アニメにおける“ライヴ”というセカイ

「日常系からライヴ系」へ。

ラブライブ、バンドリ、ゾンビランドサガ、SB69、スタァレビューライト、etc…

現代アニメにおいて日常系のムーブメントはライヴ系へと移行した。いや、日常系における日常を、日常のちょっとした成長や達成を、表現として最大化したのがアニメにおける“ライヴ”である。

仲間の団結や、悩みや困難の解決、努力の成果がライヴという形式で発露され、観客のボルテージが上がるという承認によって表現される。あるいは逆に友情の亀裂や課題を示す為に観客の反応がイマイチという表現をとることもある。これらはライヴという演出を通さずとも表現できることである。しかし態々、観客という“キャラクターたちの輪の外側の存在”にそれを観測させ、その反応を描く。観客の反応を描くことによって、キャラクター達の達成した課題/抱える課題が内的にも外的にも重大であるかのように描写され、キャラクター達の日常における些細な物語はエンターテイメント的なダイナミックさを獲得する。

このことから、アニメにおけるライヴはキャラクター達の日常を最大化して示す形式なのだと言える。

アニメにおけるライヴは『エヴァンゲリオン』の使徒戦の様なもので、思春期青少年の内面の発露の場なのだ。使徒を倒す≒ライブをする≒ちょっとした成長の発露、使徒を倒せない≒ライブが上手くいかない≒成長課題の発露である。もっといえば、ライヴにおける観客は「おめでとう」と言ってくれるシンジくん周辺の人々なのだ。かつてセカイと呼ばれた思春期青少年の内面を最大限に反映した固有結界的物語空間は、現代においてステージと観客席で行われる“ライヴ”という、比較的等身大のスケールに収まった。

振り返れば、「セカイから日常へ」としてセカイ系に終わりを告げ、日常系の幕開けとして語られる『涼宮ハルヒ』から文化祭におけるライヴシーンは、SOS団の達成の発露、ハルヒの成長の発露されるシーンとして描かれていた。

アニメにおけるライヴはセカイである。加えて重要なのは、ここには観客≒視聴者が描かれ、視聴者の参画によってライヴにおける日常の最大化がよりエンパワーメントされることだ。これが、かつてセカイ系と呼ばれていた作品群と、現代のライヴ系の差であると言える。

しかし今、視聴者はセカイから抜け出す事ができずにいるように思う。セカイという大きな空洞の様な物語空間はコンパクトなライヴ会場に変化したが、観客であるところの視聴者はライヴ会場から抜け出す事ができない。なぜなら、劇中では小さなライヴ会場であっても、それは現実へ侵食し、いや、現実を内包し、巨大な視聴者とキャラクターのセカイを構築するからだ。

例えば、観客≒視聴者というのが成立するのは、昨今のアニメ文化が円盤ではなくグッズ/イベントを収益源としているという事が示すように、劇中と同じキャラクターが同じ楽曲をライヴイベントで披露することで、視聴者は本当の意味で観客になりうる。そもリアルタイムにSNS上でコメントし同コンテンツを追うクラスター同士で盛り上がりを確認し合う様からしてライヴ観客的である。

さらに言えば、ライヴはスマホゲームコンテンツとして、多くの視聴者の掌へ収まる。

視聴者は物語上でキャラクターの動向を追うことで徐々にキャラクターと同一化していき、ライヴによって日常を最大化させる。物語上で推しキャラを見出すことで、自分と類似する存在を見出し、その写し鏡がライヴによって観客に承認されることで、視聴者もまた承認をえる。しかしここでの観客とは視聴者なのだ。つまり、アニメにおけるライヴは視聴者の自己承認の場となってしまっているのである。視聴者は初めから、自らのセカイに見合ったキャラクターを探し出し、ライヴによって自らのセカイを承認しているのだ。

スマホゲームとしてライヴが登場する場合はそれが極めて顕著で、例えば『シャニマス』(まだアニメにはなっていないけど…まぁアニメチックだし…)ではドラマパートや育成パートでキャラクターへの理解を深め、ライヴパートは何故かプロデューサーという設定であるはずのプレイヤーがライヴに干渉し操作することで同一化され、リザルト画面の成果によって肯定される。ライヴ画面においてプレイヤーは、プロデューサーでありキャラクターであり、観客でもある。音ゲー的な形式に収まる場合は、サイリウム的な色味のUIによる音ハメによって観客であるプレイヤーがキャラクターと同一化する。媒体は違えど、ライヴを通して消費者の日常が肯定される構図は類似する。

視聴者…というより多メディアミックスを想定して言葉を選ぶなら、消費者というべきか…消費者はライヴというセカイから抜け出す事ができない。

この消費者のセカイから脱する方法の1つは推しキャラを推さない、推せないキャラを推すことで多少は達成できるかもしれない。しかし箱推し、関係性萌という消費者感情をクリエイターが想定していない筈も無く、確実な方法とは言えない。寧ろよりセカイに耽溺する回路ともなりうる。

セカイから脱せない事による問題は、新しきを獲得する事が困難な点だ。勿論、ライヴを通したセカイの自己承認が悪いという訳ではないが、気が付けば無意識に自分がライヴというセカイの揺り籠に停滞してしまっていることはあり得るのではないかと感じるのだ…





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