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2023年、個人的10大ニュース

激動の1年が終わろうとしている。
間違いなく2023年(令和5年)は、人生で一番環境の変化が大きかった1年だと思う。
とりあえず2023年12月30日現在、本厄だったこの1年だが、それらしいとんでもない不幸には見舞われていないことに胸をなでおろしたい。年男だった効果で、きっと相殺されたのだと信じている。
でもまだわからない。
ゴーンさんみたいに、国外へ高飛びしなきゃいけなくなるようなことが起きるかもしれないから、ゆく年くる年を見終わるまで油断は禁物だ。

環境の変化だけでなく、自らあらゆる土地に出かけて行った1年でもあった。それらについて書くだけでも何記事分にもなりそうだが、よくある10大ニュースの形を借りて2023年を振り返ってみることにする。

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と、上記は先述の通り2023/12/30に書いたものだ。
そしたら、どうだ。
その後あれよあれよという間に体調を崩し、2024/1/1、新型コロナ陽性判定となったのである。
思い返せば「ゆく年くる年を見終わるまで油断は禁物だ。」と書いているそばから、のどに違和感を覚えていたような気がする。

もはや完全なフリとなってしまった。

さて、気を取り直して堂々と2023年を振り返ろうじゃないか。

※気になる順位のものからお読みになることをお勧めいたします。
全部で2万3千字近いボリュームです。お気を確かに。


第10位:人生で最も自己紹介をする

この後も何度も触れることになるだろうが、2023年4月から宮崎県椎葉村に引っ越した。日本三大秘境と呼ばれているような山深き土地に、おおよそ東京23区ほどの広さを誇る。その96%が森林であり、険しい山々を縫うように整備された数多の道路に信号機はたったの1か所だけ。人口は2,300人ほどで減る一方だ。思えばこの説明も、この1年何度も何度も反復してきた。

そんな「村」では、コミュニティの喪失なんて言葉はどこ吹く風。お隣さんどころか、向かいの山には誰々さんが住んでいるなんて情報も当然のごとく飛び交っているような、そんな土地柄だ。

このようなコミュニティが維持されている場所に、地域おこし協力隊としてよそからやってきたのだから、そりゃあ自己紹介のオンパレードになるに決まっているのだ。ましてちょっと口を開けば、大都会・東京から来たのであり、大学を卒業したばかりの新卒であり、遠く離れた札幌出身であり、いろんな地域に住んでいたのだと、聞いて呆れるほどの情報量が自己紹介にぶっ込まれるわけだから、自己紹介を始めたら最後、話し手からしても聞き手からしても、簡単には終われないのだ。

さらにさらに、地域おこし協力隊として私が働く椎葉村図書館「ぶん文Bun」はありがたいことに視察が多い。したがって、職場にいるだけで自己紹介をする機会がやけに多いのだ。

そうした様々な要因が絡み合った結果、間違いなく人生で最も自己紹介をした1年となった。

第9位:自炊を始め、脱コンビニ人間となる

東京での学生時代、僕は学生マンションに住んでいた。
そこはもともと学生寮だった建物を使用していたため、マンションといいつつ共同玄関で靴を脱いで、すぐ横の靴箱に収納するような仕組みになっていた。管理人さん(札幌出身だった)も常駐し、オプションではあったが、朝夕食を食堂で提供してくれるシステムでもあった。僕はそのオプションをつけていた。

だから、自炊を一切しなかった。
バイトや何やらで遅くなった時はもっぱら買ってくるか、外食。
ご飯を買う店は、西友、ファミマ、セブン、オリジンの先発4本柱にたま~にコモディイイダ、丸正が入ってくるといった具合だった(これでどこに住んでいたかわかる人もいるやもしれぬ)。

そして、北海道出身の僕は残念ながら知っていたのだ。
コンビニはなんでもあたためてくれるということを。
さすがに、向こうから「おにぎりあたためますか」とは聞いてくれないが、うどんやラーメンや、パスタなどであればまずあたためるか聞いてくれる。
そして僕は完全なるイエスマンと化すのだ。
だから我が家には電子レンジがなかった。アウトソーシングの極みのような生活をしていた。それで特段、不都合はなかったのだ。

ちなみに、これだけ頻繁にコンビニに通っていたからこそ感じたのだが、ファミマの新商品を打ち出すスピードに驚かされるばかりであった。毎週何かしらの新商品が売り出されていた。飽きを来させないという意味ではすばらしい姿勢だ。おかげで退屈することなくファミマ生活を送れた。

ファミマだけではない。質で言うならセブンの方が好きだ。新商品の数は少なくとも、安定のクオリティを提供してくれる安心感があった。大学2年頃だったろうか、家の近所に新しくセブンがオープンした。

これがいけなかった。
そりゃ通うようになってしまう。あのセブンにどれだけの金を落としたかわからない。コロナ初年度の大みそかは、律儀にセブンでそばを買って年を越した。千葉ロッテ山口に逆転スリーランを浴びてなぜか優勝できなかったあの夜も、セブンで買ってきたしめ鯖を肴に早々に一杯飲んでいた。普段そんなことしないのに(だからあんな悲劇が待っていたのか?)。

いつもそばには、セブンがいた――。
(いや、そんな甘美な展開にする気はない)

一つ気に食わなかったのは天井の低さだが、これはテナントの構造上文句を言っても仕方がない。ただ、低い天井からのっぺりとしたポスターを垂れ下げるのは勘弁してほしかった。

そして、一時期金曜夜のシフトに入っていたTさんというオッサン店員さんが不安で不安で仕方がなかった。何度か表示されている秒数とは違うあたためられ方をした。Tさん、達者だろうか。どんなに他人の弁当をあたためられなくても、自分の心をあたためて強く生きてほしい。
…いったい僕はTさんの何なんだろうか。

これほどまでにコンビニ人間だった僕。
こんな人間が宮崎県椎葉村にやってきた。

どうなったか。

ごく自然に、自炊を始めた。

4月こそ冷蔵庫がなかなか届かなかったこともあり、あまり自炊はしなかったが、冷蔵庫が届き、ガス台を譲り受けて以来、ちゃんと自炊するようになった。それでも、いきなりすべてを完璧にこなすことは難しく、今でもみそ汁はインスタント頼みだ。単純に効率よくみそ汁まで作っていられない。時間ガン無視なら作れるが、そうもいかない。世間で料理における時短だの、コスパだのと言われる理由がようやく2023年になってわかった。料理で削りたくなる気持ちがわかった。

でも、料理は結構好きだなと思う。料理しながらラジオを聴くのは至福の時だ。元々食べることは好きだし、食へのこだわりもまあまあ強い方だと思う。
そしてやはり、何よりも文明の利器を手に入れたことが大きい。

