやがて教皇と呼ばれ、ローマ・カトリック教会の頂点に立つ存在となった。
ヨーロッパ世界の成立という意味で大きな画期となったのが、800年のカール大帝の戴冠である。ローマ帝国再生の理念を持ったカロリング朝の、その理念は政治的なものに限定されず、文化的側面を含むものであった。この文化的胎動を「カロリング・ルネサンス」と呼ぶ。ここには、聖書や教父の伝統と、修辞学や哲学の伝統とが緊張感をはらみつつ併存するという、その後のヨーロッパ文明を規定することになる特徴の端緒が見出せる。
このようにして生まれたヨーロッパ世界は、「キリスト教共同体」と呼ばれるようになる。この新たな社会のあり方を封建制という。その中核にあるのは封土であった。封建社会には、常備軍も官僚制も存在せず、あるのは領主間の個人的な支配服従関係の網の目だけであった。したがって、国王といっても、それは封建的な主従関係に基づくネットワーク以上のものではなかった。
このような秩序において、国王の大権と臣下の特権の対立は、つねに大きな政治問題とならざるをえなかった。特権は神聖なものであるとされ、王といえどもこれを踏みにじることはできなかったのである。王が、古来の習慣の集積である「法」を破るとき、臣民には抵抗権が生じた。ここに、支配者といえども法の下にあるという意味で、中世的な法の支配と立憲主義をみてとれる。
キリスト教共同体として発展したヨーロッパ社会は、信仰を基盤とする社会であった。しかし、キリスト教は本来、現世の世俗秩序を超えた非政治的な価値を目指す宗教であった。社会全体の基盤を提供することになった結果、世俗の秩序と聖職者の階層秩序は鋭い緊張関係に立つことになる。同じく神を厳選とする二つの権力のいずれが優位するかという問題はつねに存在した。とくに11世紀の叙任権闘争以後、対立は激化する一方であった。
一方、教会内部の腐敗も目立つようになる。これに対し、教会組織を自ら建て直そうとする聖職者の動きが始まった。このような教会改革運動を受けた教皇グレゴリウス7世の改革により、皇帝の教会人事への介入は退けられることになった。ここに教皇は、皇帝と肩を並べる存在となった。1077年の「カノッサの屈辱」を契機として、教皇権が皇帝権に優位する時代が始まった。やがて13世紀の教皇インノケンティウス3世の時代に、教皇権はその最盛期を迎えた。

・12世紀ルネサンスとスコラ哲学

 聖俗の両権が並立するかたちでヨーロッパ社会が安定を見せる中、「12世紀ルネサンス」が到来する。背景になったのは、経済の発展である。この時期、農業生産力の拡大や商業の復活が見られ、人口も増大した。ヨーロッパ各地に都市が勃興し、やがて大学も生まれる。修道院や司教座聖堂の付属学校に加え、新たに台頭した大学が12世紀ルネサンスの基盤となった。
 この時期にルネサンスが可能になったのは、ヨーロッパ世界がイスラム的アラビア世界の先進的な文明に接し、そこからギリシアやローマ、さらにアラビアの学術や文化を取り入れたからである。いわばルネサンスは、文明接触の産物であった。
  12世紀ルネサンスのこのような側面を代表するのが、シャルトル学派である。シャルトル学派が強調したのは、宇宙の合理的な探求が信仰と矛盾するものではなく、むしろ両者は統合されるべきものであるという考えであった。
 2世紀から8世紀に至るまでもキリスト教哲学が教父哲学と呼ばれるのに対し、9世紀以降のものはスコラ哲学の名の下に統合された。スコラ哲学はアラビア世界からの古典古代文化の継受に大きな刺激を受けて、とくに13世紀に大きく発展した。そこでの課題は、アリストテレスに代表される新たな体系的知を、いかにキリスト教の枠内で受け止めるかであった。シャルトル学派は神学と自然学の共存が可能であると考えたが、さらに神学と哲学の関係があらためて問題となったのである。
 キリスト教神学の中に最大限アリストテレス哲学の全体を統合しようとしたのが、トマス・アクィナスである。信仰の理性に対する優位を認めつつ、しかし理性を否定しないのが、この立場であった。政治社会は罪の産物ではなく、社会を営む人間にとっての自然である。このように考えたトマスは、国家の役割を、平和を維持し、人々に良き生活を行わせることにあると考えた。トマスはアリストテレスの六政体論を継承し、とくに王政に対して好意的であった。それゆえに、王政が僭主政へと転落することを防止するような混合政体のあり方が、彼の議論のポイントとなった。

・普遍論争と中世世界の解体

 中央集権的な権力を欠き、多元的であった中世ヨーロッパ社会は、キリスト教によってその統一が保持された。その意味で、スコラ哲学の論争は普遍論争と呼ばれた。個別の存在をいかに普遍的なものと結びつけるか。このテーマは、哲学的な問題にとどまらない射程を持っていた。
 普遍論争とは、実在論と唯名論との間で展開された。個々の犬や、個々の人間のような個物だけでなく、動物一般や人間一般といった「類」や「種」もまた一種の「もの」であり、実在するというのが実在論である。対して、普遍とは観念であり、名称にすぎないと主張するのが唯名論である。普遍論争は、ヨーロッパ世界の特徴である普遍性と多元性をどのように理解するかを問題にするものであった。普遍性と多元性をなるべく連続的にとらえるのが実在論であるとすれば、両者を鋭く分断してとらえるのが唯名論であったといえるだろう。
 このように普遍をめぐる論争が活発に展開されたことは、逆に言えば、ヨーロッパの普遍的共同体がすでに自明ではなくなっていたことを意味した。ヨーロッパの統一を支えるキリスト教共同体は、この時期すでに解体の兆しを示していた。
封建社会において領主間の個人的な関係のネットワークの中に位置づけられていた王権は、あくまで臣民に歴史的に認められていた特権からなる習慣法の制約の下に置かれていた。しかし、王権はやがてそのような個人的な諸関係を整理・統合し、領域内における一元化をめざすようになる。管轄地を拡大し、裁判権と課税権を自らの手に集中させていったのである。
このような王権の発展の背景にあったのは、貨幣経済の発展である。これを受けて権力の財政的基礎が再編されることになるが、これをよく示すのが身分議会制の発展である。貨幣経済の発展によって領域的なまとまりが形成されることで、国王が諸身分の代表者たちと財政問題を検討する場をもつことが可能になったのである。元来の封建社会とは異質な思考法が、世界の秩序についての新たな展望を開いていった。
カトリック教会によって担われたヨーロッパの統一世界が解体する一方で、世俗の秩序の自律性を主張する議論が発展していく。この時期に見られるのは聖俗の秩序を分離し、世俗の秩序を教会秩序と切り離して論じるタイプの議論であった。

ルネサンスと宗教改革

・マキアヴェリ

 この時期、ヨーロッパの各地で都市の勃興が見られるようになる。とくにイタリアの発展は目覚ましく、都市を中心にその周辺地域が統合させる都市国家が成立した。これらイタリアの都市国家においては、王政ではなく共和制が発展した。11世紀に創設されて以来、イタリアの諸大学においては、法律学や医学と並んで修辞学の研究が熱心になされた。古典古代の文献を解釈し、読み直していく人文主義は、やがて政治化し政治的人文主義へと変わっていった。そこで標榜された、公共の利益を重視し、自治と独立をもって至上の価値とする理念は、共和主義とも呼ばれることになる。
 イタリア都市国家は、やがて教会や皇帝権力からの独立をめざすようになる。しかし都市国家の内部では、都市貴族と平民との間の闘争に加え、皇帝派と教皇派の対立が激化し、イタリアの政治を不安定にした。そのような状況での中で独裁制が台頭してくる。これに対し、独裁からいかに自由を守るかという問題意識から、政治的人文主義者たちは古典古代の文献へ向かうことになる。
 ニッコロ・マキアヴェリが活躍したのは、動乱期を迎えたフェレンツェにおいてであった。マキアヴェリにおいて政治学の伝統は大きな変化を見せる。それを象徴するのがstatoという概念である。政治共同体とそれを構成する自由な市民というモデルに代えて、彼は人々を事実上において支配する君主の力をstatoと呼び、君主と臣民との間の支配服従関係に着目した。
 そのようなマキアヴェリが強調したのが徳の概念である。彼は徳を、人間が状況を読み、果敢に行動することで運命を制御する能力として強調した。彼にとって政治学とは、「statoの技術」にほかならなかった。『君主論』の中で彼は、「statoの技術」を、いかに臣民を統治するか、他の君主といかに付き合うか、軍隊をどのように組織するかという三つの視点から考察している。
 マキアヴェリの議論の背景には、君主の支配はそれ自体が目的ではなく、伝統的な道徳に反してでも、秩序を作り出し維持することが重要であるという信念があった。ここに見られるのは、君主の利益よりも、秩序維持という公共の利益を強調する国家理性論の萌芽である。
 マキアヴェリのもう一つの著作に『リウィウス論』がある。この本の中で彼は一転してローマに注目し、「拡大する共和国」という概念を提示する。内部に対立があっても、それをうまく組織すれば、むしろ強大な軍事的エネルギーを生み出す。市民間の利害対立は必ずしも分裂を意味せず、葛藤や対立に積極的な意味があるとする革新的な発想であった。
 マキアヴェリのみるところ、君主よりも共和国を担い手とするとき、statoは拡大する。『リウィウス論』は共和国それ自体を君主に見立て、共和国の周辺諸国に対するstatoの維持・拡大を論じたものであった。マキアヴェリは単純な君主政支持者ではなく、むしろ共和政をより望ましいと考えていた。とはいえ、共和政における自由よりはむしろ、その軍事的拡大能力に重きが置かれていたことが、彼の議論の特徴である。

