『運が良いとか悪いとか』(註3)
(今回、註だけで本文ありません)
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(註3)養老孟司さんが人間意識に固有の働
きは脳の連合野にあるのだろうとい
う推理をされている。
養老さんによれば動物にとって視覚
と聴覚は脳でそれぞれ別系統に処理
されて何ら問題のないものだが、人
間では連合野で2つが統合されよう
とする。別々であって構わない時間
意識(聴覚起源)と空間意識(視覚
起源)が脳内で統合されると人間意
識に固有の意味が生じる……という
訳だ。
わたしたちは「音の広がり」(空間
の中で鳴り響く音)というようなこ
とを、特に音楽を聴いたときなどま
ったく自然に考えるが、視覚と統合
されない聴覚はあくまでも二次元的
(奥行きはあまり問題にならず継続
・変化が平面的に受容されている?)
なのかも知れない。
わたしたちとわたしたちの家族同様
なペットとは、音響としてはほとん
ど同じ音楽を聴くが、多分わたした
ちにだけそれが旋律として音楽とし
て理解されるのは(音波という外界
からの直接の刺激でありながら、同
時にこれが何かシンボリックな意味
を持ってしまうのは)、人間が平面
的な音響の持続を立体化しハーモニ
ーその他の音楽操作が可能になる領
域を脳内に成立させている(そこで
なされる三次元的分節化に意味があ
る)からだ、と推理してみることは
極めて面白く興味が尽きない。
またうろ覚えで恐縮だが、哲学者の
アンリ・ベルグソンが純粋持続とい
う概念について語り、音楽をその典
型と認めたのに対して吉本隆明が音
楽はその持続(時間)を空間化して
受け入れるものだと書いているのを
読んでビックリした記憶がわたしに
はある。その通りだろう。
さらに最近のビックリでは、井上章
一さんが佐藤賢一さんとの対談本で、
美人の基準は時代で異なるという話
に関してこんなことを仰っている。
よく、時代でこんなにも基準が違う
ということの証拠にされる引き目鉤
鼻の平安美人などは、二次元表現に
おける当時の無意識のお約束がそう
なっていただけで、本当は日本でも
対面なら、大体同じ時代の西洋で描
かれていたような美人をうつくしい
と感じたのではないか、と言うのだ。
日本でも立体表現なら阿修羅像のよ
うに普遍的な美少年(?)が昔から
表現されたのに、絵だとその時代そ
の時代のお約束の要素が大きく、こ
れに縛られてパターン化の傾向が強
くなる。こういう着眼はわたしにと
って非常に刺戟的だ。
彫刻では最初から自ずと空間把握の
三次元的認識が反映されるので、洋
の東西でリアリティに関しては、そ
れほど大きな開きが出ない。だが絵
画では三次元的リアリズムではなく、
それにはるかに先行する(蓄積され
てきた)二次元的リアリズムがあっ
て、あくまでそれをベースにどれだ
け三次元的認識も生かしていくか……
ということになったのではないだろ
うか?
また、なぜ二次元的認識の蓄積が三
次元的認識のそれに先行するのかと
言えば、動物にとって外界はまず二
次元的に把握されてきたからだ。身
体の皮膚(表皮)で感受する世界の
方が動物にとってより根源的で、や
がて聴覚にまでつながる皮膚感覚は、
平面性と時間経過が主でそこにわず
かに奥行きの感覚(空間性・立体感)
が加わったものだろう。
わたしたちが非常に高度なコミュニ
ケーションを動物同士として行って
いる相方の犬や猫など、高等な哺乳
類でさえ視覚と聴覚の統合はなされ
ていないのであれば、人間が行って
きた統合は、動物としての人間が人
間意識を持って以来(脳の容積が増
して連合野が出来て以降)の試みだ。
連合野がどのように活用されるかは
一様ではなく、或る集団では統合の
度合いが比較的に浅く聴覚経験(時
間意識、平面的外界把握)をベース
に視覚経験(空間意識、立体的外界
把握)が付け足されている程度に見
え、或る集団では逆に統合の度合い
がより深く、度合いの浅い集団と比
べるならあたかも古い聴覚経験の蓄
積を視覚経験が全体として組み込ん
でいるかに見える……と言うように、
それぞれ環境と経験を異にする人間
集団ごとに偏差が生まれて当然だろ
う。
もちろんこれらは、それ以前に或る
集団では聴覚経験の蓄積の度合いが
もともと高く、それゆえ視覚経験が
容易にその組み込みあるいは組み換
えをなし得ないのだとも見られるし、
逆に環境によっては視覚経験の成熟
がより短期に進み、先行する聴覚経
験の蓄積を組み込み、組み換えるこ
とが容易になっている、というよう
にも言えるはずだ。
こういう考えは、洋の東西で絵画の
立体表現が異なっていった経緯につ
いて考える重要なヒントになるかも
知れず、また子供が描く、いわゆる
「顔人間?」の謎にもひょっとする
と迫れるかも知れない。
子供に絵を書かせると、テーブルを
囲んだ複数の人間が全員顔だけ(そ
ろって真上を向いているように見え
る)で表現される図柄が誰にも教え
られずに出現する。これには誰でも
何らかの思い出や不思議な気持ちを
抱いたことがあるのではないだろう
か。わたし自身が幼児期にそういう
絵を描いており、少年期に入って親
からそれを見せられたときの困惑、
というか自分のものでありながら自
分の作とも実感が持てない妙な気分
をハッキリと覚えている。
ああした絵柄は西洋でも中東でもポ
リネシアでもアフリカでも子供たち
が描いているものなのだろうか?