思い出してくれ。
東京で電子レンジを持っていなかったのだ。

それがどうだ。
男は電子レンジを手に入れたのだ。
炊飯器も手に入れたのだ。
調味料やタレも手に入れたのだ。

向かうところ敵なしだ。

正直言って、肉じゃがとか、ポトフとか、ギョーザとか、名のある料理はほとんど作っていない。テキトーに気分で食材を選び、フライパンで炒め、気分で選んだ調味料で味付けするだけだ。だから、ほとんどが肉野菜炒めの大分類に位置付けられ、そこの下位概念に位置する(職業病だと言ってみたい)。調味料の組み合わせ次第で、いくらでも代わり映えする。

そして、言わずもがな、電子レンジは偉大だ。
お前のおかげでどれだけ助かっていることか。
えのきなんてのは、レンチンからのポン酢かけが一番うめぇんじゃねえか?
これからもよろしく頼む。

2024年はもう少し、名のある料理にも挑んでみたい。
レシピを観て作るという行為にも挑もう。
そして、やっぱり俺は魚を食いてえんだ。
魚を食べる回数を増やしたい。

第8位:札幌で落語会開く

まだ学生だった2023年3月のこと。
半ば強引に地元札幌で学生たちによる落語会を開催した。
実は、北鷹亭和鵬築(ほくおうていオホーツク)と名乗ると決めて以来、心に決めていたことがあった。

「卒業までにオホーツク海側で落語をやる」

そもそも、なぜ北鷹亭和鵬築という名前にしたのかというと、北海道出身であり、ホークスファンであり、オホーツク海側の紋別市というところに幼いころに住んでおり、一度聞いたら忘れないインパクトのある名前を!と考えていたからこうなったのである。早い話が全部詰め込んだのだ。

しかし、インパクトという意味では効果てきめん、してやったりの結果となった。オホーツクという名前を忘れる人間はまずいない。ありがたいことだ。

そんな名前に感謝の意も込めて、オホーツク海側で「凱旋」落語会をしたいと思っていたのだ。「和鵬築、オホーツクへ行く。」みたいなポスターイメージも脳内には完成していた。

だが、あまりにオホーツク海側で落語をやるハードルが高かった。
かつて住んでいたとはいえ、小1の6月末までに過ぎず、知り合いなど皆無に等しかった。そうした状況で、プロでもない学生がお金を節約してオホーツク海側で落語会をやるのは、あまりに困難なように思えた。一人でやるのならまだしも、誰かと一緒に行く・やるとなると一層ハードルは上がった。

というわけで、そこは妥協して札幌でやることにしたのだ。
妥協してとは言ったが、親族の前で披露するいい機会にもなるし、札幌であれば他にも出身者がいたし、何より金はかかれども縁もゆかりもない人間を(観光という名目で)連れてきやすかった。

2023年3月実施の「さくら前線寄席」のチラシ

地元タクシー会社の社長さんのご協力もいただきながら、何とか会場を確保し、北大落研さんともコラボし、かの有名なSTVどさんこワイド179の「奥さん!お絵かきですよ」でも宣伝してもらい、何とか無事に当日を迎え、完走したのだった。

学生生活最後の大仕事だったことは間違いない。

第7位:日帰りから宿泊を伴うものまで、とにかく旅をしまくる

2023年はとにかくあちこちに行った。
本当にどうかしているだろうというほどに。
まず列挙してみよう。

・国技館(初場所初観戦)
・代々木体育館(友人に誘われ、人生初アーティストのライブへ。まさかの聖飢魔IIだったが笑)
・横浜(横浜中華街、横浜赤レンガ倉庫、有隣堂伊勢佐木町本店新横浜ラーメン博物館ほか)
・白川郷(日本三大秘境の一つ!)

白川郷での1枚

・岐阜市(3回目)
・富山市(わずか1時間弱の滞在…)

富岩運河環水公園。立山連峰が息をのむ美しさだ。

・金沢市(石川県立図書館金沢海みらい図書館21世紀美術館兼六園

石川県立図書館館内

・宇都宮市(ギョーザ!)
・日光(日光東照宮、鬼怒川温泉;落研卒業旅行)

日光東照宮

・浜松市(静岡文芸大、浜松市楽器博物館浜松城、ギョーザ!)

浜松城
楽器博物館。ものすごい展示量だった。

・大阪(社会人落語日本一決定戦(池田市)、大阪市、豊中市)
・長野(人生初長野!県立長野図書館、小布施町立図書館;出張)

【九州】
・宮崎県内各所(日向市、高千穂町、五ヶ瀬町、延岡市、宮崎市、小林市、川南町、新富町、西都市、木城町、日南市ほか、素通りだけならかなり行った)
・熊本県内各所(山都町、小国町、阿蘇市、南阿蘇村、高森町、菊池市、阿蘇くまもと空港、熊本市ほか)

今や国宝となった通潤橋

・鹿児島県長島町(日本マンダリンセンターほか;出張)
・福岡市(PayPayドームリレーマラソン

そしてもちろん、実家のある札幌にも行っている。
都内の細かい場所まで入れたらきりがないが、それを抜きにしてもとんでもない移動距離だ。
それぞれについて語ろうと思ったが、ここにそれを書き記すと一生終わらないので、それぞれ別記事にしたためることにしよう。

特筆すべき点としては、3月のとある1週間に宇都宮と浜松でギョーザを食べたことと、日本三大秘境完全制覇にリーチをかけているということぐらいだろうか。

第6位:卒論を創作落語にしたら、熊本城ホールで表彰される

オドロンなるものに誘われた。
「第2回踊りたくなる九州卒業論文コンテスト」というやつの通称だ。

世の中に毎年新しく生み出されている「卒論」。
それぞれに労力が捧げられ生み出された成果物であるはずのそれらが、日の目を見ることなく埋もれてしまうのはもったいない。
きっとそこには九州の未来を拓くヒントがある――。

というようなコンセプトの卒論コンテストである。
アカデミックに寄りすぎず、ゴリゴリのビジコンにも寄りすぎず、5分で研究の成果と九州をいかにワクワクさせるかをプレゼンするという、説明を聞くだけでオモロイやん!と思わず言いたくなるイベントである。

そんなオモロそうなイベントに誘ってくれたのは、コロナ禍真っ只中にオンラインのイベント(自分の志を立てよう!という対話しまくるイベント)で知り合った友人である。その友人は宮崎県出身で、宮崎愛に溢れており、その深すぎる愛に溺れて死にやしないだろうかと冷や冷やするほどである。のちに縁もゆかりもない宮崎県に行くにあたり、大変心強い存在となったことは言うまでもない(そんな彼女も「新卒で椎葉に行く」と聞いて、一瞬引き気味な表情をしたのを、画面越しに把捉した僕はなぜか愉快だった)

その友人は前年に第1回オドロンに参加し、ファイナリストに選ばれたご縁もあり、今回はバリバリ運営を頑張っているとのことだった。ノルマがあったのかは知らないが、そういうことならということで二つ返事で応募した。

新卒、それすなわちつい数か月前まで卒論を執筆していたわけで、研究への想いや記憶が新鮮なのはそうなのだが、その分苦い記憶も頭に濃く残っていた。僕は納得して卒論を提出できなかったタチである。どこか不完全燃焼感があったのだ。そのモヤモヤした感情と決別するいい機会をもらったと感じていた。

