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地域で楽しく過ごすためのゼミ 第1回

2020年6月22日、地域で楽しく過ごすためのゼミ 第1回が開かれました。

第一回の課題図書は『これからの「正義」の話をしよう』(著:マイケル・サンデル 訳:鬼澤忍 2011年 早川書房)です。担当はゼミの発起人の渡辺です。
この文章では、実際にゼミで使った要約文章と、解説や質疑の中で出てきた関連図書の紹介を行います。

今後ゼミで担当される場合や、この本を読む際の参考にしてもらえればと思います。

〈本の選定理由〉

この本は政治哲学を主題とした本である。個人の利益と公共の利益との調整を、政治が行うとすれば、都市部に比較して行政の役割が大きくなりがちな地方においては、政治がいかにあるべきかという問題を考えることは不可避である。
地方創生というと「行政は何をすべきか」という議論が先に立つことが多いが、そもそも行政はどういう立場を取りうるのかという事から考えを始めるために、政治哲学を題材とした本を選んだ。(194字)

〈本の主な主題〉

本書の主題は政治哲学である。著者のサンデルはハーヴァード大学教授であり、本書は学部生向けの講義「正義(JUSTICE)」を下敷きとしている。このコース及び本書では正義について書かれた哲学者とその思想を紹介するとともに、それに関連した哲学的な問いを提起するような、実際に現在起こっている問題を取り上げる。(145字)

〈論旨の展開〉

この本の章立てとその論旨の展開は以下の通り。
〈第1章〉問題提起。民主的社会において、正義とはいかにして実現が可能か。
〈第2章〉功利主義の説明と問題の指摘
〈第3章〉リバタリアニズム(自由至上主義)の説明と問題の指摘
〈第4章〉功利主義者、リバタリアンが称揚する自由市場の問題の指摘
〈第5章〉自由市場における問題を整理する人権の導入
〈第6章〉人権とリバタリアニズム的な考えから生まれたリベラリズムの導入
〈第7章〉自由主義(リベラリズム、リバタリアニズム)の問題点の指摘
〈第8章〉自由主義の問題を克服しうるアリストテレスの思想の説明
〈第9章〉現代版アリストテレス的思想としてのコミュニタリアニズムの導入
〈第10章〉論旨のまとめ、および今後コミュニタリアニズムを考えていくうえでのヒント

第1章は問題提起。2,3,4章と現代においても有力な政治思想を紹介し問題点を指摘。5章で人権という概念を導入。6章で人権とリバタリアニズムからなる思想としてリベラリズムを導入。7章で、リベラリズム、リバタリアニズムの問題点を指摘。8章でその問題を解決するヒントとして、アリストテレスの思想を紹介。9章でアリストテレスの思想を現代に通用する形にしたコミュニタリアニズムを紹介。10章は筆者の主張のまとめと、コミュニタリアニズムを考えていくためのヒントを記載。

※後の感想批判の項でも述べるが、本書における正義という言葉はjusticeの和訳である。英語のjusticeには公正さという意味もある。本書で正義という言葉が出てきた場合には、正しさよりも、公正さという意味でとらえたほうが文章が理解しやすい。

〈各章の要約〉

〈第1章 正しいことをする〉

トロッコ問題(※1)をはじめとして、この世には皆が賛成できる回答を導き難い問題が存在している。民主的社会において、これらの問題は政治的問題となって表れる。これらに対して進むべき道を見つけるためには、トロッコ問題の様な具体的な状況に対して考察する事、そしてそれを家族や仲間と議論することで、自分の納得できる考え方を見つけ、修正していく方法が有効である。以後、現実にある問題とそれに関連する思想を見ていく。
(200字)

(※1)トロッコ問題
本書の代名詞ともなった思考実験。トロッコの運転士であるあなたは、線路の先に5人の作業員がいることに気づく。トロッコを止めようにもブレーキが利かない。このままでは5人をひき殺してしまうが、右側に待避線があることにふと気づく。待避線にも作業員はいるが1人だけである。待避線に逃げれば1人死ぬだけで、5人は助かる。あなたはどちらにトロッコを進めるだろうか。という問題。他にも色々なバリエーションがある。

