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2024.6.9

久我山のほたる祭りに行ってきた。毎年行われている久我山の至るところにほたるを放つイベントだ。カップルだったり、学校の友達と来ている人が多い中、ひとりでいるのは俺くらいだった。ひとりで歩いているもんだから人混みの流れるスピードの遅さに耐えきれず早歩きでほたる確認スポットの1つである玉川上水を目指す。通りすがったセブンイレブンの周りにたくさん座っている人がいて、地べたに座っている人は皆、俺の友達のような気がした。美味しい匂いがずっとしている。カレーは1000円、お祭り価格だ。人混みを器用にすり抜けながら足の速さを見せつけんばかりに走っていく子供たち。それを見て女の子二人は水風船をポンポン手のひらに打ち付けながら「はや~」「元気~」と言っていた。その言い方がゆったりしすぎて、水風船の往復運動が相対的に速く見え、ポンポンポンというよりポポポポポポと連続で鳴っているように聞こえ、俺はその風船の中で小さな鼠先輩が歌っていることにして現実との折り合いをつけた。玉川上水の方まで行くと、俺とともに歩んでいた人混みは誘導員によって整備され綺麗な行列を描くようになった。周りの声に耳を傾ける。いいね、暗いね。暗いとテンション上がるよね。ごろうが一番の親友じゃん。おい叩くなよ、俺の方が脳細胞多いぞ。あと2ヶ月で彼氏ができる可能性ないよね。危ないですのでゆっくりと前にお進みください。各々が人のことを気にせず自由に話している感じが心地よかった。いよいよ玉川上水のすぐ横までたどり着いた。暗すぎて何も見えず、ほたるはまだ1匹も俺たちの前に現れていない。葉っぱに反射した光を何度もほたると見間違え、しびれを切らした俺は、誘導員の忠告を無視して、立ち止まる外国人や若者たちと同じように木の葉で隠れ気味な川の方に目を向けた。じーっと目を凝らす。1分くらい待つ。それでもほたるはやってこない。玉川上水にはほたるを見に来たのに、そのほたるが現れない。俺はただ東京を見ているだけだなと思った。ほたるのお祭りに来たのに、ただの東京の風景を見させられているだけだなと思った。俺は東京を見に来たわけじゃない。ほたるはどこだ。ほたるを出せ。再び歩き始めて、しばらくすると前方がやけ騒がしくなった。みんなと同じ方角を向くとそこに1つの小さな光が。1ピクセルほどの明かりが揺れながら一定のリズムで点滅していた。俺は初めてほたるの光が点滅するものだと知った。それは俺に遠くを飛んでいる飛行機の光を連想させた。ほたるかわいい。ね、かわいいね。その会話は嘘だと思った。俺は物理の授業で習った「交流」という言葉を思い出した。それから、化学の教科書にほたるのコラムが載っていたことを思い出した。なぜほたるは光るのか、なぜほたるは点滅するのか、俺は知りたくなっていた。だからほたるがかわいいのは嘘だと思った。あの点滅を見て、俺は初めて昆虫が生きていることへの実感が湧き、虫けらに心臓の鼓動を感じた。ほたるのお尻には、ルシフェリンという発光物質と、発光するのを助けるルシフェラーゼという酵素がある。この2つの物質と体の中の酸素が反応すると光が生まれる。点滅するのは、酸素の供給が遮断されると光が消えるからだ。やっぱりほたるは呼吸をしていた。あの点滅は心臓のリズムそのものだった。数匹のほたるを見て満足した俺は玉川上水を離れて久我山駅の方へと向かった。商店街の人混みはまだまだ消滅することがなさそうだ。歩きながらほたるの点滅を思い浮かべた。人間がほたると同じ仕組みだったら、子供の点滅は活きが良さそうだ。一方、老人の点滅は儚そうだ。じゃあ俺の点滅はどうなんだろうかと考えたとき、もっと走って息を切らさないとダメだと思った。答えが出た瞬間、俺の真横を子供たちが走り抜け、人混みの中を掻き分けながら遠く遠くに行ってしまった。俺は歩いているのに自分が立ち止まっているように感じた。それでも俺は一目を気にしてあの子供たちみたいに走ることはできなかった。


銭ズラ