その気概が通じたのか、ファイナリストに選んでもらった。
ファイナリストは8月の山の日に熊本城ホールでプレゼンをするというではないか。小学校1年生か2年生以来となる、熊本市への切符を手に入れたのだった。

熊本城ホール

ここまで来たからには手ぶらで帰るわけにはいかない。
なんせ、山の日は椎葉では上椎葉ダムを舞台にした山々にこだまする大迫力の花火大会が開催されるという、特別な日だったのだ。
花火を拝めない悔しさは、自ら「花火」を打ち上げることでしか晴らせない(いや、懇親会とかすっ飛ばして帰ればギリ間に合ったかもしれないが、そんな急ぐドライブはしたくなかった)。
これはもう、結果を持ち帰るしかなかった。

ただし、扱っているテーマは地域寄席(簡単に言うと、毎日興行が行われている定席とは異なる小規模な寄席)。九州とは縁遠いもので、当たり前だが、そもそも執筆中に九州のことなどこれっぽっちも考えていなかった。それを、「自分どないな研究したんや!九州をどうワクワクさせんねん、言えや5分で!」と脅されているわけで(脅す論文コンテストでは決してない)、非常に頭を悩ませた。

おまけに、山の日の週に台風が来た。
2022年の台風14号の影響もあり、すぐに被害が拡大しやすい状況にある椎葉では、とっとと避難すべしとの雰囲気があっという間に僕の周りを包みこみ、急遽避難を兼ねてかなり早い前乗りをしたのだった。案の定一時的に村外に通ずるすべての国道が通行止めとなったから、この判断は正しかったと言えよう。

さて、熊本市のホテルに引きこもった。
この段階ではまだ迷っていた。
だが、もうこれしかないだろうと薄々感づいていた。
出した結論がこうだ。

大学の卒論発表でさえ所定の時間で収めるのが大変だったというのに、5分で、しかも九州をどうワクワクさせるかという追加情報まで付与しろというのは無理ゲー。だったら、いっそのこと落語を扱っているのだから、卒論の内容を含めた創作落語にしてプレゼンすればいいじゃん!パワポ一強時代に終止符打ったるわ!

…一言でいえばただのアホである。
本番迫る直前に一挙集中して創作原稿を書き上げ、ひたすら頭に詰め込んだ。カラオケ屋を時間をおいてハシゴして詰め込んだ。学生時代含め、普段ほとんどカラオケなんて行かないのに。

その甲斐あってか、奇をてらった作戦はハマった。
はっきり言って5分は過ぎたが、会場の耳目を集めることには成功した。

あえて情報をそぎ落とし、パフォーマンスに徹したこの表現方法は評価されるか、全く評価されないかの2択だと思っていた。そして評価されるとしても大賞はありえないと思った。正統派で他を圧倒できる卒論を持ってきた人こそが受賞するものと思っていたし、自分が審査員ならそうするだろう。

結果はいい意味で予想通りとなった。
GMOペパボ賞という、3回早口で言おうものなら噛むこと必至の素敵な特別賞をいただいた。ありがたい限りである。

特別賞の賞状

その実、研究内容がどのように評価されたのかはわからない。審査員の間でも結構意見が分かれたと聞いた。
他の発表者の皆さんの研究内容を聞いていると、自分の研究など甘ったれたものだと思わされた。

だが、こうした結果をいただいたことで、卒論提出時に抱いた納得のいかなさはだいぶ軽減されたし、何よりもこんな拙い卒論でも浮かばれたと感じている。

そして、今なお自らの活動の一部に落語はあるし、虎視眈々と落語・寄席文化での地域活性化を狙っているところだ。

参考:創作落語”風”の発表原稿

つづいて出てまいりましたのは、(北海道札幌市出身、今年の3月まで東京の立教大学で大学生をしておりまして、4月から日本三大秘境の一つ、宮崎県椎葉村の地域おこし協力隊として働いております、)藤江こと、北鷹亭和鵬築でございます。どうぞ一席お付き合いのほどよろしくお願いいたしまして、お後お目当てと交代でございますが、

「ちょいとお前さん聞いたよ、何だって?寄席に関する卒論書いたんだって?」
「お耳が早いですね、そうなんですよ。タイトルがね『現代における地域寄席をめぐる困難さの背景にある要因』てんですよ」
「なんだい、随分と長ったらしい名前だね」
「まあそう言わないで、肝心な中身について聞いてくださいよ」
「そりゃぜひ聞かせてもらおうじゃないか」
「寄席なんてのは、東京の方に行くってえと、定席ってのがありますでしょ?あれは年がら年中ほぼ毎日やってんですけどね。そうじゃない地域寄席ってのが実はあるんですよ」
「地域寄席。そうかい、初耳だね」
「無理もございませんよ、この言葉いたるところで好き勝手使われてましてね、定義が難しいったらありゃしない。今回私がね、体裁は定席と同じで、若手に多くチャンスを与えていて、定期開催してるってのを定義にしたんですよ」
「そうかい、そら数の増えている落語家さんのなかでも二つ目の人は嬉しいだろうね」
「そうなんですよ、だからすごく大事な場所でしてね。実際の地域寄席を見るってえと、いわゆる常設の寄席っぽい形式、地域住民が主導する形式、アマチュアが主導する形式、その他の形式ってのに分けることができまして、地域住民が主導する形式といえる東京の長崎寄席なんてのはもう40年以上続いてんですよ」
「40年とはすごいじゃないか。でも、お前さん、タイトルから見ると全体的には困難なんだろ?」
「さすがでございますね。地域寄席に限った話でもないんですけどね、昔と比べると、マスメディアを通して落語が受動的に見聞きされるようになっちまったり、歌舞伎や狂言みてえな伝統芸能の仲間入りしちまったり、寄席がある地域のコミュニティが壊れちまったりして、うまいこと回らなくなってるんすよ」
「そうかい、それは深刻だねえ。打開策はないのかい?」
「それがね、ないこともないんですよ」
「なんだい?教えとくれ」
「寄席なんてのは元々客が芸人を育てる場所でございました。その意味で、鶴見って人が言うところの限界芸術ってもんになってたんすよ。演じ手も観客もアマチュアってことです。落語は演じ手がプロの大衆芸術。ところが、そいつがどんどんとハイカルチャー化してやがる。そいつをアマチュアの手で限界芸術に戻そうってんですよ。題して、限界芸術の落語だ」
「なるほどねえ。だけど、お前さん。今宮崎の山の中にいるんだろ?地域寄席なんざ九州にはそもそもなかったろう?どうやってそれに取り組むんだい?まさか、、、山を張るってんじゃないだろうね」
「馬鹿ぁ言っちゃいけませんよ。ちゃんと策があるんですよ。実は、私が今住む椎葉村の不土野って地区の小学校がかれこれ40年近く小学生に落語を教えてましてね。いわゆる子ども落語ってやつですよ」
「子ども落語かい、そりゃ大したもんだねえ」
「実際にね、不土野の子たちは人前で物怖じしないって評判ですよ。それに特にシニア層が好きな落語を子どもたちがやるんですから、世代間の交流も生まれていく」
「そうかい、子どもと落語ってのは可能性があるんだねぇ」
「さらに宮崎の日向市では子ども落語全国大会ってのを13回もやっていますんで、そのご縁を使わない手はないんでございます」
「あぁそうかい、すごいねぇ宮崎」
「んでもって、九州なんてのは歴史の宝庫ですよ。いくらでもネタが転がってるんですよ。九州から見た江戸時代の落語なんてのがあったっていいじゃありませんか。広く伝わっていない地域のストーリーを伝える手段として最適ですよ」
「たしかにそうだねえ」
「それにね、アマチュアが文化を担う、芸を披露する土壌が九州にはある。各地のお祭りを見てもそうですよ、神楽なんてのは普段はごく普通に働いている人が舞うわけで」
「たしかにねぇ。こりゃいいこと聞いたねぇ。一山当てて、寄席小屋でもつくるのかい?」
「小屋にこだわらなくてもね、九州各地をアマチュア落語家が飛び回ってごらんなさい。老若男女問わず、皆いい顔になりますよ」
「そんなことが起きたら、山の芋がウナギになるってやつだね」
「さっきからどうも山のつく慣用句ばかり言うじゃありませんか」
「へへ、だって今日は山の日じゃないか」