〈第2章 最大幸福原理─功利主義〉

ジェレミー・ベンサム(※2)は、功利主義─社会全体の「効用」(=苦痛に対する快楽の割合)を最大化する行いこそが正しいという考え方─を掲げた。これに対して、「全体の効用のために個人の権利を侵害して良いのか」「あらゆる価値を効用に還元することは可能か」という反論がある。ジョン・スチュアート・ミル(※3)はこれら反論に更に反論を加え功利主義を擁護したが、現代において功利主義を全面的に支持する人は少ない。
(199字)

(※2)ジェレミー・ベンサム(1748-1832)
イギリスの哲学者、経済学者、法学者。
(※3)ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
イギリスの哲学者、政治哲学者、経済思想家。

〈第3章 私は私のものか?─リバタリアニズム(自由至上主義)〉

功利主義の考えに則り、幸福の最大化を正義とすると、富の再分配が正当化される。これに反対するのがリバタリアンである。彼らは、自身の身体は勿論、労働で得た報酬の所有権は全て自分に帰属すると考える(=自己所有権)。つまり近代国家の活動の多く(※4パターナリズム、道徳的法律、富の再分配)を不法とみなす。自己所有権は魅力的な考えだが、行き過ぎれば臓器売買や自殺幇助を肯定するものであり全面的な支持は難しい。
(198文字)

※4パターナリズム、道徳的法律、富の再分配
・パターナリズム
自らの不利益になる行為を禁止する法律。例えばバイクにおけるヘルメット着用義務など。自己所有権の観点からは、ヘルメットの着用は個人の自由である。
・道徳的法律
不道徳な行為を禁止する法律。キリスト教圏における同性愛の禁止や中絶の禁止など。行動の制限は自己所有系の侵害と見做される。日本でいえば、夫婦同姓や結婚年齢など。
・富の再分配
富裕層の財産を貧困層に再分配するような法律。所得税や保険料など。自分が働いて得た富を、国家が税としてとることは、自己所有権の侵害と見做される。


〈第4章 雇われ助っ人─市場と道徳〉

自由市場は、功利主義者からは全体の福祉を促進する点、リバタリアンからは自由の点から肯定される。しかし代理母と徴兵を例に、自由市場に問題があることを指摘する。
①市場での選択は本当に自由か
志願兵や代理母など、貧困故に仕方なく取引をする場合がある。
②市場で取引すべきでないものがある
兵役─国民の義務や、出産─人間の尊厳に関わるものを取引すべきか。
どんな理論が市場で取引すべきでないものを決定するだろうか。(199字)

〈第5章 重要なのは動機─イマヌエル・カント〉

イマヌエル・カント(※5)の道徳と自由に関する思想は、人権の尊重という形で後の政治論に受け継がれている。彼は、自分を含めたあらゆる人格を、単なる手段ではなく、それ自体を究極目的として尊敬することを求める。彼の政治論は社会契約(※6)によって個人と全員の自由を調和させようとするものであるが、彼の政治論の著作は少なく、その詳細は不明である。その内容に答えることになるのはジョン・ロールズ(※7)である。
(200字)

(※5)イマヌエル・カント(1724-1804)
プロイセン王国(ドイツ)の哲学者。
(※6)社会契約
国家の正当性の契機を契約ないし市民の同意に求める理論
(※7)ジョン・ロールズ(1921-2002)
アメリカ合衆国の哲学者。主に倫理学と政治哲学の分野で功績を残す。

〈第6章 平等の擁護─ジョン・ロールズ〉

ロールズは皆が合意しうる社会契約を「無知のベール=人々が自分の属性を全て忘れた状態で社会のルールを選ぶ」という思考実験から導き出す。この実験からは「基本的自由=皆に自由を保障する」「格差原理=社会にとって利益をもたらす格差は許容する」という2つの原理を導き出される。彼の思想は突き詰めると実力主義(※8)を否定するもので、受け入れがたい点もあるが、説得力のあるものとなっていることも事実である。(197字)

