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フレデリック・ショパンと太宰治とマヌルネコ。

訳のわからない反抗心っていうか、小っ恥ずかしさっていうか、そういう気分で犠牲になったのが、私にとってはショパンだなと思う。
ショパンってあのフレデリック・ショパンその人。

小学生になった頃初めて聞いた時は「綺麗でカッコイイピアノだ」と思って、ピアノの先生に「これが弾きたい」と言って練習した。

でも、小学校高学年になってくると、あまりに正統派すぎて、おまけに大抵の人が知ってる曲が多くて、いろんなところで耳にもして、何だか急に「ダサい気がする」と思い始めてしまった。

中学生になると「ショパンなんて、あーもちろんモーツァルトも、別に好きじゃありません」と、綺麗で素直な心が遠ざかっていった。

どうしてあんな気分になったんだろう。
思い返すと、中学校のクラスで一緒になった文学系っぽい女子が「私、太宰治が大好きなの」って言ってるのを聞いた時に感じた、妙な小っ恥ずかしさと同じなんじゃないかと思われる。

それからもうちょっと大人になるまでは、違うテイストのピアノを聴いたり、耳コピしてチンタラ弾いたりして遊んでいた。

それまでも往年の名プレイヤーの曲は聞いてたけど、ジャッキー・テラソンの「I love paris」っていうアルバムに事故のように出会った時は、一曲目から持ってかれた。
あんなピアノ弾けたらいいなあなんて、コンサートに行ったりもした。
セロニアス・モンクをよく弾いてくれてたおじさんに「この人いいよ」って初めて自分からそのアルバムを推した。

ところがもっと大人になったら、ショパンだって、モーツァルトだって、そんなに浅くはないのでは?と感じだして、結局、小学生になった頃と同じように「綺麗でカッコいいピアノだ」って思えるようになって、また弾きたくなった。

従順だった頃がないから反抗期があったのかどうかも定かではないけれど、多分あれが私の反抗期だったんだと思う。
素直に、綺麗とか、かっこいいとか、好きとか思う心を、馬鹿にして過ごしてた時期。

でも、根本的に感動しいだから、やっぱりそんなの長くは続かなくて、体力、気力のパワーが減ってくると反抗する力もなくなってきて、隠蔽していた間抜けな純粋さが隠しきれなくなってきた。

カッコつけるって良くないね。
特に好き嫌いにはカッコつける必要ない気がする。
どうせ、映画見ても泣くし、本読んでも泣くし、感動して心がキュンってなるし、不条理な事にぶち当たると怒りで前が見えなくなるし(あっ、映画とか本とかね)大体そんな風に大した事じゃない事で、心がぐちゃぐちゃになること自体、大人気ないっていうか、成熟した感じじゃないもんね。

ここ最近では、自分が勝手に思ってたクールで何事にも右往左往しない憧れの大人になんてなれないことがわかったし、他人に迷惑かけなきゃ感じたままでいいなと思うことにした。

ごめんよ、ショパン。
私のちっぽけな反抗心で「ショパンなんてダサい」とか言っちゃったりして。
これだけの時を経ても消えない楽曲達がダサい訳ないよね。

正直いうと、反抗期らしき時期の時でも家ではこっそり聞いて(こっそりって変か)それも嫌なことがあったり、気分が落ち込んだりした時はヘッドホン大音量で聴いてたりしてたんだ。
本当は何回聞いても、グッと来てたんだよ。

悲しい事があったら自然とピアノの前に座りたくなって適当に鍵盤を触ってると、元気になってたりもしてたんだよ。それは今もか。

多分、今まで過ごして来た時間よりこれからの方が少ないんだろうから、躊躇することなく、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いって素直に感じたまま過ごして行こうと思う。

お父さんとか私の周りにいる人は「いつもそうじゃん!」って言うかもしれないけれど、これでもカッコつけた大人になりたかった時期だってあったんだ。

昨日、私が愛聴させてもらってるnoteの記事「江藤タマミさんの朝の一曲シリーズ」で「マヌルネコのうた」を聴いて、癖になって4-5回聴いた。
おまけに知り合いにも布教してしまった。そんでもって那須どうぶつ王国に行きたくなった。
official MVっていうのがこれまたいい。きっと、いい動物園に違いない。

そう、現段階で「ショパン」と「マルヌネコのうた」が同じ感覚で好き。
どこの部分で同じ感覚なのかはうまく言えないけれど、細部に渡る手抜きのない仕上がりが感じられるところと、ただ単に肌に合うっていうか・・・。

自分の感性を素直に信じようと思う。






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