・宗教改革

 マルティン・ルターによって始められた改革運動は文字通り、ヨーロッパ社会を再形成するものであった。ルネサンスがあくまで知識人中心であったのに対し、宗教改革は民衆を巻き込んで進行していった。
 宗教改革とは、それ以前の改革運動とはどこが違うのか。それまでヨーロッパ社会の統一を維持するのに貢献してきたキリスト教会の一体性が決定的に失われ、ローマ・カトリック教会に対してプロテスタント諸教会が誕生したことが最も重要である。このことは政治権力のあり方にも影響を与えた。宗教はもはや社会の一体性を保証するものではなくなり、むしろ信仰の相違が政治的対立をもたらしかねないという意味で、宗教は政治にとって重荷となっていったのである。
 ルターが「95カ条の論題」を公にしたのは1517年のことである。教会のなすべきことは、すべて聖書から出発すべきではないか。このようなルターによる問いかけは、究極的にはローマ教皇の存在さえも脅かすものであった。彼の行動は、やがて大きな社会運動へとつながっていく。
 ルターは、人が義とされ、正しい存在とされる唯一の可能性は「信仰のみ」であると説くようになる。この考えを信仰義認説という。彼の信仰義認説は、可視的な教会の意義を引き下げ、むしろ信仰の内面化と個人化を推し進めることになる。そこから、聖職者と一般の信徒もまた平等であるという考えが生まれる。これを万人司祭主義という。彼が批判したのは、教会の腐敗だけではなく、権力機構としての性格を持つ教会のあり方そのものであった。結果としてルターは、世俗の事柄はむしろ世俗の権力に委ねるべきであると考えた。
 宗教改革の結果は大きかった。かつて信仰の普遍的共同体を誇ったヨーロッパは、信仰の上でいえば、4つの宗派に分裂することになった。ある国において「真の宗教」の名の下で迫害された宗派が、別の国では自らこそが「真の宗教」であるとして他の宗派を弾圧する。このようなことが、ヨーロッパの至るところで見られるようになったのである。

・宗教内乱期の政治思想

 宗教改革の結果、キリスト教は分裂し、多元化した。結果として生じたのは、「真の宗教」の名の下の迫害である。君主による迫害に対する抵抗の理論として登場したのが、モナルコマキと呼ばれる議論である。モナルコマキとは王殺しを意味するが、暴君は武力を用いて打倒してもよいとする議論であった。そこには王の大権に対し、自由や特権を主張してきた立憲主義の理論が合流している。抵抗の担い手については、あくまで貴族や各身分の代表者を想定している。個々の人民は抵抗の主体とはみなされておらず、身分のない私人には抵抗の権利はない。
フランスでは最終的に、アンリ4世がカトリックに改宗した後、1598年にナントの勅令を出す。別宗派に対して大幅に信教の自由を認め、これによって混乱に終止符が打たれた。やがて宗教内乱が終息し、フランス王権が安定した1685年にナントの勅令は廃止され、フランスは再びカトリック中心の国家に戻った。
宗教内乱に対するフランスの回答は、絶対王権の確立であった。新たな王権は官僚制と常備軍によって支えられ、王はあらゆる宗教的党派を超えた存在として正当化された。王権が強大化した結果、身分制議会は1614年以降、フランス革命前夜に至るまで開かれることはなかった。
 このような経緯が明らかにしたのは、宗教がもはや世俗の権力を正当化してくれる後ろ盾となるよりはむしろ、信仰の相違に基づく対立や紛争という新たな困難を政治権力に押し付けてくるということであった。結果として、社会がいかに宗教を取り込むかが時代の課題となっていく。
 ジャン・ボダンは『国家論』において、国家を「多くの家族とそれらの間で共通な事柄についての、主権を伴った正しい統治」と定義している。ここで注目すべきは、「主権」という耳慣れない言葉が用いられている点である。ボダンによれば、国家を国家たらしめるのは宗教ではなく、主権である。
それでは主権とは何か。それは「国家の絶対にして永続的な権力」である。絶対であるということは、他のいかなる権力者にも依存・従属していないということである。したがって、主権とは、国内的には諸侯や貴族といった下位のあらゆる勢力に優越する最高の決定権限を指し、対外的にはローマ教皇をはじめとする外部からの干渉を排除できる権限を意味した。また、永続的である以上、主権には任期がない。したがって、貴族や民衆の意向に左右される選挙王政などは、王政といっても名ばかりということになる。
主権とは具体的にはまず立法権であり、さらに外交権、人事権、最終裁判権、恩赦権、貨幣鋳造権、度量衡統一権、課税権などである。注目すべきは、ボダンが立法権を「他人の同意なしにすべての人々また個人に法を与える」権限としている点である。
これは中世以来の「法の支配」とは全く対立する考えであった。法は支配者と被支配者をともに拘束する上位のルールではなく、主権者による一方的な命令である。主権者は、慣習を含むあらゆる既成の法を自由に改廃することができるとボダンは主張した。
ボダンは、アリストテレス以来の、伝統的な六政体論にも変更を加えている。彼は、政体には王政、貴族政、民主政の三つしかないと論じた。これら三つの政体それぞれの統治の良し悪しなど、主権者の個人的属性と同じで、本質的な意味などないというのである。ボダンは、伝統的な政治学において重要な意味をもった公共善の思想を放棄し、もっぱら無秩序の克服に議論のポイントを絞っている。市民についても、自治の契機を捨て、「他人の主権に依存する自由な臣民」として再定義した。

17世紀イングランドの政治思想

・イングランド内乱

 フランスにおける宗教内乱は、最終的には絶対王政の確立によって終焉を迎えた。これに対しイングランドでは、異なる展開が見られることになる。大権を掲げる王権に対し、議会勢力は自らの特権を主張して対抗、英国教会とプロテスタントという宗教対立とも連動して内乱に突入したのである。1642年、王党派と議会は正面から軍事衝突し、イングランド内戦が勃発した。王の大権と貴族の特権の両立を基本的な枠組みとしてきたイングランド国制は、根本的な見直しを迫られた。
 伝統的な枠組みは、あくまで王による暴政を抑制することを課題としたものであった。これに対し、今や暴政を超えて事態は内乱へと行きついた。このような状況を前に、新しい政治学が生み出されていく。
 ネイズビーの戦い(1645年)で、クロムウェル率いる議会軍が勝利し、第一次内乱が終結した。しかし、軍事的対立が一段落すると、今度は議会派の内部で長老派と独立派の対立が激化する。やがて、議会派内部の対立につけ込もうとする国王派によって内乱が再開する。第二次内乱は短期間に終了するが、主導権を握った独立派は1649年、ついに国王を処刑した。ここにイングランドは、貴族院を廃止して一院制の共和国(コモンウェルス)になったのである。
 この内乱を通じて、レヴェラーズ(水平派)と呼ばれる、より急進的な民主的改革をめざす政治勢力が形成された。はたして政治的な権利とは、伝統や習慣によって基礎づけられるのか。レヴェラーズが問い直したのはこの点であった。彼らはむしろ、人間は生まれながらに基本的な権利を持っており、それは自然と理性にのみ根拠をもつと主張したのである。
これまで論じられてきたのは、歴史的に認められた個別的かつ具体的な権利(特権)であった。これに対しレヴェラーズが追求したのは、抽象的かつ普遍的な人間の権利であった。レヴェラーズは議会による支配を受け入れたが、あくまで議会が人民の代表であり、既得権益擁護の機関ではないということがその前提であった。21歳以上の青年男性による普通選挙権を主張した彼らは、いわば人民を単に代表されるだけでなく、代表させる存在へと転換させようとしたのである。
 イングランドは一院制の共和国になったが、王党派による抵抗は続いた。やがて軍を掌握するクロムウェルは議会を解散し、護国卿として独裁を開始することになる。しかしながら、軍事独裁開始後も依然として政治は安定しなかった。結果として、クロムウェルの死後に王政復古が実現する(1660年)。
このような内乱期において、繰り返し論じられたのが「自由な国家」という理念である。この場合の「自由な国家」においては、国家の構成員である市民全体の意志によって政治的決定がなされることが、何よりも重視された。あたかも国家自体を一人の人間とみなすかのように、自由と隷属を語ったのが特徴である。
この時代の多くの人は、自治を行う自由な国家においてこそ、個人もまた自由になると考えた。内乱が信仰する中、自由とはあくまで個人の権利を防御するためのものであるという考えが浸透していった。

