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2020/8/1〜8/8 日記(一週間目)

8/1 土
朝、少し鬱。しかし起き出してパンを食べ、なんとかやり過ごす。
午前中はほとんど眠った。起き上がれなかった。

昼食後、一気に深い鬱が来る。パット・メセニー「One Quiet Night」聴きながらベッドに倒れ臥して耐える。家族の前では(俺は実家暮らしだ)「また鬱が来たよォ〜!」とか言って、道化を演じておく。本気で深刻に話す気がしない。しかし本当の気持ちは暗い。口の中で変な味がして来るのが分かる。部屋のカーテンを開けるのも嫌で、閉め切っている。

先月(7月)から鬱が深まっている。一月に体調を崩して、適応障害と診断され、会社を退職したのが二月のことだった。そこからずっと体調が悪く、働くことが当たり前に出来ておらず、外出もなかなか出来ない(外に出るのが異様に怖いという症状。パニック障害の気もあるかもしれない)状態。
明確に鬱の症状が具体化している。とにかく朝から昼が調子悪く、吐き気がして、頭を締め付けられるような重みがあり、つらい。夕方から少しずつ持ち直すがその頃にはもう疲れている。それでも日課の宅録や友人とのリモートでの製作は続けているが、正直毎日苦しくて吐きそうだ。実際には吐かないけど。病院からは抗鬱薬を増やされ、カウンセリングでははっきりと、鬱だね、と判断された。あと胃腸もずっと調子悪いので調整剤も毎食後飲んでいる。それでも腹は下している。
何が鬱の原因なのかは最早分からない。現代の社会的な閉塞感も関係しているだろうし、自分の性分も関係するだろうし、人生のうまくいかなさ、音楽活動のうまくいかなさ、人間関係のうまくいかなさも関係しているに違いないし、言いたくもないが、自分の中に子供じみた甘えや怠けが、もしかしたらあるのかもしれない。要するに今まで吸収し、飲み込んで味わって来た人生の場面場面、毎秒の瞬間、そこで感じた感情の全てが織り交ざって、鬱が具現化されているのである。所謂「コロナ鬱」の一種、なのかもしれない。

この状況を変える方法。何か強い成功体験をするか、これから無理のない生活を死ぬまで送れる、という確信めいた感情を得るか、そのどちらかくらいしか自分には思い付かない。ひとまず分かるのは、自分は酷く疑心暗鬼になっている、ということだ。
社会常識に対する疑念。自分や他人に対する疑念。それらが今の自分を突き動かしている。ネガティブな方向へと。
この日記は毎日の感情を整理し、セルフセラピーを摂るために書く。

夕方、リモートでの楽曲製作に取り掛かり、仕上げる。
何故か緊張して目が痛くなる。まぶたが閉じられない。なんとか夕食食べる。きつい。
布団に潜るとまた鬱が来てさらにきつい。
21:45分頃就寝。


8/2 日
朝、割とすっきり目覚めたので、今日は鬱にはならないかも、と期待したが食後に精神薬、調整剤を飲んだらやはり鬱が来た。布団に潜り込んで、イヤホンでRobin Guthrie「Fortune」聴きながら寝てやり過ごす。目の痛みはいつの間にか治った。
10時台に目が覚める。昨日アマゾンで手に入れたリリー・フランキー、澤口知之「架空の料理 空想の食卓」を読む。面白いが、鬱が邪魔してあまりぐんぐん読めず。発見がふたつ。鬱になると本がなかなか読めなくなる。そして朝昼を過ごすのが辛くなる。
小学生の頃からその気はあった。親にふと「死にたい」と言ってしまったことを覚えている。今は死にたい、なんて思わないし、むしろ生きたくてしょうがないが、身体は明らかに死の方向へ向いている。心とかけ離れたところで身体が勝手に動いていくのだ。そしてその流れは、そう簡単には止められないようだ。

カーテンを閉めたまま耐え忍ぶ。何を?何のために、誰のために、何を耐え忍んでいるのか。自分や他人に対する疑念で頭が割れてしまいそうだ。過去の辛い思い出がフラッシュバックして止まらない。口の中に変な味が溜まる。

夕方だんだん鬱が退いて来てほっとする。しかし夜になって布団に潜ったらいつの間にか鬱になっているのだろうから嫌だ。全く。自分が鬱になるなんて思ってもみなかった。ただただ辛い。社会が変われば良くなるのか。自分の意志が変われば良くなるのか。本当に勘弁してほしい。