山の日限定、1回限りの創作落語”風”プレゼン

第5位:パテレを退会する

このことがこの順位に入ってくることの意味の大きさを、皆様にはぜひ感じ取ってほしい。
そう、三度の飯より鷹命である藤江がパ・リーグの試合をすべて見られるパテレこと、パ・リーグTVを退会したことは青天の霹靂といって差し支えないのだ。僕を昔からよく知る人ならば、前代未聞の出来事だと言って騒ぐに違いない。

2023年はホークスの野球がつまらないと感じる日が多かった。
ワクワクしない。
負け方もひどい。見どころなく淡々と負ける。
大型連敗も喫した。
勝ちに飢えた。
はっきり言って、ファンになってから最下位の経験こそあれども、Bクラスの経験はほぼないから耐性があまりないのは自覚している。
だが、あまりにひどかった。
先発投手陣が情けない。
千賀が抜けてこのザマだ。

有原やオスナ、近ちゃんがいなかったら早々に終わっていた。
デスパイネには本当に悪いことをした。

これ以上言うと悪態が止まらなくなるし、もう2024年になっているのだから言わない。監督も藤本監督から小久保監督に代わった。

大いに期待している。

だが、早速山川が来たことで余計な雑音が入りまくっている。
10年前なら「パの巨人」と言われれば拒絶し否定していたが、残念ながら今の球団の姿勢を見ていると、そういわれても否定できない。
山川。
何も言わない。
ただただ期待されている通りの働きをしてくれ。
それしか言えない。
あなたの人的補償選手は誰になるのでしょう(1/10時点)。
それいかんによっては、いや、戦力外選手のラインナップから見ても、もう心はズタボロなのよ。
これ以上ホークスから心が離れるような何かが起きないでほしい。
結局好きなのよ、だから、だからこそ純粋に応援させてほしい。

ーーーーーーー
1/11追記
と、前の日に書いたらこのザマである。
なんだったのだろうか、この1/11という日は。

朝起きてXを開いたら、和田毅が人的補償かとの報道が飛び交っており、一気に目が覚め、青ざめた。日刊スポーツが報じていたところから、ほぼ間違いないのではとの情報が次々に発せられ、気持ちはどん底に。

そんなどんよりした気持ちのまま、職場で上の空で1日を過ごし、夕方帰宅したら、ホークス・ライオンズ両球団から正式な発表がされて、人的補償は甲斐野央だというではないか。

なんなんだよ!
貴重な1日を返してほしい気持ちになった。
最初は日刊スポーツ何してくれてんねんという感情になったが、どうも和田がプロテクト28名のリストから外されていたことは確かで、夜の続報によれば、10日時点ではライオンズは和田を指名していたらしい。

だが、その後何があったか知らないが、最終的に甲斐野に落ち着いたわけである。
今回、和田が移籍していたら鷹ファンをやめることも本気で考えてしまうくらい、理解不明な動きだったが、実際に和田をプロテクトはしていなかったわけで、ホークスフロントへの信頼(もとからそんなに持ち合わせていなかったが)は地の底へ落ちた。

ルールを破ってこの結果になったとしか思えない。
何をしている。甲斐野が不憫すぎる。そして、まだ何もわからないのに和田がもらい事故を食らいすぎている。選手に迷惑をかけすぎだ。
フロントは何を考えていたのだろうか。28人のプロテクトが少ないのは百も承知。だからと言って、和田を外していいはずがなかろう。

本当に冷めた。
なんで俺はホークスファンやってんだろうと、ほんとにそんな疑問が頭に浮かんだぞ。
でもな、俺は結局ホークスを応援すると思う。
だって好きなんだもん。めんどくせえやつだよ。野球好きなんてそんなもんだ。毎日一喜一憂するために観ているようなもんだ。それで何が悪い。
これからも応援させてくれよ。

ホークスのわっちの勇姿を最後まで見たい。
甲斐野がクローザーとなって、キャリアハイをたたき出すのも見たい。
そして何より、ワクワクする、面白い野球が見たい。
それ以上のものはない。

今日一日、感情を弄ばれた気分だ。
まだ平穏を取り戻すには時間がかかろうが、見守っていたい。
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小久保よ、頼んだ。

♪ 鷹のプレーグラウンドに帰ってきたんだ
  小久保戦えよ勝利のために

第4位:東京マラソンのボランティアをし、初フルマラソンを宮崎で完走する

毎年3月に首都TOKYOを多くのランナーが走る。
走ることを夢見ていても、抽選で外れれば走れない。
選ばれし者だけが走ることを許されるそのコースは、ランナーならずとも心躍る魅力にあふれている。

そんな東京マラソンのボランティアに関する募集案内が舞い込んできたのは、卒論提出が迫る、肌寒くなってきた季節のことだった。

立教大学という団体でのボランティア枠で30人弱が募集されていた。
大学からのメールで久しぶりに心惹かれるものだった。
卒論を言い訳にしてやりたいことをやらないのは間違っている。
椎葉村の協力隊採用も決定したし、今いい波に乗っている、これは応募するしかない!

