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死を看る/見ることは慣れるのか?



私は療養病棟で働いて3年目になる看護師です。
21歳から死にゆく過程を看る仕事をしています。
その中でたくさんの死をみてきました。

亡くなる1時間前まで下ネタ言ってたのに急に心停止した患者さんもいましたし、レートが0になってから復活しその後何週間も生きた患者さんもいました。
この時期ですからコロナに触れていない看護師はいないのではないかというほど、どんなにリスクマネジメントしてても流行ってしまう。例に漏れず、私の働く病棟でもクラスターが発生し、短期間に立て続け患者さんが亡くなっていきました。



死を見る機会が多い仕事をしていると、
「死は怖くないか?」
「死を見ることになれるのか」と聞かれます。
それについて、現時点の考えを残しておこうと思います。


ーー慣れるはいったい何を指すのか

まず私は「慣れる・慣れない」の概念はあまりフィットしていなくて、死は日常に送る上で起こる一つの事象だと思っています。
ご飯を食べることやトイレに行くことに「慣れる」という言葉を使うと違和感があるのと同様に、「死に慣れる」と言う表現は違和感のあるものに思います。

昔は死は家でみるものでした。
ですが施設化が進み、ごく一部の職種しか死を見ることがなくなりました。それにより死に対する恐怖を強く感じる人が出てきたり、遠ざけようとしてくる人が増えたように感じます。


人はみんな最後は死ぬのに、なぜそれについての情報収集やイメージトレーニングをしないんだろうと不思議に思います。

「死が怖い」
それは当たり前だと思います。
実際見てないしイメージしてないしデモンストレーションをしてないから。そりゃこわいし恐れる対象ですよね。

私は死を意識して生きてるからこそより濃い人生が送れると思っているので、見せてもらえるのであれば最期というものを見たいんですね。自分がどうこの世から離れていくのかぼんやりと触れながら生きていたいんですよね。


「死に慣れますか」という質問は言葉を変えたら、悲しくならないですか?動揺しないですか?ということだと思うんです。
患者さんがこの世からいなくなったことに対して、頭では合理的に理解していても体が寂しい悲しいって反応する事があります。その時は反応に素直に、家でその方をおもって泣きます。
身体機能が低下していくのを見ているし、そろそろだなっていうのはなんとなく予測がつくようになります。というより周りの先輩たちが話してるのを聞いて自分もそういう感覚になるという感じですかね。

それでも身体は反応します。
ドラマで「人が1人死んでも当たり前のように明日は来る」みたいなセリフがあったんですけど、実際に芸能人が亡くなっても政治家がなくなっても当たり前のように毎日は来るし、本当にそうなんだろうなと思ってました。

でも感覚は全然違いました。
もちろん当たり前に生活は進んでいくけど、なんだか余白ができたような、足りないような、色が薄くなったような気がするんです。
胸に穴がぽっかりと空いたと言うセリフ結構使われますよね。どういう感覚なのかわからなかったんですけど、患者さんが亡くなって体が悲しんで泣いている時その感覚に近いんだろうなと思いました。
私の場合、心に穴が空いたって言うわけではなかったけど、自分が触れてきた空間と言う立体に対してなんだか足りない感覚がする。それが悲しみにつながっているんだなと感じました。


「亡くなった人間を見るのが怖い」と言われたこともありますが、それは多分「死体」を見るのが怖いのであって「ご遺体」を見るのは怖いことだとは思わないのではないかなと思います。

そもそも医療職以外では死への経過を見る機会なんて滅多にないですよね。だから元気だった記憶の方が強くて医学的に亡くなった状態を見ると、その差に身体が固まるのではないかと思います。

経過を見てないと怖いですよね。血圧が下がってきたり心拍数が40台に落ちてきたりおしっこが徐々に減ったりする経過。
レートがいきなり下がったけど、持ち返して数週間生きる方もいれば、いきなりすとんと下がりそのまま亡くなる方もいる。

人は意外としぶといし、意外とあっけない


という相反する感覚を人の死に対して感じています。人の最期というのは臓器の寿命と気力のバランスの揺れが見えるとても不思議な時間です。

私にとって人の死を感じる時は、心電図モニターが0をさしている時でもなくアラーム音が鳴っている時でもなく、霊安室に横たわっている時でもありません。

顔に白い布がかかっている時が1番、身体が亡くなったんだと感じます。

亡くなったことを実感させられる。 生きていれば布をどかすことができるのに、もうそれはできないことを表してるから。どこかで期待しているんです。その白い布を退けて、「ドッキリでした」と言う患者さんの姿を。命がふき返すことを。


ーー
こないだ立て続けに患者さん亡くなった日があった。今月3人もさよならしたよ。
そのうち1人の患者さんは2年くらい看てて、前はポータブルトイレ使ってたんだよ。 血糖測定するとね、 毎回ありがとうって言ってくれる患者さんだった。容態悪くなってからも話しかけると反応がある時があった。CT撮りに行った時、 久しぶりに聞いた声は「きもちわるい」と言ってた。いつ亡くなってもおかしくない状態になってから長く生きたと思う。
霊安室でお別れができてよかった。


霊安室で横たわっている患者さんは苦しさのない安らかな顔。 苦しい時期が長かったからようやくだねと安堵する。 でも白い布を顔にかけた患者さんを見ると、 亡くなった悲しみを強く感じる。頭で理解していることと身体が感じることは違うんだよね。

誰のお葬式でもいいから参列したい。
悼み悲しむ機会を得たい。
でもそういう時間を作れず、日々が続くのが仕事なんだよね。


そのご家族にとって強く印象に残る日でも私たちにとっては日々の継続の中にある。それがまたなんかさみしかったりする。コロナ禍になってから面会がほとんどできなくなった。だからこの2年は、ご家族よりも私たちの方が患者さんのことを知ってる。ご家族の知れなかった患者さんの生活を伝えたかったけど、そんな時間はなかった。つくろうと思えばつくれたのかな…

面会が3週間だけOKな月があって、その時面会対応したんだけど、1年以上直接見てないから変わってしまったことを受け止めるためにすごい覚悟してきたとご家族から聞いた。
そうだよね、空白が長いからこそ悪く考えてしまうこともあるし、ご家族にとっても過酷な期間だったと思う。これからまだ続くだろうけど。

「看護」って数字で測れるわけではないから、やっていることが第三者に伝わらない。科学的根拠に基づいた看護と患者さんやご家族との間で感じることしかものさしがない。
本当に知識も技術も人間性も鍛えられる。
業務中のご家族との会話は余裕がないとできないことだから、余裕を持っていたい。まだまだ私には余裕がないところがあって、逆に言えばまだ伸び代がある。ある程度できるようになった3年目。もっと余裕を持った看護師になれるまで、病棟で働けるといいな。


2023/02/19に書いた文章を編集して載せてます。
私のメモ帳には誰にも見られないで終わっていくだろう言葉がたくさんある。知ってもらおうとたくさん外に出さない所が、私らしさでもあるんだろうな。

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