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【日記・記録】旅立った娘の話・・・1

2022年8月24日(水)夜、娘は旅立ちました。享年36歳。
乳がんでした。小5の男の子一人を残して・・・
最初の記事は、こちら。

・・・私自身が忘れないために、この日記を書いています。・・・

あくまでも、嘔吐をしっかり治して、次の抗がん剤治療に臨む、という目的で、6月22日(火)に入院しました。
入院中は、けっこうLINEでやり取りしているのですが、26日(日)の夜から、LINEが既読にならないので、気になって27日(月)に面会に行きました。(もともとは、28日(火)に面会に行く予定だったのですが・・・)

面会に行くと、ちょうどこれからMRIを撮りに行くところ、でした。
少し会話をしましたが、ちょっと様子が変だったので、少し気になりながら、帰宅しました。
翌日も既読にならず・・・28日(火)に面会に行くと、ほとんど眠っている感じで、会話は出来ず。。。私が呼びかけると、ちょっと目を開けるけど、すぐに目を閉じてしまう状況でした。

ドクターに状況を聞くと、薬の影響で眠っている時間が多くなっているけど、「早く嘔吐を治して、次(最後)の抗がん剤治療を行いましょう」とのこと。少し安心しました。

・・・が、翌29日(水)、面会に行こうと思っていた時に、病院から電話があり、「緊急ではないけど、ドクターから、お話しがあるから、来てください」との事。ちょっとイヤな予感がしたけど、チビさんと二人で、病院に駆けつけました。

面会すると、やはり、ほとんど眠ったままで、ほとんど反応がありませんでした。ドクターからは、「急に意識レベルが下がったので、今、原因を調査中。薬を色々と試してみている。でも、あまり時間がない、、残された時間は、一週間くらい・・・」。

あまりにも、急変だったので、なかなか頭がついて行かれなかったけど、その日から、娘の携帯を必死に探して・・・友人のアドレスや電話番号を調べて、何とか連絡したい方には、連絡をすることができました。

まだ、コロナは第7派に入っていなかったので、面会も1回二人まで10分以内、という制限があったけど、25日(土)から、沢山のお友達が面会に来てくださいました。愛知県から朝一で飛んできた方もあり、、大感激でした。

娘は、ドクターの懸命な治療のおかげで、25日には、だいぶ意識がはっきりとしてきて、面会にいらしてくださった方は、「元気そうでよかった~~!!」と、おっしゃっていました。
娘も、お友達に会うと、しっかりと受け答えが出来ていて、こちらもびっくり。このまま良くなって、すぐにでも退院できるのでは、と思うくらいでした。
その後、少し足のリハビリも始まりましたが、7月半ば頃からは、骨髄への転移の影響からか、完全に両足が動かなくなりました。
でも、足が動かないだけなら、車椅子で生活すれば良いことだし、そのことでは、あまり絶望はしていませんでした。

自宅に戻ることも視野に入れていましたが、せん妄もひどくなり、これ以上、がん治療を続けるのは難しいのでは、という医療チームの見解もあり、ドクターたちとも相談して、緩和ケア病棟(ホスピス)に転院することになりました。

この頃は、第7派がひどくなり、病院も面会完全禁止になっていたのですが、娘は、いつ急変するかわからない、という事で、私とチビさんの面会は、1日10分ですが、認めてくださいました。
もともと、小学生は面会できないんですよね・・・

緩和ケア病棟を探す上で、一番の条件は、小5のチビさんが面会できる事!

緩和ケア病棟は、本来(コロナ禍でなければ)は、24時間面会できるはずなのですが、一般的に、小学生は面会できないみたいです。理由は、緩和ケア病棟の患者さんは、免疫力がとても低い方が多いので、、小学生は、色々と感染力が強いから、、、。。なるほど、、、です。

病院の医療チームが、小学生が面会できる病棟を、頑張って探してくださいました。多摩市にある病院で、家からは、片道1時間ちょっとかかるのですが、そこだけが、唯一、小学生面会可能でした。
本当にありがたかったです。

手続きも、敏速にやっていただき、8月2日には、多摩市の病院に転院しました。
緩和ケア病棟は、治療の目的が一般の病院とは違い、本人の苦痛を取り除くことを一番に考えて治療(?)してくださるので、私たちもホッとしました。
ドクターも看護師さんも、本当に優しかったです。私たち家族にも、精神面でも、とても気を使って下さいました。

転院した直後は、少し混乱やせん妄を繰り返していたのですが、8月14日(日)に、奇蹟が起きました! <・・・続く>


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