ということで、卒論提出締め切りまであと数日というタイミングで開かれた説明会に参加したのだが、倍率がめちゃくちゃ高いことを知り、当たって砕けろ精神で応募した。

波に乗っているというのは間違いではなかったようだ。
抽選に当たり、ボランティア参加が決まった。卒業前最後の、大学関連のプログラム参加だった。

ボランティアで担当となった内容自体は、もちろん重要な役割だが比較的地味なものだった。
ランナーの預け荷物をゴール後のランナーに確実に戻すというものだ。
だから、午前中はわりと暇をしていた。

忙しくなったのは、夕方にかけてだ。
事前申告タイムから言えば、決して早くはないグループのランナーたちの預け荷物担当だったことも相まって、忙しさのピークはかなり遅くにやってきた。

それでも、走り終わった後のランナーたちはみなどこか清々しく、こちらとしても気持ちよくお疲れさまでした!と声を掛けられるから不思議なものだ。ランナーの皆さんもありがとう、ありがとうとすごく言ってくれる。

マラソンのボランティア=給水所の手伝いくらいにしか思っていなかったが、そんなことはないと知ることができ、非常に貴重な経験となった。

その経験を持っていたからだろう。
自分が青島太平洋マラソンで初フルマラソンを何とか制限時間内に完走し、ゴール直後に高校生たちのボランティアからいろいろ渡されたときに、自然と涙してしまった。自分が本当に42.195キロを完走できた驚きと感動、安堵感、そして目の前に降ってくるお疲れさまでした!の声。結構ちゃんと涙が出てきて自分でも驚いた。こうやって人々はマラソンの魅力に気づき、憑りつかれていくのだろうと感じた。

まったくと言ってよいほど練習せずに臨んだ人間でも完走できてしまったが、そんな甘くないということは十二分に思い知らされた。
途中経過についてはFacebookに投稿した、以下をご覧ください。

【12/10、人生初フルマラソン完走したけれど…】

まだ膝が痛い今日この頃だ。

12/10、宮崎市で行われた青島太平洋マラソンに出場し、初めて42.195キロを走った。結果は制限時間内に見事ゴールし、完走した。だが、その内実としてはかなり歩いたこともあり、元陸上部としては納得してはいけない内容でもあった。

まずは、記憶にあるレース経過を見てみよう。

○スタート前:トイレに行きたかったが、迫り来るスタート時間と目の前の長蛇の列を見比べ、断念。

○スタート:キロ6分20前後で進む。予定より早い。

○6キロ過ぎ:誕生日が同じ河野宮崎県知事を抜かす

○6.6キロ?地点:給水し、トイレに並ぶ。

○9キロ過ぎ:トイレ中に抜かされた誕生日が同じ河野宮崎県知事を再び抜かす

○10キロ~18キロ:キロ6分くらいにペースを上げ、快調に進む。給水エリア2ヶ所ほど飛ばす。反対側の先頭集団とすれ違い、拍手を送る。

○19キロ~中間地点:足に疲労がきはじめる。気温が高かったものの、日陰は風も冷えており、その差が堪える。

○どこかのエイド:ドーナツを配っており、パンツのポケットに入れたはずなのに、どこかで落とす。

○21~22キロ:トイレ2回目

○23キロ:初めて歩く。

○~30キロ:歩く割合が増える。走ったり歩いたり。立ち止まってストレッチしたり。メガネ外して走ったり。

○30キロ~:青島はとても美しかったが、あまりにきつい青島エリア。地味に長い。沿道の高校生たちの応援もむなしく、歩く。

○37キロ?38キロ?:歩いても走っても足が痛いことに今さら気づく。だが、走るとつりそうになり、やっぱり歩き中心に。もう、時間内の完走だけが目標となる。

○~41キロ:やっぱりほとんど歩く。エイドも全部立ち寄る。周りのメンツも抜かしたり抜かされたりを繰り返す同じ顔ぶれ。

○ゴール:ラスト400mくらいだけ走った。ゴールした瞬間、どういうわけか涙が出る。いろいろ渡される。

…実は前夜21時着の飛行機で大阪から宮崎に戻った僕。その時点でフルマラソンに挑む者としてはなかなかの舐めた態度だ。

さらにその前の話をすれば、フルマラソンに向けた練習というのはほとんどしていない。1.5カ月前くらいから平均週1回、3キロ~8キロほどを走ったのみである。体幹トレーニングや筋トレもしていない。舐めた態度であることこの上ない。

「それで完走できたんだからいいじゃない」

という声も聞こえてきそうだ。たしかに完走できてしまったのはある種の驚きである。そして、レース中は精一杯やったつもりだ。だからこその涙だと、思う。本当に苦しかった。

でも、圧倒的練習不足がたたり、後半は思うようにいかなかった。なんならラスト1キロでさえ、走り出せない自分がいた。情けない。少し走ると今にもつりそうだったのだ。

理想と現実のギャップ。それがフルマラソンだと言われればそれまでだが、時間が経てば経つほど悔しさの方が大きくなってきている。

前半のペースを維持できれば、5時間切りも見えたのだ。

そして、個人的にはやはり走り続けて完走したい。

こうして人はマラソンにはまってゆくのだろう。また、出たい。ちゃんと準備して。

2023/12/13、山手線車内にて誓う。

12/13投稿のフェイスブックより

番外編:父が還暦を迎え、祖母が他界

2023年6月、父が還暦を迎えた。
もう還暦なのか。早い。早すぎる。
「還暦」というレッテルを貼られると急に、自分の親が年老いた存在に思えてくるから不思議だ。

一昔前の還暦と今の還暦はまったく別物で、まだまだバリバリ元気ではあるが、「初老」であることは疑いようのない事実なのだと思う。
それだけ自分も毎年歳を1つ重ねているのだが、その当たり前のことになかなか自覚的になれないのだから、人間の客観視なんてものはその程度なのだと思ってしまう。

父に関してはそんなに今も昔も変わらないから、ごく自然と50代の延長線上という形で60代のスタートを切ったように思う。何年か前に開かれた、高校だか大学だかの同窓会でも「昔と変わらない人ランキング」でベスト3に入ったなんて話も聞いたことがある。どうも周囲の反応を見るに、確実に僕もその系譜を継いでいると思われる。

今後一気に歳を取ったなぁと感じさせられる瞬間がやってくるのだろうか。
それは自分もそうだし、親にしてもそうだけれど。

個人的に、人が歳を取ったサインとして最もよく表れるのは、後ろ姿なのではないかと思っている。表情や話し方、頭髪、食べる量など、わかりやすい判断基準は数多く存在するが、そうしたわかりやすいものは案外、周りの人間も見落としてしまいがちで、ふとした瞬間に目にする後ろ姿こそ、真の年齢を表している気がしてならない。中学時代に50代の担任の先生について、それを感じたことがある(生意気な中学生でごめんね、先生)。

それにしても還暦という響きは、なんとも味があるではないか。
近年では、「若くあること」の価値が高騰しすぎていて、若くありたいと思う人が増えている気がする。気持ちの面では大いに結構だが、極端なほどの表面的な若作りにはあまり賛同できない。きりないじゃない、自分が大変になってしまう、そんなに突き詰めたら。自然体がベストだと思っている。まぁ、僕はもう少し若々しくした方がいいのかもしれないけれど(苦笑)。それもいずれ時間が解決して、実年齢と印象として与える年齢のギャップが縮まるとひそかに期待しているのだ。だから、今は歳を取ることはわりとウェルカムだ。

