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最初からネアカじゃなかったけどポジティブになった人の話


ポジティブ人間と聞くと、輝かしいビジョンを連想させる。

あぁ、私ではないや。と投げ捨てたその映像こそが、今私の瞳から通してみた世界だった。世界がキラキラと輝いていると聞くと、途端に妬みたくなる気持ちもひしひしと感じるが、それを少し羨ましげに見つめていた私が得ることができたのは、もはやMY世紀の大発見レベルだ。

十人十色、ポジティブ人間と聞いて連想するものはまちまちだが、私にとってのその手の人間は、明るく充実した生活を送る楽しそうな人間だった。
昔の私だって毎日を楽しんでいたし、少なくともそう思いたかった。しかしどこか、自分の生活に満足いかない部分があったのだろう(とても抽象的)。楽しい毎日のはずなのに、思考はネガティブであったのだ。


では、過去と現在の私を比べてみよう。

過去の私は、自分に自信が無かった。特に大衆の前で発言をするとき、語気を強めて緊張を悟られないようにしなければ喋れなかった、少し怖い人だった。いや、少しというかかなり怖い。できれば写真に自分の顔など写したくないし、それが残っていて欲しくなかった。とにかく全てに自信がない。

自己肯定感もすこぶる低く、自分のことを「足りない人間」だと思っていたし、常に他人と比べて勝手に嫌悪感を抱く、コンプレックス製造機である。

とにかく、人の目を気にせずには生きていられなかった過去の自分。勝手な妄想ワールドで言われたらしき言葉を思い出しては、悶々と悩む日々は「楽しい毎日」とは程遠いことがお分りいただけるだろうか。


それでは現在はどうだろう。私は真のポジティブ人間になれたのだろうか。

まず最初に思い浮かんだのは、自信がついたことだ。過去の自分とは反対に、数年かけて素晴らしい環境で培った成功体験がとうとう私の心を動かした。自分のことが少しずつ好きになってきているのだ。思い出は写真に残したいと思うし、人前でも自分の言いたいことを柔らかい言葉でも言えるようになってきた。

人目が気になって、被害妄想が強かった自分も、自信が強くしなやかになった為に、目線だけでオドオドしなくなったし、人に見られても笑顔で返す余裕も出てきてしまったのだ。

他人と比べてしまうことは、頻度は減ったもののまだ続いている。が、比べてしまったとしてもコンプレックスに感じるより、相手を尊敬する考えが差先行するようになった。大きな進歩。これでコンプレックス製造業は廃業したことになる。


このように、私が全体的にポジティブ人間に変われた大きな要因は、自分の考えが変わったこと。他人の評価が全てだった生活から、自分の感性を基準に物事を感じ、考えられるようになった。
人の目を全く気にしないで生活する日はまだ遠いが、それに徐々に近づいている実感があり、そんな生活が気楽で本当に楽しいと思えるのだ。
初めは全然ネアカじゃなかった。むしろそんな人たち見ては僻んでしまう人間が大きく変わるきっかけは、多様性を感じたことにある。
みんな違ってみんな良い。の本当の意味と、リアル金子みすゞ論を体感できたからである。

比べられないものを比べるのはあまりにナンセンスだと、多様な文化や考えが私に教えてくれたから、今私は私なりのポジティブ人間をやらせてもらいながら、ここに生きているのである。

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