・ホッブズ

 内乱が進行するにつれ、イングランド国制は解体し、およそ秩序の存立自体が問われるようになる。自然状態とは戦争状態(「万人の万人に対する闘争」)だとするトマス・ホッブズの政治学の時代が到来したのである。
 ホッブズは、古典的なアリストテレスの政治学に挑戦することになる。理論と実践の領域を区別したアリストテレスに対し、ホッブズは両者の区別を廃棄し、自然と人間を貫く厳密な学の上に、新しい政治学を基礎づけようとした。彼は自らの学問を、『物体論』『人間論』『市民論』として構想した。所与の共同体をいったん原理的に解体した上で、原子化した個人から出発して、秩序の再構築を図ったのである。
 ホッブズにとって、人間は自らの生命を維持するために物質代謝を行う一個の生物にほかならなかった。また、彼は人間の善悪の判断能力を信じていなかった。
 人間にとって肉体的な力や富はもちろん、もっている知恵や雄弁、さらには良き評判までがその権力となる。人間は権力を追求するが、それが相対的なものである以上、他人に対して不断に優越することによってしか維持できない。また、未来は不確実である以上、さらなる権力を追求しないと、今の権力すら保てない。ここから人間の自然状態は戦争状態であるという結論が導き出される。
 ホッブズは、このような人間のあり方を、自然権として肯定した。彼は議論の前提として、まず人間の平等を強調する。それも、理念的な平等ではなく、あくまで実力の上での平等を問題にした。ホッブズによれば、どんなに力のない人間でも、複数で襲えば強者をも倒すことができる。力だけでは支配は不可能であるとして、彼は実力説を否定した。ホッブズにとって、自然権とはまず自己保存の権利であり、そのための手段に関する権利であり、さらに何が適当な手段かを判断する権利であった。人間の社会性をあてにせず、このような人間の自然権だけを前提に、いかに秩序が可能になるか。彼のこの問は、後世に「ホッブズ問題」と呼ばれるようになる。
 人間はもちろん不断の戦争状態には耐えられない。人間の理性は、平和を実現するために努力をなすべきこと、また各自がその自然権を相互に制限すべきことを示している。
 ホッブズは、平和を実現するための一般規則を自然法と呼んだ。この場合の自然法とは、自然権をよりよく実現するための理性の推論にすぎず、自分が契約を守っても、他人がそれを守る保証はない。違反者がいても、それを罰する共通権力が存在しないのである。
 単なる規範意識だけでは自然状態を脱することはできない。それに実効性を与える実力が必要である。ホッブズは、人間は自らの自己保存を実現するためにも、共通権力を樹立し、政治社会を設立しなければならないとした。
 彼は、すべての人間が自らの権力と強さを一人の個人、もしくは合議体を自分の代理人とし、その判断を自分のものとして従うという内容の契約を結ぶことで、共通権力を樹立しようとした。問題は、各人が勝手に判断すること(私的判断)であった。良心を含めた私的判断を許している限り、自然状態を脱することはできない。ホッブズはこの問題を、判断主体を一元化することで乗り越えようとしたのである。
 ホッブズは人間の間に自然な合意はありえず、最終的に人々を動かすのは恐怖の力であるとした。そうだとすれば、人々を恐怖の力で服従させる実力を自然状態からいかに生み出すのか。人々を従わせる実力を、人々の契約によって生み出すというのでは循環論になる。
 ホッブズの説く主権は、決して真理や客観的な妥当性に支えられているわけではない。むしろ、「真理ではなく、権威が法を作る」のであり、自然法が主権者を拘束するとはいえ、何が自然法であるかは主権者が判断する。
 結果として、国家は各個人の自己保存を実現するものでありながら、主権者の権力は無限のものとなる。「正しい統治」といったところで、何が正しいかは主権者が判断する以上、主権者を制約する原理とはなりえないからである。まさにホッブズの国家はリヴァイアサンであった。

・ハリントン

 ホッブズとは違う意味で、伝統的なイングランド国制論の枠を超えた政治論を展開したのが、ジェームズ・ハリントンである。彼は『オセアナ共和国』において、理想の共和国の姿を示そうとする。ハリントンは、古代共和制ローマの混合政体論を継承し、発展させようとした。ホッブズと違い、ポリュビオス的な混合政体論こそが、無秩序を克服する鍵であると、ハリントンは考えたのである。
 ホッブズは恐怖の力こそが、服従を確保する上で重要であるとする。問題は恐怖を生み出すための軍隊をどこから調達するかであった。ハリントンは、法の実現には軍隊の実力が不可欠であるとした上で、さらに軍隊を養うための財産の所在を問題にした。自由であるために、他社の意志に依存しないために、土地所有が重要であると彼は説いた。平等な土地所有に立脚した「共通の利益」の支配こそが、内乱を克服する鍵であるとした。
 ハリントンが重視したのが、「共通の利益」を確保するための、制度構想である。一院制議会の共和政が機能不全に陥り、クロムウェルによる独裁を余儀なくされたイングランドを眼前に、彼は二院制の可能性に着目する。ハリントンは、貴族的な要素と民主的な要素を、元老院と民会の二院制として制度化しようとした。一つは討論をして提案をする議員(元老院)に、もう一つは提案を受けて投票で採決を行う議会(民会)にすればよいと彼はいう。
 元老院に共通の利益を重視するよう訴えるのではなく、そうせざるをえないように追い込むことが重要であるとハリントンは考えた。ただし現実の古代共和制ローマは、貴族と平民の対立が激化したことで倒れた。この点を乗り越えるために、ハリントンは元老院を世襲ではなく、任期制のローテーション制とすることを提案した。
 彼の国制は、権力の主体を複数化することで動的な関係を維持し、政治制度の力によって私的利益を共通利益へと転換していくことが目的であった。1660年に王政が復古したが、その後もハリントンの議論の一部を継承した、ネオ・ハリントニアンと呼ばれる思想家たちが現れた。

・ロック

 政府の権力は人民から信託を受けたものであり、不正な権力に対し人民は抵抗する権利を持っている。このように論じたのがジョン・ロックである。彼はさらに、所有権論を軸に人民の政府との関係を体系化し、恣意的な権力から個人の権利を守ること目指した。
 ロックの議論で特徴的なのはまず、自然法の理解である。ホッブズの自然法が、平和を実現するための理性の推論にすぎなかったのに対し、ロックの自然法は「自然の光によって明らかにされる神の意志」であった。神によって与えられた自然法の規則に、人間は従うことを義務付けられているとロックは考えた。このような議論は、一見、伝統的なものに見えるが、ロックは、人間はあたかも白紙の状態で生まれてくるのであり、何ら生得の本有観念をもっていないと主張した。
 ある意味でロックは、客観的な自然法の秩序を認める一方で、その自然法の内容が生まれながらの人間には備わっていないと主張したことになる。両者の緊張を架橋するのが、人間の認識能力であった。自然法は自動的に人間を支配するのではなく、人間が能動的に自然法を知るとロックは考えた。
 ホッブズの自然状態が「万人の万人に対する闘争」であったのに対し、ロックの自然状態は「各人が自然法の範囲内で、他人に依存することなく、自らの肉体や所有物を自らが適当と考える仕方で処理し、行動する自由な状態」であると考えた。自然法は、自然権を制約するものとしてあらかじめ存在する。また自然状態における人間は、いかなる他社にも従属することがない。つまり、相互の合意に基づかない限り、支配服従関係はありえない。
 ロックの自然状態とは、労働の主体としての個人が、他社の財貨を奪うことなしに自立した状態であり、基本的に平和な状態である。とはいえ、そのような自然状態においても、紛争の可能性はあるとロックはいう。なぜなら、自然状態においては、権利が損なわれても救済手段がないからである。すなわち、各自が自分で自然法を解釈して、相互に制裁を加えるしかない。
 そうだとすれば、各自は自らの所有権を守るためにも、自力救済の権利を放棄して、自然法を解釈し執行する共通の政治権力を打ち立てる必要がある。そのことで個人は自然的権力を失うが、代わりに多数決で意思決定を行う政治社会の構成員になるとロックは論じた。この場合、政治社会の任務は自然法の解釈と執行にあるが、ロックはある種の権力分立論を展開した。また、政府全体の目的を所有権の保全に見出した点も重要である。政府の権力はあくまで、各人の自然権をよりよく保障するためのものである。したがって、政府が人民の信託に違反する場合、人民は政府を解体し、政府に受託されていた権力を取り戻すことができる。
 ホッブズらが、主権の崩壊により社会全体が崩壊し、無秩序につながると論じたのに対し、ロックは仮に政府が解体しても、人民や社会が解体することはなく、あらためて政府を作り直すことができると主張した。このように政府と社会を区別し、両者を対抗的にとらえたことも、後の自由主義の思想につながっていった。