ただ、一方で子どもの頃は長生きしたいなぁと漠然と思っていたけれど、最近は死ぬときゃあ死ぬんだから、若くしてコロッと逝っても後悔しないように生きていたいと思う気持ちが強くなっている。でも、そのために変に若くいようとは思わない。あくまでも自然体で。長生き出来たら、その時は年齢相応のオジサン、お爺さんでありたい。

いくつであっても、いつでも、いつまでも、品は大事にしていたい。
今の自分に品が備わっているとは思わないけれど(全くのゼロとも思いたくないけれど)、意識は常にしていたい。

身近で品がある人と言えば、他界した祖母だった。
祖母とのお別れは突然だった。

詳しくは、以下の記事を参照されたい。

お正月。
いつものおばあちゃんのおせち料理は、当然ながらそこにはなかった。
どんなに体力が厳しくなっても、腰が悪くなっても、必ずおせち料理は作っていた。今年はやはりどこか寂しさを感じてしまった。

黒豆、田作り、栗きんとんなんかは、既製品では味わえない自然な甘さが身に染みわたる、優しい味だった。そして後悔するのは、誰もその作り方を習っていないことである。母は習っているのだろうか。習っていても、部分的にだと思う。
それは仕方ない。

でも、近いうちにおばあちゃんの料理の再現を目指す研究会みたいなのを、内々でやってみたいなと実は密かに思っている。

7月におばあちゃんが旅立ってから、日常生活のふとした瞬間に昔の記憶が思い出されることがしばしばあった。そのたびに、おばあちゃんの存在の大きさを改めて思い知らされたのだ。

何もしないでは申し訳がない。
何かライフワークとして取り組んでみたい。

第3位:大学卒業

大学を卒業した。
僕はこのことを、当たり前のこととしてスルーしたくない。
だから3位にした。

学位記。浅草のホテルのベッド上で撮った。

受験の都合上、キャンパスがどこにあるのかも知らない状態で立教大学に入学した。国立大学を目指しており、センター試験(当時)利用入試での合格だったから、本当に家を決めるために上京するまで、池袋なんてものは名前しか知らなかった。

1年間の浪人生活を経ても、第1志望校に合格することはできなかったが、案外最初から目指していてもよかったのでは?というくらいには、立教大学での学生生活に満足することができた。

そして社会学部という選択は非常に性に合っていたなと思う。結果オーライだ。さらには、どの大学であろうと、その課程がある限り、司書資格は取得しようと考えていたから、立教の司書課程は大変充実した環境だったと思っている。

ただ、アクセル全開で議論できる学友とでもいうべき存在はあまり見つけられなかった。期待して入ったゼミにもあまりそうした人はいなかったように思う。そうした話ができる人を求めて、学外での活動に注力し始めたというのもあるかもしれない。たまに、この人めっちゃ話合うなという人は学年が上であることがほとんどだったし、院生だったりした。

だからだろうか、結構大学院への進学も周囲からは勧められた。
でも、院に行ってまでやりたい研究テーマをその時の僕は持てていなかったし、浪人した1年というのも多少は頭をよぎったものである。

そうしてごくごく普通に、大学生活を4年で終えた。
休学をしなかったのも、今思えば少し意外なのだが、そこまでして取り組みたい何かがあったわけではなかったのだと思う。47都道府県踏破、日本一周とかは今でもしたいなと思っているが、コロナ禍でやるのはどうも気が進まなかったというのもある。

コロナ禍と言えば、コロナ初年度を大学2年で迎えたわけだが、僕は、実は大学2年の春の成績が一番よかった。もう、おとなしく勉強しようと腹をくくったからだと思っている。そして、受講者の多い必修科目等は、リアルの大教室だと大体うるさい。所詮、立教大学の社会学部はそんなもんである。後ろの方ではしゃべっている奴が多くて、集中できない。その点、オンライン授業はありがたかった。とにかく集中できる。そして資料も見やすいし、ダウンロードが許されていれば後から見返すこともでき、非常に思考を深める時間をもらえた気がして僕的には好きだった。リアル授業だと、リアぺを書く時間もままならないこともしばしばである。
質問もしやすかった。リアルだと周りの視線が気になるような場面でも、オンラインだと遠慮なく意見をぶつけられる環境であったというのは、大変やりやすかった。他の人の意見の共有、保存もしやすかった。
その意味では、オンラインが結構好きだった。一時期は、オンラインでいいじゃんという考えを持っていたくらいだ。

だが、コロナが落ち着いてキャンパスでの授業が戻ってくると、やはり少人数で議論するようなものはリアルがいいと感じた。そして、大学が持つ価値は授業内よりも、授業外などの余白に宿るのだなと、友人たちと雑談をしながら強く思ったものである。そこから思いがけない展開に発展することもあるし、何というか、加速度的に事が進む推進力を得られる場所でもあるし、ダラ~っとし続けられる安心感のある場所でもあるのだ。

学位記の中身。

そういう場所に4年身を置いて、そこを卒業したのだ。
それはやっぱり大きいことだと思っている。

第2位:普通自動車免許を取得、めっちゃ運転する

まさか自分が車を運転するようになるとは思ってもみなかった。
それもほぼ毎日といった頻度になるとは。

それくらい車にはまったく関心がなかった。
完全に「必要に迫られて」免許を取得したのである。
「Google、トヨタ、頑張れや!はよ自動運転カモン!」と大学1年の頃は周りに言いふらしていたくらいだ。

そもそも身分を証明する際に、一番最初に「運転免許お持ちですか?」と当たり前のように聞かれ、国民皆運転免許みたいな状態が気に食わなかった。「とりあえず取っておく」にしては、まあまあまとまったお金が必要なわけで、それを当たり前のように求められるのは、どうかしてるやろと思っていた。だから、いろいろ問題はあるが、マイナンバーカードの方が提示を求められる側としては、納得がいく。皆持っているもの(になるんでしょ?)なわけだから。

そんな感じで、意固地になっていた部分もあり、免許を取りに初めて教習所の門を叩いたのは、大学4年の夏のことである。そこからコロナに罹ったり、卒論に追われたりして、結局真面目に連日通うようになったのは、12月中旬。もともと前向きではないわけで、渋りながらも嫌にならないように連日通っていた。かなり危なっかしいスケジュールで免許取得に向けて進んでいたのだ。

晴れて試験に合格し、免許を取得したのは2月頭だったろうか。
とりあえず免許を取れたことに安堵し、しかし、あの山道を初心者が運転できるのかという不安にさいなまれながら3月末まで過ごした。そうそう、3月末まで地味にブランクが空くのも嫌だった。

時計の針を少し戻して、免許を取得する1カ月前。
札幌の実家で父から提案されたのは思いもよらないアイディアだった。

「うちの車、使いな」

めちゃくちゃびっくりした。
僕が小学生の時に大阪で購入した車。それを持っていけというのである。
確かに実家のある場所は、札幌市内の中でもかなり交通手段には恵まれている場所だ。とはいえ、まさかこんな展開になるとは思っておらず、最初は返事を保留したが、それ以上の妙案は思いつくはずもなく、ありがたい申し出を受けることにした。