8/3 月
朝、鬱が退いていてほっとしたが、薬飲んだら結局鬱。
昼動画編集、小説書くなどして気を紛らわせようとしたが、夜、鬱が来て身体が硬直する。きつ過ぎて吐きそうだ。


8/5 水
昨日は昔からお世話になっている先生からカウンセリングを受けるべく久々に街に出て、酷く疲れた。疲れ過ぎて日記も書けなかった。親に心配されるくらい疲れて、寝込んだ。街に居るとそこで出くわす他人の思考が入り込んでくるような気がする。不特定多数の他人の意志、生活の営みが見えてくるのが怖い。そこに真実や輝きがあるとしても、恐ろしい。どうしてしまったんだろうか、俺は。

カウンセリングでは、あなたはそのままでいい、鬱は年単位で治していくものである、今は修業中なのだと言われた。ここから一年、長くもったら二年以上くらい硬直状態となる可能性があるということである。もうしょうがない、鬱になった以上は付き合うしかない。自分が鬱になるなんて思ってもみなかったが、もうしょうがないのだ。

昨夜は一晩中疲れと鬱で動けなかった。身体が重かった。街に出るだけでここまで体力を食うとは。自分は駄目人間だ。社会人としてまともな生活が出来ていないからだ。街に負けている。能力として誇れるものもない。だがそれがどうしたというのか。駄目でも負けていても社会人失格でもなんでも、こうやって日記を書いて、創作して、思考しているだけ充実している。そこで持ち直すだけだ。

そして今日は朝がやはりきつかったが、医者の助言で精神薬を朝夜1錠ずつから夜2錠に変えることにして、朝薬を飲まないでいたら気分がすっきりしている。朝きついのは薬が原因でもあったのだ。しかし薬を飲むことで無意味な苛立ち、焦燥感は確かに取れている。まあ、薬に慣れてくれば効かなくなって苛立ち、焦燥感も復活するのだろうし、根本的な性格は何も変わっていないのだからもっと自分に怒るべきな気もしてしまう。

鬱になり、食生活も変わった。朝はパンしか食べられない。今は食パンにバター塗って食べている。米を食べると気分が悪くなる。無理矢理味噌汁も飲むが不味い。昼は食べるが、飯の味がしない。夜だけ美味い。つまり、きつい。毎日の食があまり楽しくないことはとても悲しいことだ。

朝方ハロルド・バッド「Avalon Sutra」聴きながら寝たら変な汗をかいてきつかった。その後腹痛、下痢。仕事をしていた時から腹が弱くなってはいたが、仕事辞めても全然変わらず腹を下し続けている。この、下痢が続いているのもかなりきつい。神経性の腹痛であろう。調整剤を飲んではいるのだが効かない時は効かない。相変わらず口の中で変な味がするのを確かめながら、この日記を書いている。

11時台にさしかかるとだんだん調子が悪くなって来た。手足から力が抜けていく。寝たいが寝ようと努めても神経は昂っているので苛々するだけ。寝ても駄目、起きても駄目。じゃあどうすればいいんだ、と叫びを上げたくなる。インターポールを聴いていたが気分悪くなってきたのでキングス・オブ・コンビニエンスに変更して少し気分良くなる。美しい音楽には治癒の力があるということは間違いない。しかし鬱は相変わらずそこら中で俺を監視している。自分を審査している人間が何人も、毎日毎秒、存在している。暗い渦の中にだんだんと取り込まれていくような気分。

昼飯。親と話す。他人からどう思われているかが気になって仕方ない、という心情が鬱を引き起こしているのだと親に説かれる。確かにそうかもしれない。人間関係の中で悩んでいるのは事実だ。他人の評価をやたら気にしているのも事実だ。他人から色々言われ続けて悩んでいるのも事実だ。

何が正解なのか分からず、自分が「普通」でないということだけを強く印象付けられる毎日に疲れている。
しかし、「普通」とはなんなのか。他人が決められることなのだろうか。社会や人間が「普通」を定義できるとは思えない。そこまでの支配力は誰にも無いだろう。と、頭では分かるのだが心で分かっていないので、結局は同じことで葛藤するのだ。つらい。
昼飯後また下痢。つらい。

夕方から夜にかけて体調良くなる。チェットベイカー聴きながら就寝。


8/6 木
朝、所用で音源ファイル送付。しかし気持ちは沈み切っており、ハロルドバッド聴きながら無理矢理二度寝。

夜、親と話す。昔俺がいじめられていた話になり、悲しくなる。思い出したくないことを思い出すのはきつい。しかし、そこで得た傷が今の自分に影響しているのは事実だ。音楽や本や映画、表現行為というものに出会えなかったらと想像すると恐ろしくなる。逃げ場が無かったはずだ。
ビーバドゥービーと豊田道倫の新曲聴いて、なんとか持ち直そうとする。