18世紀の政治思想

・モンテスキュー

 イングランドの17世紀は、革命と内乱の時代であった。最終的には名誉革命体制の確立によって内乱が終わるが、結果として生まれたイングランド国制を観察することで、独自の政治学を打ち立てたのがモンテスキューである。
 ルイ14世統治下のフランスで生まれたモンテスキューは、絶対王政による政治的自由の抑圧を批判した一人だった。彼の視点は、単に伝統的な立場からのものではなく、ヨーロッパ中に拡大した交通網の整備や、ヨーロッパ外部からの情報流入を受けてのものであった。モンテスキューは多様な社会を比較するにあたって、その政体と、背後にある社会条件の関係に注目した。彼は人間や社会を抽象的にではなく、あくまで具体的な相においてとらえようとしたのである。
 人間を社会的動物としてとらえるモンテスキューは、ホッブズやロックのように抽象的な個人から出発して、ゼロから契約によって社会を組み立てるという発想をとらなかった。法の理解も独特である。彼は法を、「物事の本性に由来する必然的な諸関係」と定義し、一国の法は決して偶然の結果ではなく、諸条件との間に法則的関係があると考えた。ただし、モンテスキューは、政治のあり方が自然的・社会条件によって完全に規定されていると考えたわけではない。諸条件によって規定されつつも、一定範囲内で政治制度を変更することは可能である。それでは、いかなる制度設計によって専制を回避することができるか。それこそが、彼の最大の関心であった。
 モンテスキューが政体を考察する際、基準は政体の「本性」と「原理」にあった。政体の本性とは、主権を有するものの数である。これに対し、政体の原理とは、その政体の内部で人々を活性化させる情念である。この二つを組み合わせることで、政体を共和政、君主政、専制政の三つに分類できるとモンテスキューは主張した。モンテスキューは、共和政は小国に、君主政は中位の国に、専制政は大国にふさわしいとした。共和政を古代の都市国家、君主政を近代の領域国家、専制政をアジアの帝国に重ね合わせた、彼の見通しがうかがえる。
 君主政が近代社会にはふさわしいと考えたモンテスキューは、古代ローマをそのままモデルとするのでなく、むしろ内乱を克服したイングランドから学ぼうとした。権力集団相互の作用と反作用が政治を動かすといった考え方は、その後の多元的な権力観にもつながっていった。
 ロックの権力分立は立法権、執行権と外交権であったが、モンテスキューはこれに司法権を付け加える。彼は、執行権から司法権を独立してとらえたのである。ここに、後の三権分立論の原型が見出せる。
 モンテスキューは古代の共和政を支えた質朴な徳の精神よりも、自己愛を追求する名誉の精神を政治的に利用しようとした。このことは、経済活動に注目し、これを専制に対抗するための手段として用いようとしたねらいともつながっていた。

・啓蒙思想

 「啓蒙」とは、人間の理性という光によって無知の闇を照らし出し、すべてを合理的な検討の対象とすることをめざす知的運動である。
 18世紀ヨーロッパの知の拠点となったのは、サロン、アカデミー、カフェであった。これらはいずれも人と人、人と情報とが出会う新しい場を提供することになる。ここで生まれた知のネットワークはしばしば、かつての「キリスト教共同体」に対し、「文芸共和国」と呼ばれた。
 啓蒙についてはいろいろな理解がありうるが、最もよく知られているのは、イヌマエル・カントの『啓蒙とは何か』における定義であろう。彼によれば、啓蒙とは、人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることであり、自分自身の知性を使用する勇気を持つことである。「あえて賢くあれ!」これこそが啓蒙の標語であった。
 「自分自身の知性を使用する勇気」とは何であろうか。カントのみるところ、人間は自分の頭で考えようとする前に、なんらかの権威に頼ろうとする。人に聞くことそれ自体が悪いわけではない。問題は、最終的に自分で判断することを恐れ、だれか「権威」ある存在に、自分の代わりに決めてもらおうとすることである。
 人間はみな、独り立ちするのに十分なだけの知性を与えられている。それなのにその人が「賢く」ないとしたら、原因は知性の欠如ではなく、勇気の欠如にある。人はなぜ他者の指導に従うのかといえば、その方が楽であり、安全だからである。いわば怠惰と臆病こそが自己の知性の使用を妨げているのであり、啓蒙に必要なのは、知性の後見人からの独立であるとカントは主張した。啓蒙とは、だれか優れた者がより劣るだれかを教え導くことではない。その逆である。
 カントが理性の公的使用と私的使用を区別しているということも重要である。それでは、理性を私的に使用するとはどういうことか。意外なことに、ある個人が職場の役職に基づいて発言するとき、それは理性の私的使用であって、公的使用ではないとカントはいう。なぜなら、理性を公的に使用するとは、一人の個人が地位や立場を離れ、世界市民社会の一員として考え、発言することを意味するからである。したがってある軍人は、上官の命令がおかしいと思っても、組織内部ではそれに従う必要がある。とはいえ、ひとたび勤務時間を終えれば、一人の市民として組織の瑕疵や不正を告発できるし、そうしなければならない。
そのためにも、人々が自らの理性を公的に使用し、発言するための公的空間が必要である。その意味で、出現した新たな知のネットワークが、カントの啓蒙理念を支えたのである。
 この時期、哲学の内容にも変化が見られるようになる。ヴォルテールは『哲学書簡』においてイギリスの経験論哲学の紹介に努めたが、それはいわば、バロック期の知の巨人であったデカルトやパスカルに代えて、ロックとアイザック・ニュートンこそが知の参照点であると宣言するに等しかった。このような知のパラダイム転換を一言で表現すれば、形而上学から経験論への移行となる。すなわち、独断的な理性ではなく、あくまで人間の経験的能力を重視するという立場であった。

・スコットランド啓蒙

 1707年、イングランドとスコットランドが合邦する。この合邦によってはじめて、グレートブリテン王国(現在の日本でいうイギリス)が成立したのである。このことは、両国社会に大きな影響を与えたが、とくにスコットランドにおいて変化が激しかった。
 急激に発展する社会のあり方をどのようにとらえるべきか。このような関心から、多くの思想家が現れ、スコットランド啓蒙と呼ばれることになる。彼らが論じたのは文明社会論、歴史、政治経済学であり、現代の社会科学におけるほとんどの領域をカバーしている。他方、イングランドでも、常備軍を拡充する一方、イングランド銀行の創設や公債発行によって財政革命を経験した。イギリスはいよいよ大国への道を歩み出したのである。
 商業活動が活発化し、社会変動が激しくなる中、あらためて社会の変化を理論化する必要が出てくる。まさに「富」と「徳」こそが、時代のキーワードになっていった。
 ネオ・ハリントニアンと呼ばれる人々は、自由と独立への気概を土地所有と結びつけている点に、特徴があった。このような視点に立つとき、商業活動の活性化によって人々が奢侈を追い求め、物欲を募らせることは、由々しい事態であった。人々は土地ではなく、動産を追い求めることに夢中になり、政治を支える公共精神が失われていくからである。
 このような危機感を持ち、あくまで土地所有に重きを置いた人々はカントリ派と呼ばれた。これに対し、むしろ商業的活動の意義を評価する人々は宮廷に集まり、コート派を形成する。両派の対立こそが、この時期のイギリス政治の中心的主題となったのである。
 カントリ派とコート派の対立の焦点になったのは、常備軍問題であった。財政革命による歳入増加の結果、常備軍の保有が可能になると、戦争時に貴族が民兵を編成してきた伝統が揺らいでいく。カントリ派にしてみれば、民兵の制度こそが国を支える公共精神の基盤であり、これが失われれば武力を独占した王による専制政治は不可避であった。しかし、やがてこのような対立を無効にするような議論が出てくる。
 バーナード・マンデヴィルはその著作『蜂の寓話-詩人の悪徳すなわち公益』において、人間の自己愛こそが商業社会を支えていると主張した。これは伝統的な、奢侈と腐敗を結び付けて批判する議論を否定するものであり、私人の悪徳であるはずの利益追求が、むしろ社会の発展をもたらすというものであった。
 私的利益の追求を公共精神と対置し、二者択一を迫るような思考を乗り越えようとするマンデヴィルの議論は、スコットランド啓蒙の思想家たちによってさらに発展することになる。彼らにとっての重要なテーマは、未開、野蛮、貧困といった状態から、社会はいかにして洗練された豊かな文明社会になるかであった。
 ここで登場するのが、有名な四段階の発展論である。彼らは歴史を、狩猟・採集段階、牧畜段階、農業段階、そして商工業段階へと分類する。いわば普遍的な人類史の見取り図として、歴史の発展を示したのである。このような四段階論に基づき、スコットランド啓蒙の思想家たちは、文明社会にふさわしい道徳哲学、商業社会論、国制論を探求する。中でもアダム・スミスは、『諸国民の富』を発表することで、法学とも政治学とも区別される経済学の領域を確立することになった。
 スコットランド啓蒙の思想家たちは、政府と社会を明確に分離し、社会を人間の分業と交換が生み出した自律的な領域としてとらえた。人間の水平的な相互作用の結果として形成されたのが文明社会であり、文明社会はもはや個々人の行為によって影響されることなく発展していく。文明社会を商業が発展した自由な社会として積極的に描き出したのが、スコットランド啓蒙の特色であった。

