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玄米が食べられなくなりました

私が20代の頃、断食道場というところへ行かされたことがありました。

その頃は精神を侵していたので、ある方が勧めてくれたのがきっかけです。

私の身近な人は、定期的に5日間くらいの断食をしています。

私にはとてもできないと軽く言ってみたら、「目的がなければできない」と言われました。

私が訪れた断食道場は、完全に食を断つのではなく、徐々に減らしていくようなやり方だったと思います。

期間も一週間くらいだったと思います。

玄米菜食に徹するというものでした。

現在調べると、道場の先生はお亡くなりになっています。

道場に訪れていたOBの方々がいて、その中の一人が私に向かって「つらそうだねぇ」と声をかけてくれました。

ご自身の経験を抽象的に話してくれましたが、何一つ私には響かなかったので、具体的な経験談を聞きたかったですね。

別のOBの方から名前を変えた方が良いと言われました。

私の名前には「死が表れている」と言うんです。

それについて先生に相談しました。

すると、姓名判断の本を読んで自分で決めなさいと言われました。

みなさん、先生に名前を考えてもらっていたのに、私は自分で決めるように勧められ、その通りにしました。

戸籍上の名前はそのままでいいから、普段使用する名前を変えなさいと。

それからの数年間、私は友達にも手伝ってもらって決めた名前を堂々と使っていました。

そして、玄米菜食を日常的にするようになっていたんですが、ある瞬間、喉を通らなくなってしまったのです。

最初は美味しかったのに、不味くて、気持ちが悪い。

本当は菜食なんてしたくもないのに、強要していたのだから自然な反応です。

長い話を短くまとめているので、あっさり書いていますが、当時は凄まじい日々が続いていたのです。

その経験は私に、もう二度と自分に何かを強制的にさせたりはしない!という決心をさせてくれました。

今は、これは体にいいからといった理由で何かをしたり、食べたりすることができません。

特に食に関しては、その効能など、どうでもいいと考えています。

道場の若いスタッフと少し語り合った時、「所詮無理なんだ」「完璧など求められない」という話になって、当時の私が向かっていた完璧主義の根を断つことができました。

自然食の本当の意味は、食べ物が自然かどうかではなく、その人にとって、ふさわしいもの、常に変化していて、その都度、状態に合った食べ物・食べ方なんだと考えています。

それすら完璧にこなそうとしては意味がない。

経験上、完璧主義は危険です。

でも、人には完全になりたい欲求があると思います。

完全にも意味があると思います。

完全というのは何も欠けていないという意味で捉えています。

欠けていない=ありのままの自分。

否定して自分の一部を切り離すことのない状態が、完全な状態だと信じています。

どんな側面も自分の一部として認めるだけです。

暴力的だったり、反抗的だったり、脆かったり、思いやりに溢れていたり、自信に満ち溢れていたり、いろんな側面を持っている自分がありのままの自分だと受け入れるだけです。

それが完全なひとつの私。











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