(※8)実力主義
所得や富などは、その人の功績に従って与えられるべきものであるという考え方。

〈第7章 アファーマティブ・アクションをめぐる論争〉

アファーマティブ・アクションとは積極的な差別の是正措置のことである。大学入試におけるマイノリティ優遇措置を例に考える。この措置の妥当性を判断するには、大学が結局の所、何を目的(≒美徳)としているかを議論せざるを得なくなる。
カントやロールズなど現代の政治哲学は、何が美徳かを決めず、中立的であることを正義としてきた。しかし大学の例の様に、何が美徳かを決めずに正義を決めることが出来るだろうか。(195字)

〈第8章 誰が何に値するか?─アリストテレス〉

アリストテレス(※9)は、正義を考えるためには、その社会的営みの目的、そして美徳とは何かを考える必要があると説く。実際に社会の多くの場面で、彼の正義論が有効に働いていることが見られる。何が正義かを議論するうえで、美徳についての議論は必要不可欠と考えられる。そして中立を是とし、何が美徳かを議論しない現代の政治哲学には、何が正義かを決めることは不可能であるようにも思われる。(184字)

(※9)アリストテレス(B.C.384-B.C.322)
古代ギリシャの哲学者。西洋最大の哲学者といわれる。(wikipediaより)

〈第9章 たがいに負うものは何か?─忠誠のジレンマ〉

現代の政治哲学では説明できない事象が、現実には多く存在している。コミュニタリアニズムはそれらに説明を与える。この思想は、人は特定の国やコミュニティに帰属し、道徳的・政治的責務を負うと考えるものであり、自らの美徳は帰属する集団のそれと切り離すことは出来ないと考える。この思想が有力だとすれば、我々が中立である事はありえず、社会にとって何が美徳であるか=共通善を議論せねばならない。
(200字)

〈第10章 正義と共通善〉

本書はこれまでに正義に関する3つ考え方を紹介した。
①効用の最大化…功利主義
②自由の尊重…リバタリアニズム、リベラリズム
③集団への帰属と共通善…コミュニタリアニズム
筆者のこれまでの考察から、正義にかなう社会は③だけが達成出来ると考えられる。そのためには、我々の善き生がどんなものか、集団において何が美徳とされるかという問いについて議論が必要となる。しかし、いまだに満足する答えは見いだせていない。
(197字)

〈感想・批判〉

本書は大学の講義が元となっているため、章立ては各回の講義の内容に準じていると考えられる。講義であれば、政治哲学の歴史を総覧する内容と想定されるが、実際には筆者の代表論であるコミュニタリアニズムを擁護する内容となっている。勿論、講義の側面もしっかりと残っており、政治哲学に関する一般的な知識の紹介も行っている。

まず注意しなければいけないのは「正義」という言葉の取り扱いである。この言葉、原題では“justice”である。正義という言葉が意味するところは非常に強力で、多くの日本人を引き付けるからこそ、この邦題になったと考えられるが、多くの識者が指摘するとおり“justice”には、正しさという意味の他に、公正さという意味も含まれている。
本書を読むにあたっては、本文中に出てくる「正義」という言葉は、むしろ「公正」と読み替えた方が意味は通りやすい。この書籍は単に何が正しいかというよりも、何が誰にとっても公正、言い換えればフェアであるかを議論していると考えたほうが良い。

論旨の展開自体は、各章がつながるように組み立てられてはいるが、政治哲学の紹介の部分も多く、筆者の主張を述べるためだけには冗長な部分が多い。かといって、この書籍を政治哲学を学ぶ本として考えたとしても、物足りない部分は多い。この本で出てくる政治哲学の多くは、現代の思想に直接的なつながりを持ったものが多く、中学で習うようなジョン・ロックやジャン=ジャック・ルソーの思想はほぼ出てこない。無論、政治哲学を学ぶのであれば、こういった本ではなく、それぞれの政治哲学者の著作を読むべきなのは言うまでもない。

本文前半の功利主義、リバタリアニズム、自由市場、リベラリズムへの批判は、筆者に特有のものではなく一般的なものであるし、適切に批判をしたいのであれば、この本よりも当の著作を読むべきであろうから、各章の個別の内容への批判はこの文章では割愛する。
この文章では、彼の主張であるコミュニタリアニズム、本全体への批判を、この本を選んだ動機でもある地方の話を交えつつ行いたいと思う。

