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哲学書を読むということ

バッハの同じ楽譜なのにグールドの弾くバッハと他のピアニストが弾くバッハはぜんぜん違う。音楽は作曲家のものか演奏家のものかという問題だ。

哲学書を読むという行為はどうか。読み手によって解釈が変わってしまうというのはどうやら具合が悪そうだ。あらゆるテクストは誤読可能性に開かれているが、誤読と言うくらいだから哲学書を書いた著者と違う思考をすることは間違いなのだろう。

だとすると哲学をするという行為と哲学書を読むということは別の行為のようだ。哲学するとはあくまでも自分の頭で考えることだからだ。

池田晶子という哲学者はその点を重視して哲学入門書が哲学史の羅列になってしまい、哲学することと違う行為をしていると舌鋒鋭く批判していた。

あくまでも自分の頭で考えること。それを忘れないようにしなければならない。

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