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場をつくる→場を育てる、という考え方を発見した時の話

なぜそんなことを思ったのか

私は普段あいだすという場の企画と運営をしています。
私は、人がなぜそういう言葉を発するのか、なぜそのような行動をとるのかにとても興味があります。

当然ですが、人の言葉や行動には意味があり、伝え方、やり方によっては人を喜ばせたり傷つけたりできる。その言葉や行動が発せられる、行われる時、そこには外的要因だけではなく内的要因その人の過去(経験 / 記憶)、現在(今目の前で起こっていること)、未来(これから起こり得ると感じたこと / 想像)など)
お互いの中で複数の条件が重なった時に、良く受け取ったり、悪く受け取ったりするものだと思います。

お互いの関係性が信頼あるものなのかによっても変わるので当たり前かもしれませんが、生物とは異なりとても複雑だなと。
でもその複雑さを自分なりに解釈して、相手と向き合うことは「人」にしか出来ないことなので、とても意味があることだと考えています。

私は、複数の価値観を持った人が集まる場はまさに思考と感情の生態系(上手く喩えられているかは分かりませんが)で、何か意味があってそのかたち(どんな性質があって、どのような属性が集まり関係し合っているのか)」になっていると考えています。

また、複数でいる中の一人として向き合うのか、対一人で向き合うのかでも変わってくるように思います。

そこには人の癖、習慣、好み / 趣味、その人のその日のコンディション(感情 / モチベーション / 体調)等々が生物でいう習性のようなものとして在るような気がするからです。

場に関わっている私としては複数の人間が行き交う場所で、感じずにはいられないことです。

また、その場に「在る」いろんな感情や性質と向き合いどう関わるのか、それとも完全に遮断するのか、、、
日々そんなことを考えながら、周りとの距離を測りながらも自分の在り方を探求しながら過ごしています。

あいだすが完成する前に、それを小さく試してみたのがこの後語るランドリールームの話です。

あいだすについてはこちら
https://aidaskubi.com/
私がなぜあいだすをつくることになったのかはこちら
https://note.com/ohashimari/n/nab43e1607644

荒れ果てたランドリールーム

私が日々、生活している旧病院のランドリールーム兼道具置き場での話です。多世代のメンバーが共同生活を送るこの場所では、インバウンド事業のため、日々シーツなどの洗濯物で大賑わいの場所です。

あくまでランドリールームは服やシーツを洗って干す場所です。
でも生活をしていると、この場所の使い方の癖や習慣が出てきます。

公共の場所は、誰もが使えるという一方管理者がいなければある意味「誰もいない(存在しない)スペースである」とも言えるなと思いました。
それを良いことに、物を干すスペースであるにも関わらず、それがしづらい場所になる物置部屋と化していたからです。

<最初の状態>
いろんな人が物を押し込んでいく場に、捨てるであろうカーテンや、いつ使われるのか不明な酒粕、ダンボールの山であふれかえっていました。

❎ シーツが干しづらい場になる

🙅‍♀️🙅‍♂️ 使い勝手が悪いので人が入ってこない

💔 愛着を持てない場になった

私が人にとったコミュニケーションと行動

<行動>
1. 片付けてみた

とりあえずシーツをかける場所の面積を増やすため、人に手伝ってもらい不要なものを片付けてものが干しやすい状態にした。

2. 人に話してみた
片付けたことを人に話すと、ここを「コミュティスペースにしたい」という声が出てきた。東京でも喫茶ランドリーという喫茶店とランドリールームを一緒にした場所があったので確かにいいかもなと思った。

3. 椅子を置いてみた
とりあえず人に滞在してもらうには椅子かなと思い置いてみた。
スペース的にちょうどよかったようで、打合せスペースに使ったり作業に使ったり、物を置くスペースとして使われ始めた。

この時、洗濯をして干すだけのスペースが少し変わった気がしました。
椅子を置いてみたことで以下のような変化が起こったのではないかと考えています。

<物理的な変化>
・ランドリールームで座ることができるようになった
・椅子を作業台にするなどの使い道が増えた
<文脈的な変化>
・ここに滞在する理由が変化した
・ランドリールーム < 黙々と落ち着けるスペースになった

ここで重要になったと思うことは、
違う使い方を示す人がいたこと / それを人に共有したこと / 周りがそれを受け入れたことでした。
このことで手応えと次の問いが生まれたので、次にやってみたことは以下です。

1. 複数人に話してみた
その中でアイロン台を置きたいという人が現れたり、
ランドリールームが最近変わっていることの要因(私)をみんなが認知したのかなと思います。

2. 形の異なる椅子を置いてみた
作業台としてガッツリ使われるようになった、人とそこで話すことができるようになり、さらには人をだめにするソファが持ち込まれ、引きこもって作業する人が現れました。

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3. 一人の人に本を置いて欲しいと言ってみた
本を置く椅子とテーブルがセットになって置かれ、気づいた人がそこに合いそうな本を置いてくれるようになりました。

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ここから、洗濯の待ち時間(30分とか)をここで過ごせるような場を作りたいという新たな話題が出た(これから試してみたい)