筆者がコミュニタリアニズムを主張するに至った根拠は強力である。実際、家族やコミュニティ、民族、国家などが我々にもたらしている影響は非常に大きい。本文でも例として出ている「自分の両親は自分が介護の責任を持つ」という考え方は、リベラリズムやリバタリアニズムのような自由主義が掲げるような契約という概念からは説明がつかない。自分の所属するコミュニティが自らの行動規範に影響を与えることは否定しようがない。

筆者はこのことから、コミュニタリアニズムを掲げるに至るわけだが、筆者自身もコミュニタリアニズムが結局どのような社会を提案するかは明示できていない。その点でいえば、他の思想と同じようなものであるように思う。

筆者の言う通り、あらゆる道徳的美徳から中立であることは、結局の所、諸般の問題に対して解決をもたらすものではない。選択の自由があったとしても、結局各個人は自分が何を美徳するか選択することになる。自分の人生の判断に対して中立であることはありえない。だからといって、万人が納得しうる様な美徳の基準が、この世のあらゆる問題に用意されているとは考ええない。

筆者はそれでも、そういったものがあると考えている。実際の所それは定かではない。
ただ、宗教的な対立などの存在を考えると、とてもではないがそういったものを見つけるのは困難な様に思われる。

本書において、気になるのはこういった美徳の基準を定める主体は何かという事である。漠然と政府というものを想定して議論しているが、例えば本書で出てきたアリストテレスと筆者の時代での政府は大きく異なるはずである。またアメリカであれば合衆国政府だけでなく、州政府なども存在している。つまり政治を担う主体は、国家のみならず、様々なレベルで存在している。

仮にコミュニタリアニズムが言うように、政府が何らかの美徳を定めうるものだったとしても、そのすべてを国家政府が定める必要があるだろうか。例えば州政府であったり、もしくはより小さい単位の自治組織、あるいは公共ではなく何らかの民間の主体が美徳を定めてもよいように思う。むしろそういう形で多様性と選択の自由を担保しつつ、各主体の単位では美徳の問題を解決することが出来るように思われる。つまり、自由主義的な考え方と、コミュニタリアン的な考え方をバランスさせる考え方である。国の様な大きな主体がすべての美徳の基準を決める必要はなく、必要な分なだけの美徳を定め、あとはより小さい単位の主体に任せてしまえばよいというものである。無論この考え方も、本書内で出てきた問題を全て解決するわけではないが、少々はマシなように思う。

現状、日本の地方創生策は中央政府の号令の下に行われている。それに従い各自治体も各々で施策をおこなっている。本書の言葉を借りるのならば、これはまさに国や地方自治体が美徳を定めるという考え方と同じように思われる。しかし実際の所、地方創生策がどれだけ上手くいっているかははなはだ謎である。筆者の言うように、我々がまだうまく方法が見つけらていないのか、それとも、そもそも地方の美徳を決める主体は本当に国や地方自治体が適当なのだろうか。

〈ゼミ内で出た関連書籍〉

『読んでいない本について堂々と語る方法』
(著:ピエール・バイヤール 訳:大浦康介 2016年 筑摩書房)

勉強するための読書はどういったものかという話に関連して。通読至上主義からの脱却を目指して……。

『銀河英雄伝説』シリーズ
(著:田中芳樹 1982-1987年 徳間書店)

功利主義といえば多数決。多くの議会も多数決。でも功利主義なんて現在支持している人がいないけど、民主主義の意思決定の方法として多数決くらいしか方法がないって、どうなん?という話から波及して、なぜか銀英伝の話に……。

『正義論』
(著:ジョン・ロールズ 訳:川本隆史/福間聡/神島裕子 2010年 紀伊国屋書店)

第5章でも出てきたロールズ。原著は1971年の出版、1999年に改訂版が出版。本書はその改訂版の日本語訳版である。justiceの訳語を正義とするか公正とするかについての話に関連して。正義論の第1章のタイトルは「公正としての正義」。担当者的には今でも非常に魅力的な論に映る&原著を読んだことがなかったので、課題図書にしようとも思ったものの、8250円&800ページ超えは流石に重すぎるので断念した。個人的に購入したものの、未だ持て余している。

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