米仏二つの革命

・ルソー

 学問や商業による社会の発展を信じた18世紀人に対し、文明社会に対し批判的で、時代錯誤とも言える態度をとったのがジャン=ジャック・ルソーであった。学問や芸術が発展し、奢侈や退廃がはびこり出した、徳が失われ、才能ばかりがもてはやされる時代に、ルソーははっきりと背を向けた。
 問題は、このようなルソーの反時代的な姿勢がもった意味である。啓蒙思想が文明社会による無知や野蛮の克服を説き、古代社会が完全に過去のものになったかに思えたこの時代にあって、ルソーの問い掛けは、18世紀的な文明に根本的な反省を促すものであった。結果として、あたかも時代錯誤的かに見えたルソーの態度は、ラディカルな政治批判へとつながっていった。徳と自由を掲げたルソーは敢然と革命の論理を追い求めたのである。
 社会の不平等を容認し、自然法で正当化した啓蒙思想家が少なくなかった中、ルソーは『人間不平等起源論』において、これに正面からの批判を展開する。ホッブズ、ロックに遡って自然法論を検討し直すことで、独自の社会理論を築いていったのである。
 ルソーのいう自然人とは、いわば未開人である。彼らは孤立して暮らすが、自由かつ平等である。そのような自然人はいかなる情念を持っているだろうか。ルソーがあげるのは、自己愛に対する関心「自愛心」と、同胞の苦痛に対する本能的な嫌悪「憐憫の情」の二つである。自然人にあるのはこの二つの情念だけであり、生まれながらの社交性は存在しない。しかし、自然状態においては、人と人との接触は偶発的であり、憐憫の情もあるので、戦争状態に陥ることはなかった。とはいえ、彼らには様々なものを比較して選択する能力と、ものごとを改善していく自己完成能力が備わっていた。これらの能力が互いを増幅することで、人間をめぐる状況は次第に変化していく。やがて定住して農業を開始し、冶金の術を覚えた人間は、相互の接触の機会も増えていった。結果として人間は、次第に相互を比較しはじめる。ついには純粋な「自愛心」とは異なり、相互に優越を求める「利己心」を抱くように至ったのである。
 利己心をもった人間は、それまで共有だった土地線を引き、私有財産制度を作り出した。結果として競争と対立が日常化し、不平等が社会に定着する。憐憫の情は影を潜め、むしろ戦争状態が恒常化することになった。このような状況を打開するために国家を発明したのは、金持ちたちである。しかし、そうして生まれた政治社会は、不平等を是正するどころか、それを維持するものであった。
 このような状態に陥ったとき、人間にどのような選択肢が残されているか。もう一度自然状態に帰ることは不可能であろう。だとしたら、現状の政治社会とは全く違う、人間が人間らしく生きられる政治社会をあらためて構想すべきではないかとルソーは考えた。
 ルソーがこのような課題に取り組んだのが、『社会契約論』である。彼はまず、権力の正当性に問題をしぼった。人はなぜ服従しなければならないのか。服従を正当化しうるのは、自由で平等な諸個人による社会契約だけである。このように結論づけたルソーは、さらに「すべての人々と結び付きながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であるとこは可能か」という問いを自らに課す。その答えは、各人が等しく自らとその権利をすべて共同体に譲渡することであった。その条件はすべての構成員に等しい以上、だれも服従の条件を不当に厳しくしようとする人はいない。
 社会契約によって成立する共同体において、集団としての人民が主権者となるが、主権者の命令に従うことは、自分自身の意志に従うことに等しい。自分がその一員として決めた規範に自発的に従っている以上、人々は完全に自由かつ自律的だからである。この結合により人々は一つの精神的な集合体を作り、その集合体と完全に一体化する。結果として、各人は、それまでの自らの特殊な意志に代わり、集合体の共同の自我の一般意志に服することになる。
 ルソーは、各個人の特殊な意志の総和である全体意志と一般意志を区別した。彼にとって、全体意志があくまで私益の集計であるのに対し、一般意志は人民全体の共通利益を志向するものであったからである。社会契約に同意したすべての人間が主権者であると同時に臣民となり、単一不可分の主権の下、一般意志が具現化したものとしての法を人民自身が打ち立てるというルソーのモデルが、人民主権の最も明確な像を提示したことは間違いない。

・アメリカ独立と『ザ・フェデラリスト』

 1776年、アメリカ合衆国は独立を宣言した。このことは、単なる植民地独立にとどまらない意味をもっていた。当時のイギリスは、大西洋をまたいだ連合王国であった。北米植民地の独立は、連合王国自体のあり方自体を動揺させ、その再編にもつながりかねない大事件であった。しかも、独立したアメリカは、国王も貴族も存在しない共和国であった。それゆえにこのことは、同時に王政から共和政への移行を意味したのである。
 問題は、このような植民地人による反英闘争を支えた思想的根拠である。「独立宣言」を見ればわかるように、そこにはロックの自然権の影響が強く見られる。とはいえ、アメリカを独立に導いたのはロックの思想だけではなかった。ハリントンやネオ・ハリントンが示した、自由な土地保有者である徳ある市民とその共和国というモデルは、本国以上に、アメリカにおいてリアリティをもっていた。いわば、共和主義の思想が新大陸の土地の上に開花したのである。
 イギリスから独立するか、あるいは和解するか。逡巡を続ける植民地人を後押ししたのは、実はイギリス人のトマス・ペインであった。彼が独立前夜にアメリカに渡って書いた『コモン・センス』は、イギリスからの独立こそが植民地人にとっての利益であるという。まさに新たなコモン・センスを形成するものであった。
 ペインによるイギリス国制批判は大きな意味をもった。それまで大陸諸国に比して自由の国とされてきたイギリスのイメージを変化させ、ヨーロッパ諸国はいずれも腐敗し、専制への危機に瀕しているという理解がアメリカ社会に広まる一因となったのは、ペインの著作の力であった。ペインは『人間の権利』において、単純な民主政と代議制を区別している。共和国は小国においてのみ可能であるという当時の常識に対し、代議制と民主政を組み合わせることによって、大国においても共和政は可能であると論じたのである。
 イギリスからの独立を達成したアメリカであったが、戦争の終了は外敵の消滅を意味した。結果として、独立した諸邦の一体性は弱く、連合規約は文字通り、独立国家間の条約に過ぎなかった。このままでは対外的・対内的な危機に対応できない。このような危機感から、連合規約の改正による、新たな合衆国憲法制定への動きが生まれたのである。しかしながら、独立したばかりの諸邦は、中央政府の強化に警戒的であった。新憲法の批准に躊躇する諸邦を説得するために、執筆されたのが『ザ・フェデラリスト』である。
『ザ・フェデラリスト』の工夫はまず、その権力を制限するために、立法府を二つに分割して、相互に影響力を相殺させることであった。また行政権には拒否権を与えて独立性を強化し、独任制の大統領の任期を長く設定した。司法権に違憲立法審査権を与えたことも、立法府の権力を抑制するためである。
 党派容認論も『ザ・フェデラリスト』の特色である。共和政に党派はつきものであり、これを抑制するよりはむしろ許容すべきであると主張した。とくに国土の広いアメリカでは利益も意見も多様であり、単一で恒常的な多数派の支配は成り立ちにくい。代表制と連邦制を組み合わせることで、党派の害悪は回避可能であるとする議論は、後の政治的多元主義にもつながっていった。