あくまでも漠然とだが、わたしは明
治以降の日本人がとりわけ子供のお
絵描きを歓迎してその結果、もとも
とあった二次元的表現への固着を促
すことになっているのではないかと
思っている。
ともあれこんな風に、このテーマは
幾らでも糸を手繰って行けそうで、
考えを先に進めたくて気ばかりはや
るのだが、やはりここは註なのであ
る。またしても長々しいものになっ
てしまったので、この先は例によっ
て宿題としておく。
ただ、一つだけ肝心な事柄を追加さ
せてもらう。それはわたしの身体と
精神の二元論……身体という母胎の
うちに非身体的な異和(人間意識)
が孕まれる……から、どうしても言
っておきたい事柄だ。
まず、人間意識の働きを脳という身
体部位の生理的な反応に還元してい
くことはどこまでもどこまでも無限
に可能だということ。これは先述の
ように養老さんが新しい知見を導か
れた、その達成を足場にまたその先
にも、さらにまたその先にも永遠に
(そういう追及が許される限り)新
しい知見が導かれ続けるだろう……
ということである。人間意識と深く
関わる身体生理の側面が、だ。
もちろんそれぞれが切り開く人間観
はそれぞれに立派な達成で、その時
代その時代の物質環境や観念の蓄積
度に応じては非常に具体的で大きな
影響をわたしたちに与えるだろう。
けれども、だからといって、そうし
た取り組みの先でついには人間意識
の働きが余すところなく身体生理で
解明される、ということには決して
ならない。
なぜならそれは、生命現象にとって
の異和である人間意識(高等な哺乳
類の意識から明らかに飛躍している
もの)が追求している事柄であり、
身体生理の内に非身体的なものが孕
まれ、それゆえに観念として持続、
蓄積されていくためには絶えず身体
性を取り込んで行かねばならない無
限の営為そのものだからである。
矛盾から出発したものが抱えている
無限(どこまでも先へ進めるが決し
て最終点には行き着かない)の宿命
ということだ。
実は同じことが物質(非生命)と生
命現象との間にも言える。生命はこ
の地球上で物質(非生命)の内に孕
まれた異和であり、生命現象が維持
され蓄積されていく(生命体として
存続しかつ可能なら高度なものにな
っていく)ためには絶えず物質性を
取り込んで行かなければならない。
それがまず個体の身体維持としては、
外界の一部をエネルギー源に取り込
み(食物摂取)代謝を続けることで
あり、この段階の長い反復を踏まえ
て次なる飛躍として、今度は代謝の
ロスそのもの、自らの身体維持の機
能低下を死として取り込むことが可
能になる。それが生殖の起源だろう。
すると非生命の物質世界がまず生命
現象という異和を自らの内に孕み、
生命が非生命(物質性)の取り込み
を続けて蓄積し或る高度な生命体を
生み出したところで、今度は生命現
象自身が自らの内に異和(人間意識)
を孕むに至っている……ということに
なる。しかしそうであるならば、人
間意識は観念世界を高度化させて或
る段階に達したところでは、やはり
自らも異和を孕むのではないか?
人間の意識現象が孕む異和とはなん
だろう? もしも観念世界が自らの
内に異和として物質(非生命)を孕
むとしたらどうだろう? 仮にそう
であるなら、母体が自ら異和を孕ん
で互いに打ち消し打ち消される二元
の世界の三つ(物質=非生命と生命、
生命=身体生理と精神、精神=観念
と物質)は円環する。
円環すれば、最初から当然のように
矛盾を据えて始めるわたしの理屈は、
言ってみればシッポを掴まれなくな
る。それは自分の思いつきが恣意的
ではないと信じているわたしにとっ
ては救いのようなものかも知れない。
が、精神が自らの内に異和として物
質を孕むということを、今のわたし
はなにがしの実感を持って追及する
ことが出来ない。
意識現象にとっての物質は確かに非
意識ではあるが、その物質が意識性
を取り込んで持続、蓄積されて行く
のか? モノ=物質=非生命のそう
したあり様をわたしは思い浮かべる
ことがまるで出来ない。だが物質に
よる意識性の取り込みがなければ、
母胎の内に孕まれた異和とは言えな
い。
では以下に、わたし自身は一通り理
屈が通っていると思うが、居直りの
ように取られるかも知れない記述で、
この長過ぎる註を終える。すなわち
生命現象が物質現象からの飛躍であ
り、どうしても生命の誕生(起源)
そのものを物質から再現できぬよう
に、また人間の意識現象が生命現象
からの飛躍であり、どうしても人間
意識の起源を身体生理からここと突
き止められぬ(ここまでが動物意識
でここからが人間意識だと、その境
目を例えば脳の働きとして示すこと
が出来ぬ)ように、意識現象が物質
という異和を孕むあり様も意識をも
ってこれを思い描くことは出来ない。
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