【登城記その6】小田城
オダッペケペッポ ペッポッポー
「常州つくばの御屋形様に カツオ出汁をば飲ませたい」
上記は、茨城県つくば市に古くから伝わる民謡、「オダッペケペー節」のワンフレーズである。
カツオ出汁…日本人の心の味である。つくばのお屋形様もさぞお喜びになられるであろう。
…などと、平和ボケした受け取り方をしていてはこの歌の本質は掴めない。
カツオ出汁とは「勝つ小田氏」、すなわちこの歌は負け続ける当地の殿様、「小田氏治」への皮肉を込めた戯れ歌なのである。
氏治クンは幾多もの戦いに負け続け、何度も城を追われ、イタズラにちぎられ、捨てられ、朝を待つ波に身をまかせてきた、ケミストリーも同情するPoint of No Returnなお殿様なのだという。
そのポンコツぶりから、彼は現代においても「戦国最弱」という不名誉な照合を与えられ、ネットのオモチャにされ、イタズラにちぎられ、捨てられ、朝を(以下略)ている。
私は文武両道、頭脳明晰、質実剛健の太田道灌サマの強火担であり、弱い者には興味がない…
が、その城には興味がある。
小田氏治サンが何度も奪われた小田城とは果たしてどのようなお城なのか…
そう考えた時には既に私の体はTX(つくばエクスプレス)に揺られていたのであった…
平地平地アンド平地
TXに乗り終点のつくば駅までたった50分…あっという間に茨城県つくば市に到着した。
なつかしき研究学園都市…私がJAXAの主任研究員だった頃はよく当地を訪れていたものだが、もうずいぶん昔のことだ。今となっては公式設定だったのか妄想設定だったのかすら思い出せない。
実は列車内で小田氏治サンの戦歴を調べながら来たのだが…
氏治クン、キミべつにそこまで弱くなくない?
要所の戦には勝っているし、兵力やネームバリューが同程度の相手に対してはむしろ善戦している。
ただ彼が情けないのはここぞと言うときに蛮勇を見せ、案の定負け、しかもお城まで失うトコロだ。
こんなのぜったいお城に原因があるに違いない…弱い原因が。
ますますこの目で確かめたくなってきたぞ…!
…それにしてもここ茨城という場所はすがすがしいほどのド平地だなぁ。
こんなDIYしやすそうな土地柄、小田城もダイナミックな技巧を凝らしたお城の可能性がある。
私は期待を胸に小田城へと車を走らせたのであった。
小田に着く、そして歩く。
上図をみても分かるとおり、お城にはシートベルトをかけたような筑波鉄道筑波線の跡が南東-北西にかけて確認できる。
資料館はかつてホームが設置された場所にあるみたい。
なにはともあれお城に向かおう。
発掘調査のスケッチ…!これは助かる!!
発掘の調査結果など、資料館でみてもあまり頭に入ってこないモノだが、これであれば鮮明に理解ができる。
鉄道がお城を横切ってくれたからこそもたらされた展示手法だ。ありがとう筑波線。フォーエバー筑波線。
この展示を見るに小田城は、『方形館』を拡張していった末に出来上がったものだとわかった。
このタイプの城館プランは荘厳であるがため、静岡の今川サンや山梨の武田サンなどのエリート血統マンが自身の正当性を内外共に示すためのパフォーマンスとして採用している。
小田サンだって「鎌倉殿の13人」のひとり、「八田知家」から連なるサラブレットとのこと。先祖代々の方形館をお城に転用したのだろう。
いざ入城
主郭部には御殿などの建造物が林立していたみたい。
庭石は奇岩の宝庫「筑波山」が近くだからいくらでも手に入る。
また、当地はツルスベローム層のすぐ下に「上総泥岩層」という水絶対に通さないマンがいるから、池づくりだって簡単だったハズ。さぞかし立派な庭園があったことだろう。
極めつけは主郭部南側にある虎口。
この石積み、なに? 積む必要ある??