・フランス革命とバーク

 新大陸に共和政が創設されて間もなく、ヨーロッパ大陸の王政を代表する存在であったフランスも激動の時代を迎えた。財政破綻に瀕した王権は増税の必要から約170年ぶりに身分制議会である三部会を開催するが、これを機にフランスは革命への道を歩み出したのである。
 文明社会への発展の先頭を切っていたはずのフランスにおいて、革命が起きた衝撃は大きかった。それまでフランスの一体性を象徴していた王が処刑され、伝統的な王権の正統性は否定された。歴史の継続性はここに大きな断絶を経験することになったのである。
 新たな共和国を作るにあたって、参照されたのはやはり古代ローマであった。アメリカにおいても、共和政ローマをモデルに独任制の大統領、元老院にちなんだ上院、そして民会に相当する下院が設置されたが、フランス革命の場合は国制論というよりは、共和国を支える徳や祖国愛が強調された。
 革命が急進化する中でうまれた共和国は、伝統的な王権の正統性を否定したことで、フランス国家の存在の無根拠性に向き合うことになる。従来の王国を構成した身分や団体の秩序を解体し、諸個人による社会契約を強調することになったのも、このためである。あらゆる中間団体が否定され、すべての社会的紐帯から切り離された諸個人から成る共和国。このような共和国を支えるべく、徳や祖国愛といった精神的要素を強調した指導者たちが、ルソーの理論に近づいていったのは必然的であった。
 しばしばルソーの思想がフランス革命の原因になったといわれる。が、むしろ革命が起きてから、脆弱な正統性に苦しんだその指導者たちが事後的にルソーを再発見したという方が事実に近い。
 はたして、社会的つながりから切り離された抽象的な諸個人は、社会を作り出せるのか。文明社会の発展を否定して、革命によって時間的断絶を生み出すことは可能なのか。このような課題に答え、保守主義の礎を定めたのがエドマンド・バークであった。
 バークが強調したのは家柄による貴族ではなく、天性の貴族である。識見・能力に優れたものが、「アリストクラシー(優れたものの支配)」として民衆を支配する。土地所有者のみならず、バークは新興の商工階級にも着目した。また、彼は議員を選挙で選ばれなければならないと主張した。
 バークによれば、選挙区ごとに選ばれるとしても、議員はあくまで国民全体の代表であって、選挙区の代表ではない。ひとたび選ばれたならば、議員は選挙区の利害を離れ、広く国民的な視野に立って行動しなければならないのである。また、議員はあくまで自らの思想信条に従うべきであり、選挙民によって議会が拘束されることがあってはならない。議員は委任や代理を受けた存在ではなく、それゆえに頻繁な選挙も望ましくない。バークはあくまで議会の独立を強調した。
 伝統的に、政治における党派や派閥は否定的にとらえられてきた。党派とは部分利益であり、公共の利益よりも自分たち個別利益の実現をはかる存在とみなされてきたのである。これに対し、党派についてのとらえ方を大きく転換させたのが、ヒュームである。ヒュームは、自由な国家には党派はつきものであり、否定すればむしろ自由も失われるとした。これを受けて、国家が十分に大きければ、むしろ利害や意見を多様化させることで、党派の弊害は避けられると主張したのが『ザ・フェデラリスト』である。
 バークもまた、このような議論の系譜に属する。彼にとって政党は、政治的バランスを保持するものであった。バークの定義によれば、政党とは共通の原則や原理によって結ばれた、国家の利益を実現するための人間集団であった。ここに部分的利益としての党派は、近代的な意味での政党に大きくその性質を変えたのである。
 人間は決して白紙で生まれない。社会的動物としての人間は、習慣を身につけることではじめて人間となる。バークは1790年、『フランス革命の省察』で先入見という、ある社会において歴史的に定着したものの見方や考え方を意味する言葉を使っている。このような先入見なしには、人間は何一つ判断することはできないし、正しく行動することもできない。
 社会も歴史の中で形成されるのであり、各国の国制は慣習を通じて確立する。国家は社会契約によって打ち立てられるものではなく、時間の経過とともに自然に成長してきた産物なのである。人間の自由もまたその枠内においてのみ存在すべきであり、先入見や慣習抜きの自然状態などは、単に無秩序であり、各国の歴史的な伝統によって一つ一つ確認されたものが真の権利である。それゆえに抽象的な人間の権利などありえない。それなのにフランス革命は、抽象的な個人の権利を振りかざして、歴史的に構築されてきた国制の複雑な構造を破壊してしまったとバークは批判する。
 バークの保守主義は、単なる伝統主義や、過去の社会への復帰を求める反動ではない。それはむしろ、フランス革命という、歴史に明確な断絶をもたらす事件に対し、あらためて歴史の連続性を強調し、一つの社会を支えているものを自覚的にとらえ直す試みであった。

19世界の政治思想

・ヘーゲル

 ドイツの小邦ヴュルテンベルク公国に生まれたG.W.F.ヘーゲルにとって、フランス革命に対する評価はバークよりはるかに両義的であった。彼は人類の歴史を自由の実現の過程としてとらえた。そのようなヘーゲルにとって、フランス革命は、人間の自由が旧体制と真正面から衝突し、その最終実現に向けて大きな一歩を踏み出した、まさに近代史における最大の事件であった。しかし、ヘーゲルが全く無批判であったわけではない。彼はむしろ、フランス革命が悲惨な恐怖政治に終わった理由を問題にした。
 恐怖政治は革命の過程で起きた単なる偶然ではない。問題は、個人と政治的共同体の関係にあるとヘーゲルは考えた。ルソーの一般意志の議論にも示されているように、フランス革命は個人の意志と共同体の意志を、あまりに直接的に結びつけるものであった。
 個人と共同体との関係ははるかに複雑なものではないか。ヘーゲルは、個人がいかにして国家へと媒介されていくのかを問題にしていった。そもそも個人は、アトム(原子)のようにバラバラに存在するものではない。個と全体を包括的にとらえる概念として、ヘーゲルは人倫という概念を示した。個人は具体的な社会制度や組織の中に位置づけられてはじめて人間となるのであり、そのような具体的な社会的諸関係を彼は人倫と呼んだのである。
 ヘーゲルは、理念と現実を二項対立的に考えるのではなく、むしろ理念が現実化していく過程として歴史をとらえようとした。すなわち、表面的には矛盾して見えるものごとは、対立を通じてより高いレベルでの普遍性を実現していく。このような考え方をヘーゲルは弁証法と呼んだ。歴史は、弁証法的に発展していくのである。
ヘーゲルが注目したのは、行政と職業団体である。行政は経済政策や規制により資本主義が生み出す社会問題を解決し、職業団体は個人を「第二の家族」としての団体へとまとめあげる。困窮するバラバラな諸個人に配慮し、個人を国家へと媒介するのが両者の役割であった。
このような段階をふんで、ヘーゲルは普遍性を実現すべき国家を論じる。ヘーゲルが注目するのは立憲君主制である。その背景には、市民社会の特殊利益の代表としての議会が、そのままでは普遍性を実現できないとする彼の判断があった。ヘーゲルは職業団体を基盤に選ばれる代議士による下院を、土地所有貴族による上院と組み合わせて立法権とし、これをさらに君主権は執行権によってコントロールしようとした。彼が普遍性の担い手と考えたのはあくまで、国家の統一性を体現し、最終的な意思決定の主体となる君主権と、市民社会の諸利害から中立的な官僚による執行権であった。
このようにヘーゲルは、立法権、執行権、君主権を相互に抑制均衡するものとしてはとらえておらず、あくまで三権を有機的に連帯して協力するものとしている。また議会に期待されたのは、市民社会の利害を国家に伝えることよりはむしろ、国家の普遍的利益を市民社会へと教化することにあった。ヘーゲルにとって、人倫の体系は、個人が普遍的なものに気づき、全体の中での自分の位置を自覚していく過程であった。君主や官僚こそを普遍的身分としたヘーゲルは、その意味で、政治的自由の思想家とは言い難い。
それぞれ世界的な使命を担った民族が興亡を繰り広げることで世界史は進み、結果として自由に向けて世界精神が自己展開していく。ヘーゲルはこのように世界史を展望したのである。