そして、父は3月末に札幌から宮崎まで、フェリーを使い、陸路を走り、はるばる運んでくれた。もう感謝してもしきれない。

宮崎市で合流し、椎葉を目指した。
その道中で、ところどころ運転を交代することで僕の運転デビューが実現した。もうそれは冷や冷やものであった。土地勘のない場所で、教習車以外の車を運転する初めての機会。それがまさかの子どものころからよく知っている車であり、助手席には父親がいる。とにかく変な感じだった。

結局全体のかなりの部分を父に頼んだが、諸塚村からの迂回路が大変だった。まだ、国道が復旧する前だったのだ。父が運転してくれていたが、ベテランの父でさえ音をあげていた。そしてはっきりとこう言ってきた。

「この道はしばらくはお前には無理だな」

ごもっともである。むしろこちらから願い下げである。事故る自信しかない。諸塚村側の迂回路が終わっても、松尾の迂回路も初めての人間には堪えた。今でこそ、なんなく通っているつもりだが、拡張工事前であったし、離合も何度かしなければならず、父が疲弊するのも無理はなかった。父がつぶやいた。

「平家もよくこんなところまで逃げてきたな」

ホントにそのとおりである。平家はよく逃げてきたと思う。そして源氏もよく追っかけてきたなと思う。両氏に心から盛大な拍手を送りたい。

無事に役場にたどり着いた時には、心底ホッとしたのを覚えている。

それが3月終わりのこと。
4月は一歩も村から出なかった。とにかく運転の自信がなかったのだ。自信をつけるためには運転しなくてはいけないことも理解していたが、村の外はあまりに遠すぎるように思われた。道をただ走る分にはいいのだけど、駐車場とかでのこまごました動きが難易度が高すぎるように思われた。知らない土地、特に都会での運転や駐車場での動きについては、今もまだ自信はないし、慎重になっている。

しかし、人間の慣れというものはすごい。
今ではあちこちに運転しまくっている。春先からは考えられない移動距離だ。少しセーブした方がいいのではと最近では思っているくらいである。
それでもまだ、都市部での車線変更とか、なんかめっちゃ入り乱れている交差点とか、ホテルの立体駐車場とかは基本的にドキドキする。そして、基本的に高速道路を使う恩恵をあまり感じないので、ほぼ一般道の経験しかなく、逆に高速道路を使うのが今では億劫になってしまっている。普通は逆なのだろうけれど…。

車を運転するのが普通になってから思い始めたのは、案外運転するの好きなんだな自分、ということである。車内でいろんなラジオ番組を聴くのが一つの楽しみになっていることは間違いない。これからも、いろんな場所を見て回るのが好きな自分だから、どんどん様々なところに出かけてゆくと思う。フッ軽な人間に車を持たせると、こうなってしまうらしい。ガソリン車を遠慮なく乗り回していることについて、環境問題の視点から見直す機会を持たないと、何も違和感なくこのまま普通に暮らしていきそうである。現状ゼロにはできないが、減らすことは視野に入れておきたい。ただ、無責任に理想を掲げることはしたくないと思うので、現実に即した形で探ってみたい。

第1位:椎葉村に引っ越し、社会人のスタートを切る

椎葉に来て数日後に女神像公園から撮った、日向椎葉湖の様子。

もしこれが賭けの対象なら、これほどつまらない第1位の発表はないだろう。そう、ここまでさんざん言及してきた椎葉村への引っ越し・社会人生活のスタートそのものが栄えある第1位である。

でも、これを1位に持ってこなかったら、それはそれでどうなんだ?ともなりそうである。

いろんなところで話しているが、僕は椎葉村図書館「ぶん文Bun」に一目ぼれして、ここをめがけてやってきた。椎葉村の移住者のなかではわりと珍しいタイプの人間である。

交流拠点施設Katerie外観。

大学3年の3月、つまり大学4年に上がる直前。いわゆる就活解禁の時期だ。この解禁時期というのも、経団連がなくすだのなんだのと言っていたが結局抜本的に変わったという話は聞かない。

この時、僕はいわゆる就活は一切していなかった。
そもそも、いわゆる就活をするには出遅れたなぁという感じを強く抱いていたのだ。

というのも、中長期インターンや短期のインターンを相当数こなし、そのままの流れでエントリーシートを提出したり、入社試験に挑むのが自分の望む仕事を選ぶのならばマストだろうと考えていたのだ。実際、数十社でのインターンを経験したという人間が周りにも多数いたし、アルバイトの代わりに長期インターンでお金をもらっているなんて話もたくさん聞いた。

だが、そのインターンの応募時期が目まぐるしく忙しかった。そもそも長期だとこの時期でも遅いくらいだが、数か月などの中期や短期の募集は、この頃まだ結構あったと記憶している。

ちょうど、コロナでずれ込んだ図書館実習で陸前高田に行っていたのが11月頭からの2週間弱だったのだが、まさにその時期に〆切となる募集が非常に多かった。今思えば、そのほかにもたくさん募集はあったろうし、変に焦って見切りをつけることもなかったかもしれないが、当時の僕はそこまで考える余裕はなかった。目の前の実習に全力を注いでいた。

ちなみに、インターンとはそもそも何?とか、どういった種類やタイプがあるのか、みたいな話は大学1年の時に学内で開かれた講座のような場で聞いていたので、大学3年の秋になるまで全く情報を集めることをしなかったろくでなし、というわけでもない。情報を集めたうえで、なし崩し的に就活を始めることはしなかったというと、かっこつけすぎだろうか。

結果として、インターンの道はあきらめ、図書館の仕事との相性の良さや面白さを感じつつも、あまりに狭い正規司書募集の枠で争うほど司書にこだわりがあるわけでもなし、また公務員になって図書館配属を希望するのもそんな悠長に待てないし、図書館流通センターなどの指定管理請負業者や業界関連会社に入るのもあまり想像ができなかった。非正規雇用の司書になるなど、もってのほかである。

とりあえず、この時点で決めていた方針としては、東京からサッサと離れること、そして地方で何らかの仕事をして経験を積みたいというものであった。と同時に、将来的に特殊な世界に身を置きたいと思っていたので(今も思っているが、少し揺らいでもいる)、その時のために社会経験を積むこととコネを作ることを重視していた。さらに、特殊な世界でうまくいかなくても将来にわたってメインフィールドは地方にしたいと考えていたので、いつでも帰れるような場所が必要だと考えていた。
(この場合、札幌は当てはまらない。実家がある場所ではあるが、新しい場所がよかった。何かの本で読んだが、20代のうちは5年同じ場所にいたら腐ると。転勤族の僕としては激しく同意だ。そんな思いもあり、新しい場所を開拓したかった。)