<コミュニケーション
1. 複数人に話した
私がランドリールームを片付けたということでどうやら管理者っぽい人がいるという認識になったのかなと。
その場で出た話題などは実行される場合もあればまちまちでしたが、複数人に広く伝えたときに良いのは誰かこの場所を片付けたり、気を遣っている人がいるという認識を広く持たせられるということな気がしました。

今までいろんな意味で「無人だった場所」に気を遣っている人がいると思うと少し自分も気をかけてみようと思ったり、せめて少しは綺麗に使おうと思ったりするのかなと。

2. 一人に対して考えや行動を話した
一対一のコミュニケーションだと考え方や試していることなども共有でき、内容を深く伝えることができるので、相手からも意見をもらえたり、理解してもらい、私以上に場に変化を与えてくれていました。

つまり、当たり前かもしれませんが、
場のコンセプトややりたいことを伝えていくには広く浅く自分がやっていることを周りに示すこと。そして、信頼できる人に深く自分のやりたいことを丁寧に伝えることの両方が必要だなと思いました。

場が持つ性質と可能性について

<場のラベルを剥がすということ>
それぞれの感覚や価値観で綺麗にしたり、片付けられないままになってしまうランドリールーム。
完璧にしたい人が片づけ切ってしまうと、それが出来ない人は使いづらく
綺麗にしたい人にとっては、片づけられない人に腹が立つ。
その場所に関わる時間が多い人ほどその気持ちは強いのではないかと思います。

そこで、ランドリールームに別の関わり方を加えることで、ランドリールームという場のラベルを剥がしてみることによって以下のようになるのではないかと私は考えています。

ランドリールーム(ただ洗濯をする場所)
=綺麗に保たなければいけない

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いろんな関わり方ができる場所(それぞれにとって愛着のある場所)
=自分が使うから居心地良くしたい

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つまり、場のラベルを剥がすということはそれぞれが好きに使う用途を変えて、その場所に関わるということ。

それぞれ自分の関わる時間が増えるため、できる範囲でその場所の治安を保つのではないかと思います。

実際に現在は余程の大きなイベントがない限りは荒れることなく、そして何より意図的に置いた本や椅子が片付けられることなくその場に居座っています。
受け入れられているような感じがして少し嬉しい気持ちになります。
反対にその物には興味がないからそのままの可能性もありますが、それはそれで干渉されていない点良い関わり方なのかなと。

場を育てるとはどういうことか?

あいだすにも共通するところがあるのですが、お互いを変に「干渉しない」ということが多様な価値観が混じり合う時のキーワードなのではないかと思っています。

それって混じっていないのでは?と思われるかもしれませんが、混じり合うというのは直接的にぶつかり合うことだけではないと考えています。
それが「つくる」と「育てる」の大きな違いかなと。

場をつくるとなると「共創」とよく言われるように、共にアイデアを話し合って1つのまとまった答えを出していくような気がするのです。

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これも素晴らしいことだと思うし、できた時はとても強い場になり、一体感と達成感で、感無量だと思います。
でもその代わりに、価値観や信念のようなものが強く出て関われる幅は狭いのではないかと思っています。

でもここでやりたいのはそういうことではない
それぞれが、それぞれの関わり方とやり方で育てていきたい

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いかにいろんな人が関われるかで、その場がその人にとって「在る」場になっていくかだと私は思っています。
そこでそれぞれの「関わり方=育て方」があっていいのかなと。

ランドリールームの話に戻すと、
関わり方を広げることでその場所を育てよう(綺麗にしよう / もっと使いやすくしよう / こういう使い方をしたい)ということになったのではないかなと。
さらにそれを共有していくことがとても大切だと感じました。

あいだすでも関わり方を広げることをやっていく

あいだすでは地域の方々にまず、気軽に寄ってもらえるようにするために定期的に非日常Dayをつくっています。
例えば、餅つき大会をしてみたり、平釜研究会と題して大きな釜で煮炊きをしたりと、地域の当たり前や文化をとおして地域の方々に教わりながら自分たちも参加することで、少しづつふらっと来てくれる人が増えてきたなと思います。
ここで面白いなと思うのが、ふらっと来てくれる人の中には地域で浮いていて、こういう人は非日常Dayの時には来なかったりします。

でもそういう関わり方でも、その人にとってふらっと話にくる場になっていると思うと、やる意義があるなと思います。
ここで場の「関わり方を広げる」ことの意味を感じました。

煮炊きをした際も、みんなでつくって平釜文化を知るという会だったのですが、集まりすぎた大根で切り干し大根にしている人がいたり、サラダをつくったりしていました。
その中でベンチをつくりたいという人がいて、周りも特に咎めることもなく一人黙黙とつくっていたのがとてもよかったなと。
あいだすは施工中の場所もあって、棟梁が行き来していることも面白く、ものをつくっていると棟梁チェックが入るのも一日の中のイベントになりつつあります。
これはあいだすとしてはとても理想的なことで、興味を持ってやっている人に対してプロフェッショナルが関わることでよりその知識や技術を掘っていける場になっています。
なので棟梁のような人たちが居座ってくれるような場にしていきたいなと思います。

詳しくはあいだすの「現場と本場を生み出す」をご覧ください。
https://aidaskubi.com/about

今回の例はそれぞれが自分なりの関わり方で場が在る状態になっていた。
これからは日常の中にもいかにそれを自然発生的につくれるかを実行してみたいなと思います。

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