・トクヴィルとミル

 フランス革命は最終的にジャコバン独裁へと行き着き、クーデタによって終止符を打たれた。しかしその後も政治的不安定は続き、ナポレオンによる帝政とブルボン朝の王政復古、さらに七月革命と二月革命が続いた。この過程で、革命の継続を訴える急進派と、伝統や身分制的秩序を擁護する保守・反動勢力の対立が明らかになっていった。
 ところが両者の間にはやがて、第三の勢力が現れてくる。この立場は、所有権の確立をはじめとする革命の基本的意義は認めるが、恐怖政治を生んだ革命の過程を否定した上で、さらなる革命も否定する。いわば、「革命を終わらせる」ことを目指すこの勢力が、自由主義と呼ばれることになった。
 自由主義勢力にとって課題となったのは、ルソーの思想とフランス革命の衝撃をいかに受け止めるかであった。個人の自由と権利の実現を目指し、そのために人民主権をめざしたフランス革命は、なぜ恐怖政治に陥ってしまったのか。このような問いを研究する中で、自由主義者たちが注目したのがルソーであった。
 この時期を代表する自由主義者に、バンジャマン・コンスタンがいる。コンスタンによれば、ルソーは「古代人の自由」と「近代人の自由」の違いを理解しておらず、結果として、近代社会において古代的な自由を追い求めるという時代錯誤を犯してしまった。そもそも問題の立て方が適切ではなかった。というのも、個人の自由にとって重要なのは主権の所在ではなく、主権の及ぶ範囲だからである。ある意味で、コンスタンはルソーによる個人と政治的共同体の和解という理念を否定したことになる。このように、デモクラシーとの緊張関係において個人の自由をとらえる視点こそが、この時期の自由主義を生み出すことになった。
 コンスタンの問題意識を継承したのが、アレクシ・ド・トクヴィルである。トクヴィルは「多数者の暴政」や「民主的専制」といった言葉を用いたが、これは伝統的な暴政や専制の概念を、君主ではなく、多数者やデモクラシーと結びつけたものである。民主的社会においてもなお、個人の自由が抑圧されることがある。自由にとっての新たな危険性をトクヴィルは指摘したのである。
 『アメリカのデモクラシー』でトクヴィルは、古代ギリシア以来の政体の一分類である「デモクラシー(民主政)」という言葉を使っている。それまで、デモクラシーとは多数者が支配する政体であり、しばしば衆愚政治と同一視され、否定的な意味で用いられることがほとんどであった。これに対しトクヴィルは、デモクラシーこそが神の摂理であり、人類の未来であるという。この場合、トクヴィルがいうデモクラシーとは、単なる政体分類の一つではなく、平等な個人から成る社会状態のことを指す。身分制秩序が支配するアリストクラシー(貴族政)の社会は、必然的にデモクラシーの社会へと移行していくとトクヴィルは論じた。
 トクヴィルがデモクラシーを肯定的な意味において用いたことは、西洋政治思想史における重要な画期となった。とはいえ、トクヴィルはアメリカのデモクラシーが理想的といったわけではない。むしろ、デモクラシー社会には固有の危険性があり、これをいかに免れるかが、トクヴィルの課題であった。
 トクヴィルは、権力の集中こそがデモクラシー社会に固有な危険であると考えた。デモクラシー社会において、伝統的な権威は否定されるが、それに代わって社会の多数者の意見が力をもつ。また富と財産の追求こそが人々の関心事となり、物質的快楽へと、社会の価値が均質化する。結果的に、一元化した世論はかつてない権威をもつようになる。しかも、個人は伝統的な社会におけるつながりを失い、自らの内に閉じ籠る。このことをトクヴィルは利己主義と区別して個人主義と呼んだが、そのような個人は、他社と協力するよりはむしろ、絶対化した権力の「柔和な専制」に唯々諾々を服従する。
 トクヴィルと同時代のイギリスを生きたのが、ジョン・スチュアート・ミルである。トクヴィルとも交友をもったミルは、『自由論』において、個人にとっての自由の意味、さらに国家や社会が個人に対して行使する権力の道徳的に正当な限界を考察した。
 若き日のミルは、功利主義の若き秀才として出発した。功利主義とは、社会の最大多数の最大幸福を目的とし、あらゆる政策や個人の行為は、この目的に対する貢献によってはかられると主張するものであった。しかし、道徳的に重要なことをすべて快楽と苦痛という尺度に還元することに反発するようになったミルは、人間の快楽には質的な区別があり、むしろ個人の多様性や個性こそが価値であると考えるようになった。このように考えたミルは、『自由論』において、自由は個人の発展にとって不可欠であると論じた。
 トクヴィルと同じく、個人の自由への脅威は国家だけではないと考えたミルは、「多数者の暴政」を批判し、意見の多様性を認めず、個人を隷属させる社会の同質化圧力を告発した。また、政治に参加することで、人々が公共の事柄を学ぶという政治教育の効果にも着目した。個人の自己陶冶による能力の開花にこそ、ミルは期待したのである。

・社会主義とマルクス

 18世紀後半にイギリスで始まった産業革命は、19世紀になるとヨーロッパ大陸諸国にも拡大していく。しかし、産業化の進展には光と影があった。都市における貧困者層の増大とその境遇の悪化は、まさに負の側面を象徴するものであった。
 フランス革命は、政治的には人々を自由で平等な市民とし、経済的にも所有権の確立など、資本主義の発展に道を開いた。しかし政府のあり方を変え、市場を導入したからといって、貧困や社会問題が解決されるわけではない。だとすれば、必要なのはより根源的な解決ではないか。ここで注目が集まったのが「社会」である。
 政治的な支配服従関係とも、経済的な取引関係とも異なる、人と人との諸関係の総体。この意味での「社会」の根本的な変革が時代の課題として浮上した。このような視座からすれば、文明社会は決して豊かな社会ではなかった。実際には貧困が増大し、資本家と労働者の階級対立が激化していた。
 そもそも文明社会の根底にあるエゴイズムや物質主義にこそ、問題があったのではないか。これらを放置している限り、道徳的退廃は必然なのではないか。このような問題意識こそが社会主義の諸思想を生み出したのである。
 登場した初期社会主義思想の多くは、後にマルクスらによって「空想的社会主義」と呼ばれることになる。具体的な実現方法を欠くことから「空想的」とされたこれらの構想は、決して一枚岩ではなく相互に矛盾もあったが、19世紀における社会変革の多様なビジョンを示すものだった。
 ヘーゲル左派として出発したカール・マルクスがフランス革命に見出したのは、「市民」と「人間」の分裂であった。人は市民として政治的共同体に参加する一方、経済活動の主体として自らの欲望を追求する。マルクスは、政治的開放だけでは不十分であり、必要なのは人間の開放であると考えた。そのために重要なのは国家ではなく、市民社会そのものの抜本的改革である。
 このように考えたマルクスは、同時代の社会主義者が直ちに倫理的考察に向かったのに対し、むしろ人間の労働・生産活動そのものに着目した。人間は「物を作る動物」であり、労働を通じて働き掛けることで自然を変化させ、物を作り出す。その意味で、人間にとって自由な生涯とは、生産活動を通じて作り出した物の中に、自らの活動の意味を見出すことにある。
 マルクスは、問題の根源は労働が商品になっていることにあり、そのことは私有財産制と表裏一体であると考えた。彼は、人間解放の見通しを階級闘争というビジョンで示した。歴史を絶えざる階級闘争の過程として理解したマルクスは、有産階級であるブルジョワと、自らの労働力を商品として売るしかないプロレタリアートの対決が迫っていると考えた。窮迫化したプロレタリアートがブルジョワから権力を奪取し(プロレタリアート独裁)、生産手段を国有化することによって、階級対立の歴史は終わりを告げる。階級対立がなくなることで、政治権力は無用になり、残るのは物の管理だけであるとマルクスは予言した。
 マルクスは自らの立場を共産主義と呼んだ。市民の個人、国家と市民社会の矛盾を乗り越えることで、真の共同性を実現するとしたマルクスの予言は、20世紀の社会主義革命とその体制崩壊によって、あるいは実現し、あるいは裏切られたのかもしれない。