そうしたことを考え、当初は北海道のローカルで活動している方が関わっている、全国のゲストハウスをフィールドにした学びのコミュニティ「暮らしの藝術大学」なるものに属して、経験を積もうかと考えていた。だが、そこでは安定的にお金を得るばかりか、出ていくお金の方が多くなりそうだったこと、用意されているプログラムや活動自体が動き始めたばかりのタイミングで、継続的に事業が展開されるか心もとなかったことなどから、すぐさま決断するのは難しかった。
その結果、その「暮らしの藝術大学」の方に勧められたのが「地域おこし協力隊」とう存在だったのだ。

もちろん、その存在は以前から知っていた。だが、まさか自分が目指すことになろうとは思ってもみなかったし、新卒でなれるのかという部分もよくわかっていなかった。しかし、ちょっと調べてみると、協力隊募集もピンキリで、明らかに地雷だろうというような募集内容も散見された。

ましてや自分は20代前半の経験のない若造。
地域にいい様に使われてしまうリスクも高くなるだろうと考えた。2023年になって、肌感では新卒協力隊がかなり増えているが、2022年時点ではまだ少なく、出回っている情報も少なかったため、新卒協力隊の事例やロールモデルを探すのは至難の業だった。やっとの思いで見つけ、話をしてみてもまるっきりテーマが違ったり、そこまで深く考えていない人だったりして、難しさを感じた。

そこで、①経験はないが、曲がりなりにも専門分野と言える図書館関連の募集を優先して探すこと、②よさげなところが見つからなければ、募集内容・テーマにこだわらずに力を発揮できそうなものを見つけること、③なんもなければゼミの先生や司書課程の先生の伝手で紹介してもらうことの3点ほどを、何となくではあるが自分で方針として打ち立てた。

①の方針に従って検索した結果、北海道の奈井江町と宮崎県の椎葉村がヒットした。
奈井江町は、ごく一般的な図書館・図書室環境の改善という、経験のない司書には厳しそうだなと感じる内容でありながらも、札幌からの距離も程よく、電話で問い合わせをした。司書資格を持っているということで反応はまずまずだったが、着任時期的にうまく合うかが微妙であった。

もう一つが椎葉村。こちらは、見るからになんかイケている。そして「飛び出す司書」なる募集をしている。その理念がもうドンピシャ。それについて力説しているクリエイティブ司書さんも結構自分が考えている図書館の課題感を把捉していて、これは!と思った。
だが、募集期限がすでに過ぎており、非常に歯がゆい思いをしながら、泣く泣く他を当たることにしていた。

それからしばらく経ったのち、クリエイティブ司書さんのTwitter(当時)を見たのだった。後ろ髪を引かれる思いで、椎葉村の募集情報に舞い戻ったのだったか。そしたら、なんと4月いっぱいまで募集を延長しているとのツイートを見つけた。

待て待て待て待て。
間に合うじゃん!!!!

心躍るとはこのことだろう、すぐさま、クリエイティブ司書さんにDMをした。すると、ちゃんと返事が来た。しかも、ツイートと違ってものすごく丁寧で物腰が柔らかい文面(怒られるぞ笑)だった。

そこから椎葉村との交流が始まった。
大学4年生であることから、あわてる必要はないということでまずは6月くらいにzoomで面談をした。出席者はクリエイティブ司書さんと地域振興課の担当者だったはずだ。そこで、まずは一度来てみんさいということで、協力隊インターン制度を活用し、椎葉に行ってみる方向で話がまとまった。運転免許が必要という話もここでされたはずである。

大久保のヒノキ

これは椎葉村にとっては僕という人間を見極めるための時間であり、僕にとっても、いろいろと考える時間となった。この頃には椎葉村がダメだった場合も、他地域で協力隊をやろうと決めていたので、9月のインターンはありがたい反面、椎葉にどっぷりと浸かれば浸かるほど、採用までのプロセス及び日程がかぶっている他地域へ割ける時間は自ずと減るわけで、椎葉一本に絞る構図というのはハイリスクな行為であるという自覚はしていた。でも、ここが本命であることは間違いないわけで、それはインターンで行った際にも感じたことであった。

ちなみにインターンでの訪問体験記は以下をご覧いただきたい。

インターンの最後には台風14号という因縁もでき、なんら迷うことなく椎葉村地域おこし協力隊に応募したのである。インターンの成果プレゼン&採用面接を11月末だったかにこなし、無事に採用していただき、今に至る。さすがに、採用決定されるまでは不安を覚えていたが、結果がすぐ出たので精神衛生上助かった(笑)

思いがけず、長々と前段の話をしてしまった。
上記のような過程を経て、2023年4月から晴れて新社会人として、椎葉村地域おこし協力隊として働き始めたのである。

右も左もわからない新社会人である。
「一目惚れ」とは言ったが、上司となる存在がいなければ、はっきり言って来ていない。その意味で、上司=師匠を自ら選んで来たといっても過言ではない。まるで伝統芸能の世界だ。でも、本当にそう思う。
名刺交換の仕方一つとっても、よくわからなかった(いろいろ流派があって面倒くさいということもよくわかってきた)。

一般的な企業への就職をした人間が当たり前に得るものを僕は得られなかったり、あるいは習得に時間がかかるかもしれない。その覚悟はしたうえで来たつもりだ。そのマイナス部分を補って余りある、ここでしかできない経験ができると思って来たのだ。だから後悔はない。日々充実している。実際、図書館業界で先進的な取り組みをされている方とお会いする機会もあり、一般的な司書になっていたら、1年目からとてもできたことではないと感じている。最近思うのは、クリエイティブ司書さんが持っている人脈がおかしいということだ。『司書名鑑』に載っているような人たちとも普通につながっていて、毎回聞かされるたびに驚いている。

それでいて、まだ椎葉村図書館「ぶん文Bun」はまったくもって完璧で究極なアイドル図書館ではないという点が、やる気を喚起させる。産声を上げ、成長するさなかにあるというところがなんとも魅力的だ。

「どんな司書よりも司書らしく、どんな司書よりも司書らしくない司書を目指す」

これは2023年の8月号だったか、僕が特集された協力隊だよりで書いた見出しのセリフだ。これは今後も僕の指標になることだろう。そしてその道のりが平たんではないことにも、日々気づかされているが、その分面白い。目指しがいがあるってもんよ。

協力隊の最大3年というシステムは、僕にはプロ野球の育成枠とダブって見える。結果が出なければ、クビだ。プロ野球の世界ほどシビアでないにしろ、地域で3年で結果を出すという仕組みはわかりやすくていい。結果を出せば、その後の定住への道(1軍定着)や他地域での大きい仕事(トレードや移籍?)にもつながってくるはずだ。

甘えすぎることなく、どん欲に、1年1年が勝負というつもりでいろいろ仕掛けていきたい。

こんなに書くつもりがなければ、こんなに決意表明をするつもりもなかったが、書いているうちにこうなってしまった。

ここに、長い長い2023年の個人的10大ニュースが完結したことを宣言します。2024年の目標編や図書館について考えていることなども執筆予定ですので、こうご期待!

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