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夕方の、あの匂い

娘のスイミングのお迎えに、夫婦で行ったときの話だ。

その日は、いつもの時間と違うクラスを受講した。
プールの外に観覧席があって、そこでレッスンの様子を眺めていると、どこからともなく、あの匂いがして来た。

住宅街やマンションの中庭などで、夕刻になると必ずと言っていいほど感じるあの匂い。
玉ねぎ、お肉、にんじん、そしてじゃがいもを炒める、カレーとかシチューとか、肉じゃがなんかの、最初のあの匂いだ。

プールの窓際席にはひさしがついているのだが、1人の男性がそのひさしのレバーをクルクル回して畳んでいる。
たぶん、プール専属のバスの運転手さんのお仕事なのだろう。

そのおじさんは、順次ひさしを畳み、私たちが座っているベンチの上のレバーにも手をかけて「いい匂いがするねぇ」と声をかけてこられた。

私は「ほんとですね、ご飯どきですものね」と返した。

おじさんは続けてこう言った。
「私はね、ひとりもんだから、ご飯も自分で作らなくちゃいけないんだよ」

うーんとこれは、初対面の運転手のおじさんの愚痴か、世間話のどちらだろうか。
あんまり長話になると面倒かなぁ。

同じように思ったのか夫が「あ、そうなんですか」とあっさりと答えると、おじさんは言葉を続けた。

「早くに嫁さんが死んじゃったもんだからね。長いこと寝たきりでね。60歳で病気で倒れて、長く介護もしたけど、8年前に逝ってしまってね」

思いもかけない告白に、夫も私も少し驚いたけれど、「ああ・・・そうでしたか・・・」と繋ぐ。

おじさんは匂いを吸い込むように、少し鼻を鳴らして、そして少し笑って、「・・・寂しいね」と呟いたのだった。


あの匂いによって、懐かしい思い出が蘇ったのかもしれない、と思った。
亡くなった奥さんが作ったカレー、あるいはおじさん自身が長い介護生活の中で作った肉じゃが。そこにまつわる家族の思い出、妻との会話、病気との戦いの日々、看取った時のこと、そして1人きりの暮らし。

つい、そこにいた初対面の私たちに声をかけてしまうほど、その懐かしい匂いに心が大きく動いたのかもしれなかった。

「ああ、、、そうだったんですね・・・」と返すと、おじさんはまた少し鼻を鳴らして、少し間を置いて、夫に向かって「奥さんは大事にしてあげや」と言い、ひさしを畳み終え、自分のバスに戻っていかれたのだった。

あの間には、きっといろんな思いがよぎったのだと思う。
そのあとの言葉から推測するに、後悔や慚愧や罪悪感もセットだ。

「もっと大事にしてあげればよかった」
そんな気持ちが、「奥さんは大事にしてあげや」という、夫への言葉を生んだのだろう。

匂いは、人の脳に直接的に働きかけ、思い出に直結して、意思とは関係なく一気にフラッシュバックが起こったりする。

多くの人が日常的に体験している夕方のあの匂い。よくある家庭の匂いと思っていた。

でも、それこそを切なく感じるひとがいて、そこにも物語がきっとあるのだ。
そんなことを思った夕暮れだった。


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