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「結果的に」の「結果」とはなにか

「結果的にこうしてよかったよね」という言葉を度々発してきた。

言葉の前後のニュアンスとしては、まさかこんな風に繋がるとは思ってもいなかったけど、こうなってくれたから、「結果的に」よかったよねというイメージ。

分からないではない。
すべてのことを予想通りに実行するのは難しいから、

ドミノが倒れていくようにつながって、あれよあれよと状況が変わっていくということもある。

それは自分でコントロールできることではないだろう。

そんな時には、(こんなこと考えてもなかったけれど)結果的にはよかったねと言いたくなってしまう。

それに良い状況になったのだから、それでいいじゃないかというのもわかる。
もし悪くなっていたら、目も当てられないけれど。

自分の想像しえないことが起こる可能性もあるから、広く多くのことを柔軟に受け入れられるようにする、という考えは大事だと思う。

ただ、ここで話をしたいのはそういうことではない。

無限に続けられそうなことを書くけれど、
「結果的によかった」ことで次には「結果的に悪くなる」ことがあるんじゃないかとも思っている。

つまりは、「結果」は閉じたものではないのではないかということである。

よく聞くことで「結果」か「過程」かという話があるが、実際のところはどちらにも振れる可能性があるものなのではないかと思う。

大きく見れば「結果」だと思っていたものが「過程」にもなりうるし、

小さく見れば「過程」だと思っていたものが「結果」にもなりうるわけだ。


またニュアンスの話になってしまうが、

「結果」という言葉には、どうにも終わりというイメージを連想させる力がある。

そうなってしまったものは変えられない、それが結果だ。というニュアンス。

間違ってない、というかそういうものであることは確かだと思う。

「過去に戻ってやり直す」ということができない以上は、起こったことを変えられはしない。

この人間世界に生きている以上は、それは正しいと思って生きていくしかないだろう。

過去に戻れるのなら、やり直したいと思うこともある。

とは言うものの、上手くいくまでやり直すという作業自体も、なかなかのパワーが必要なことなので、出来たからってみんながそうするわけではないのだろうか。

一時的に起こったことを変えることは難しくないかもしれないが、実際にはひとつひとつの連鎖しているものなので、戻って一部を変えれば満足いく形になるかと言えば、そんなこともないだろう。

何と何がどう連鎖しているのかを紐解いていくなんて、途方もなさすぎる作業である。

絶対しんどい。。

等しく全員に過去に戻れる力が宿ったところで、全員が等しくその力を扱うことはない。

もはや、過去に戻る人って意識高いよねとか言われていそう。

話が少し脱線したが、
「起こったこと」は変えられないと認めた上でどうするかと考えると、受け取り方を考えていくしかないのだろう。

受け取り方というのは、知らず知らずのうちに構築されているもので、それほど絶対的でもないことも、絶対的だと思ってしまうこともある。

例えば、「結果」に対して強いこだわりを持つ場合、「結果」は「終わり」であるという自認を持っており、それが原因で「結果」を変えることのできない絶対的なものとしてしまうことがあるだろう。

ただ、

「結果が出たのだから、これ以上は何もすることができない」ということになるのかと言えば、そんなこともないのではないだろうか。

こういう話をすると、

起こったことは変えられる、起こったことに対する解釈さえ変えればいいのだ。という話になることも多いが、

解釈を変えるってそんなに簡単なことでもない。

ネガティブだと感じていたことを、ポジティブに感じるようになんて全くイメージがつかない。

だとすれば、起こったことへの反応の仕方を考えないといけない。

果たしてどう考えていけばいいのだろうか。

ここで少し思ったのが、
自分の行動を株の投資的な見方をするのはどういうことだろうかということである。

つまり、ちょっとだけ、たどり着く場所を先延ばしにしてみるということを考えたい。

ここがゴールだと思っていたけれど、まだ先があったのか。
じゃあ、この「結果」はまだ「過程」でしかないんだな。

くらいのテンションで起こったことを見ておくのが、長く生きるためにはあっていい概念なのではないかと思う。

株だと何かの要因で大暴落したり、大暴騰したりとある程度の波が存在しているが、長い目で見れば徐々に上がっていってくれる。

自分に起こった「結果」という事象もそれくらいの認識でいいのだろう。

短期的に利を得ようとすれば、失敗と言われるもののダメージは大きいが、長期的に考えれば、どこかで回復してくれるのだからいいのである。

そんな精神を持ちながら、どんなことが起こっても、それを閉じようとはしない。(忘れたいほどのことなら積極的に閉じていきたい)

「結果」というパーツをつないで次の「結果」を生み出すことを「過程」として考えてみる。

途方もない作業であるように感じるが、ひとつひとつのパーツの連鎖を見ていくのはとても大切なことだろう。

「結果的に」と言われる事象にも、当然そうなるための「結果」のミニパーツは存在するのだ。
パーツは認識さえすれば、また付け替え可能なものになる。

そうなれば、こんなこともあったなと思いながら、別の形で付け替える楽しみもできる。


これは、あくまで長く続けていくことの前提だ。

うまく行かなった時の逃げ道を作っていると言われれば、それを否定する気はない。

色々なところで言っている気がしてきたが、
物事の最大のリスクはやめてしまうことだと思っている。

だから、逃げようがなんだろうが、続いてさえいればいいのである。

「結果的に」に思い詰めることはない。

ただの事象のコレクションが集まっただけである。
次に使えるパーツくらいに思っておいていいのだ。

という風に考えていくと、
「結果的に」の「結果」とはこれからを生きていくためのパーツであるという気がしてきた。

独立しているものではないのだ。絶対的なものでもない。

自分にはこんな結果しか作れないと縛り上げる必要もない。

じっくり眺めながら、もしかしたらこんな使い方もあるのかもしれないと、のんびり考えてもいい。

価値あることとか、有能な人材であるとか、さまざまな基準はあるけれど、そんなことは一度脇に置いて進んでいい。

どうあれ進み続けることができればいい。

終わるのではなく続くんだ、

という精神で生きていけると嬉しいなと自分自身に対して思う。

これが何もできない凡人の生き方である。

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