それ、ホントに城郭防御に必要なギミックですか?
どちらかというと威厳を見せるために積まれたように感じる。この石積みと立派な門、そして背後にそびえる筑波山と宝篋山(ほうきょうさん)、平時であればみな「小田サン、パねぇ…カッケー」となったハズである。
主郭を巡ってみた感想。
貴族のお屋敷かなにか?
小田サンは小田城を信仰上政治上の重要拠点と位置づけ、当地でぜいたくノーブルスタイルの生活を送っていたのかな?と感じた。
まわりの戦国大名が拠点に要害性を付与し続けていた数百年のあいだ、ひたすらずっと先祖代々の館を本拠にし続け、家臣や領民の支持を得てきたのだ。
しかしながら小田サンだってただ安穏と暮らしていたわけではない…
拡張に拡張を重ね、数多くの防御ギミックを主郭部のまわりに張り巡らしていたのだ。
見よこの高い土塁!
馬出!
障子掘!
………
クッッッッソ広い!!!
規模が近世城郭のそれなんよ…
茨木県南西四半分を統治しているお殿様が守り切れる大きさじゃねーぞ
弱点の先にギミックを作り、その弱点の先にさらにギミックを作り…を繰り返した結果生まれたクソデカ城郭…空間的制限がないことで際限なく大きくなってしまう平城の悲しき性である。
現地の案内板によると、国史跡認定された小田城の範囲は21ha、北条サンの【山中城】と同じくらい広い。
小田原征伐において、山中城は3,000人の守備兵では足りずに半日で落城したというのに、同じ広さの、しかも地の利もない平面プランの小田城だとどれほどの守備兵が必要なのだろうか?
(寄手の数は違うが…)
案の定小田城が落城しているのは野戦で負けた後…
敗残兵が離散して兵力も士気も低下した軍勢で守り切れる大きさではない。
これは氏治クンの強さ云々より、そもそも城がイケていないぞ…
めちゃ×2 イケてぬッ!
小田城のイケてない点がもうひとつ。
背後に聳(そび)える宝篋山
登られてしまったら最後、お城の中身が丸見えになってしまう。
これは静岡の【駿府城】など平地にあるお城に共通の弱点だが、それらは背後の山に「詰めの城(要害部)」がある。
敵だってそう簡単には登れないし、いざとなれば軍勢を山中に展開させたり、非戦闘員を避難させたりして兵力や配置、編制を誤魔化すことができる。
が、小田城の背後にあるのはカターい岩肌が露出する筑波山系。広い平坦地や防御ギミックなど作り込めない。
自然、軍勢が展開できるような砦は作れないハズだし、なにより宝篋山を威厳の象徴としてきた(であろう)小田サンにとって当山をカスタムする行為は憚られたハズだ。
小田城って…
小田城は戦闘施設としてのお城ではなく、あくまで宗教的、政治的な中心地「城館」であるように感じた。
氏治クンに関してはこんなお城を本拠として抱えながら何とかやり繰りしてきたのだから、「戦国最弱」どころかむしろよくやったヒトだと思う。
より堅固な土地への築城、改築、本拠移転、筑波山や宝篋山の城塞化…氏治クンのやれたことはいくらでもあったハズである。
だが、先祖代々の土地と立派なお館、そこで手に入れた富、名誉、プライド、自身を畏敬崇拝する領民や家臣…彼はいろんなしがらみでガンジガラメになってしまったカワイソウなお殿様だったのかなと思う。
まとめ
最後に、氏治クンは決して戦国最弱ではなかった。彼に必要なのは蛮勇を抑える精神力と、ガンジガラメになった事象を整理し理論的に解決するための思考能力だったのだ。
と、すれば冒頭の戯曲を改めなければならない…
「常州つくばのお館様に、ムードスタビライザーをば飲ませたい」
頭を冷やして、冷静になろうね。氏治クン。
おわり。