20世紀の政治思想

20世紀とはデモクラシーの世紀であった。西洋政治思想の歴史において、必ずしも肯定的に用いられて言葉ではないデモクラシーの理念の評価は20世紀に激変する。二つの世界大戦は、その大きなきっかけとなった。
第一次大戦の結果、戦争に敗れたドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国だけでなく、ロシアでも革命が起こり帝政は終焉した。軍事力のみならず、経済力を含めた一国のすべてが戦争に投入される総動員体制の時代に、帝国はもちこたえられなかったのである。
第二次大戦の場合、デモクラシーと全体主義の対決という意味合づけが、とくに途中から参戦したアメリカによって強調された。ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、そして日本の軍国主義は「全体主義」の名の下に一括されたのである。そして冷戦の開始後は、ここにソ連のスターリニズムが加えられることになる。
戦争中には、兵士はもちろん女性を含め、多くの国民が戦争遂行のために動員された。結果として、このことが選挙権の拡大へとつながっていく。戦争に貢献する以上、政治的発言権も認められるべきである。奇しくも古代ギリシアと似た論理によって、戦争とデモクラシーが結びついたのである。このようにして戦争とデモクラシーの正当性は急速に高まった。
今日、最も独裁的な国家すら、独裁の目的は民衆の利益の実現にあり、自らこそが真のデモクラシーを体現していると主張する。デモクラシーの理念を否定する体制が、事実上なくなったのが20世紀であったともいえる。その分、デモクラシーとは何かが曖昧になったことも間違いない。
その一方で、急激に政治参加が拡大したことの意味についても、関心が集まっていく。人々は本当に政治的な諸問題を理解し、適切な判断を下すことができるのか。デモクラシーの担い手としての民衆の能力が問い直されたのである。関連して、マスメディアの拡大によるプロパガンダや政治的操作が問題視された。また、デモクラシーの正当性が高まるにつれ、人民の統治能力への懐疑的なまなざしも強まっていった。
政治の意味を根源的に見直した思想家に、カール・シュミットとハンナ・アーレントがいる。シュミットは『政治的のものの概念』において、社会とは決して自動的に調整されるものではない、むしろ政治の本質は、友敵関係にあるのではないか、という独自の結論をだした。例外的状況においては、だれが友で、だれが敵かが死活的な意味をもつ。シュミットはそれこそが「政治的なるのも」の本質であるとした。この区別を曖昧にするとき、その国家は滅びざるをえない。例外的状況において政治的な決断をするものこそ主権者であると彼は論じた。
シュミットと全く異なる政治の理解を示したのが、アーレントである。彼女は『全体主義の起源』において、19世紀的秩序の崩壊後、相互に孤立した大衆を政治的プロパガンダによって動員したのは、イデオロギーに基づく単一政党であったと述べる。テロル(恐怖政治、粛正政治)の支配する全体主義の時代とは、あたかも政治がすべてを支配したかのような時代であった。しかしながら、政治とは本当にそのようなものなのか。アーレントは古代ギリシアに遡って、本来の政治の意味を問い直す。
彼女は『人間の条件』において、人間の営みを労働(labor)、仕事(work)、活動(action)に分けて考えた。日々の糧を得るためのルーティンな「労働」、一回限りの個性的な作品を残すための「仕事」が、共に人間と物との関係に重点を置くのに対し、アーレントは第三のカテゴリーとして、人間が言語を介して他の個人と交わる活動を位置づける。彼女はまさにこの活動にこそ、政治の本来の意義を見出したのである。
アーレントにとって政治の本質は複数性にあり、この複数性を否定する全体主義が支配した20世紀は、政治が支配したどころか、政治が見失われた時代にほかならなかった。
やがて福祉国家の時代が到来し、国家の役割が次第に拡大するにつれ、自由主義の意味も変わっていく。すなわち、国家の役割を狭い意味での治安維持や安全保障に限る19世紀的な「夜警国家」観に代わり、国家が社会保障を通じて国民の生活の安定をはかる「福祉国家」が発展していったのである。
このような変化を理論的に支えた経済学者が、イギリスのジョン・メイナード・ケインズである。ケインズは自由放任的な市場経済の限界を強調し、社会主義に対抗するためにも、政府が積極的に公共投資等を通じて経済を刺激する必要があると説いた。1929年にアメリカで始まった世界恐慌が、その考えの説得力を増した。
結果として、個人の経済的・社会的条件を改善するために、政府が積極的な役割を果たすことは、自由の否定ではないという考えが台頭する。個人の自由を実現するため、国家の役割をむしろ積極的に擁護する立場が自由主義(リベラリズム)と呼ばれるようになった。小さな政府を掲げていた自由主義は、「大きな政府」へと大きくその立場を転換したのである。
当然、このような自由主義概念の変質に対する反発も出てくる。とくに、東西冷戦期における西側諸国が低成長期に入り、「大きな政府」の機能不全や非効率性が語られるようになった1970年代、古典的な自由主義復興の動きが強まった。
この動きを代表するのが、フリードリヒ・ハイエクである。ハイエクは、計画経済の非効率性を批判し、むしろ18世紀の啓蒙主義の思想家たち等に遡って、本当の自由主義を取り戻すべきだと主張した。彼らによって復興された古典的な自由主義の思想は、その後、「新自由主義」と呼ばれることになる。
それでは、現在の政治思想において問われているのは何であろうか。論点は多岐にわたるが、あえて権力論、正義論、帝国論の三つに絞りたい。
権力論という場合、伝統的には国家の専制的な権力からいかに個人の自由を守るかが論じられてきた。19世紀以降はこれに加え、社会の多数派による少数派の抑圧にも注目が集まっている。現代的な権力論が、社会に微細にはりめぐらされたミクロな権力のネットワークに注目しているとすれば、多様な諸個人から成る現代社会の基本的な枠組みについて、マクロに構想するのが現代正義論である。
ジョン・ロールズの『正義論』は、それまで英米圏の政治哲学において支配的であった功利主義に挑戦することで、現代政治哲学復興の礎となった著作である。功利主義に対し、ロールズはあえて正義を強調し、「正義の善に対する優位」を説いた。その理由としてロールズは、社会全体の幸福の増大のために個人の権利を犠牲にしてはならないこと、また社会の基本的ルールを特定の善の構想に依拠させてはならないことを指摘している。
ロールズによる正義の定式化をきっかけに、多様な論争が起きることになる。ロールズが社会的弱者に対する政府による再分配を肯定しているのに対し、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』を執筆し、ロックの所有権理論に遡って、社会に対する国家の介入を最小限化することを訴えた。
また、チャールズ・テイラーやマイケル・サンデルらは、ロールズが正義の原理を抽出する際の方法論を批判し、個人が置かれた具体的な社会的境遇を考慮に入れることなしに、いかなる社会的ルールも論じることはできないと論じた。サンデルはロールズの抽象的な個人観を「負荷なき自我」と批判したが、このような彼らの立場は、コミュニタリアニズムと呼ばれることになる。
最後に、マイケル・ハートと共に『帝国』を執筆して話題になったアントニオ・ネグリについてもふれておきたい。フーコーらの現代権力論を受けて、ネグリらは冷戦終結後の世界において、新たなネットワーク状の権力が拡がっていると説く。主権国家の権力と異なる脱領域的な権力の作用を、ネグリらは「帝国」と呼んだ。
近代主権国家が終わりを迎えつつあるかに見える現在、一つの文明の下に世界を統合しようとする古典的な帝国が復活する可能性はあるのだろうか。ネグリらがしばしば現状における混合政体論に言及している点を合わせ、西洋政治思想の伝統が現在もなお、眼前に展開する状況を読み解く上で、意義をもっていることがわかる。

<感想・批判>

 本書は、ヨーロッパにおける政治思想がどのような過程を経て現在まで至ったかを、極めて俯瞰的に解説した本です。特徴的なのは、恐らく、日本において『政治学史』(著:福田歓一 1985 東京大学出版会)や『西洋政治理論史』(著:藤原保信 1985 早稲田大学出版部)以来の、一人の著者が書き下ろした政治思想の通史だということでしょう。
 ソ連崩壊からの冷戦終結以降、西洋政治思想史を「語り切る」ための見通しをつけることがきわめて難しくなった事情もあり、多くの政治思想史の教科書は共著となっていきました。その結果として、一つ一つの章は秀逸でも、全体像をつかむことが、初心者には難しくなっています。
 その意味で、本書は、作者の言葉を借りれば蛮勇をもって書かれたといえると感じます。2000年以上にわたる西洋政治思想を概観することは、気が遠くなるような営為であり、その見通しを立てることすら容易ではなかったと思います。
 私自身の能力では、未だに理解しきれていない部分が殆どではありますが、過去の偉大な賢人たちの遺物の上に、我々は生きているということをあらためて実感しました。
 批判については、そもそも解釈を指摘できるような知識がないため、ご容赦いただければと思います。
あとあれですね、そもそも秀逸にまとめられた本をさらにまとめるという行為は、蛮勇どころか無謀でしたね。知識不足ゆえに感想も賛辞を並べるしかできないし、批判なんてそれこそサンダルでエベレストに向かうようなものです。
全然関係ないんですが、某所属団体から研修旅行の案内がきまして、見たところ恐らく参加者少なそうだから、負担金安くいけると思って参加申し込みしたんですよ。そしたら、先ほど「参加予定者 二名」って報告きまして、しかも私ともう一人は女性なんですよ。お互い結婚してるんですけど、楽しんでいいんですかね。これってW不倫になるんですかね。
ちなみにまだ妻には言ってないです。旅行中は例外的に自然状態とかダメでしょうか。ホッブズ的な意味じゃなくてロックのほうで。「自然の光によって明らかにされる神の意志」に従いましょうよ。ロックに倣って、私も人間はあたかも白紙の状態で生まれてくるのであり、何ら生得の本有観念をもっていないと主張します。
 さて、これ以上話すと私の無知がみなさんに露呈しかねません。決してネタが尽きたとか、ふざけることでスペースをなんとか埋めようとしたけど限界がきたとか、そういうわけではないのですが。一旦ここでまとめたいと思います。

本書はとてもいい本でした。

ありがとうございました。

〈以上要約〉

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