8/7 金
朝からやはり沈んでいる。何を見ても何を聴いても無味乾燥。Polygon Window「Surfing On Sine Waves」聴いて持ち直そうとする。リチャードDジェイムスのように、独り創作に没頭して飯食ってる人が正直羨ましい。本人には言い知れない苦労もあるのだろうが、トムヨークも、スクエアプッシャーも、ダフトパンクも、フルシアンテも羨ましい。プリンスもひたすらスタジオにこもって何枚ものアルバムを作った。そしてそういう、表舞台にあまり出ないでインナースペースに閉じこもってる人は、ライブをコンスタントにやる人より良い曲を作っている気はする。正直。パーソナルな自分から発せられる、濃いエキスをひとつひとつの楽曲に注入するような彼らの表現では、ある種の閉鎖性、孤立感が快感を産んでいる。

夕方、いおりさんとのEP「Summer Letters」YouTubeにアップ。夜「あちこちオードリー」見て爆笑する。面白いテレビを見ている時だけ救われている。


8/8 土
朝、だいぶ楽。無事作品出したからか。次も作らねば。鬱で引きこもりの音楽オタクが、自分の責任で作品を積み上げていくことが誰かにとっての差し迫ったドキュメントになるはず。無理矢理にでも、そう信じながらやる。
穏やかにGareth Dickson「Collected Recordings」聴く。宅録の作品。こういう、パーソナルな、心の澱が零れたような作品にしか俺は興味無い。誰かとユナイトするために作られてるような歌は要らない。
今日はアウトプットはオフにする。

この日記を公開しよう。公開した方がいい気がする。何になるのかは分からんけど、何かにはなるかもしれない。吾妻ひでお「うつうつひでお日記」のような日記作品が好きだ。ああいうものとして誰かが読んでくれるかもしれない。なんでも自分の表現になるなら公開する価値はあるのかもしれない。
部屋のカーテンは相変わらず閉めたまま。外の景色を見たくない。顔がむくんできた。太ってるみたいに思われそうで嫌だ。運動不足が祟っている。
田舎に越したい。もう都市は嫌だ。疲れた。疲れた。疲れた。

引きこもって、「GAME」の頃のPerfumeを聴いている。この頃のPerfumeの曲はひどく懐かしく聴こえる。子供の頃の曲だからか。

もうライブよりスタジオワークに絞って生きるのもいいんかなとか思ったり。人前に出ない人の方がいい曲作ってる気がしてしょうがない。音楽覚え立てのガキみたいな気持ちで、エイフェックスツインやプリンスに憧れてしまう。
今日はだいぶ楽だな、と思いながら夕刻を過ごす。毎日無事に過ごせてるだけで奇跡だ。今日が無事に終わる以上を望むのは良くないのかもしれない。何かを望み過ぎているから、どうにも疲れているのかもしれない。でも何か望んでいないと毎日がつまらなくなる。淡々と生きていくだけじゃ心の充足が保てない。ジレンマだ。

「架空の料理 空想の食卓」を読み終わる。凄く面白かった。素晴らしい。テンションの高い文章で、読む、というより、何らかのエネルギーに巻き込まれていくような感覚を味わうような本だった。
山本精一のインタビューがいつの間にか出て来ており、これも非常に興味深い話だった。

夜、「相席食堂」見て爆笑。面白いテレビを見ている時だけ救われている。

まあ、今日はだいぶ落ち着いた日だったと思う。しかし油断してはいけない。また鬱はやって来るはずだ。
しかしまったく。この根源的な罪の意識や自己嫌悪、トラウマから離れて、ラクに生きる方法は無いのだろうか。まあ、すぐに答えが出るなら、皆悩まないし、自傷や自殺などしないだろう。
もう、純文学的、哲学的に悩んでても楽しくない。はっきりとラクに生きていきたい気持ちが溢れている。口に出して、頻繁に書き連ねていれば、言霊の力でラクに生きられるだろうか?俺の高校の時の先生は「言霊というのは本当に在る」と言っていた。たまにそれを思い出す。それが本当なら。それが本当なら。
もう寝よう。破滅しないように己を保つだけだ。自己防衛優先だ。それの何が悪い?もう苦しみは要らん。




お読み頂きありがとうございます。あまりに毎日がきついので、日記として感情を吐き出すことにしました。今後も飽きるまで書きます。来週に続きます。

Ohno Tamio

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