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配信後記(第7回) 宗教家と詐欺師のボーダーライン

正直に白状すると僕はオカルトも含め、広い意味のスピリチュアリズムが結構好きだ。人が人のために頭を捻っていろいろなシンボルを取り込み、何とかしてこの世界のよくわからない部分を説明しようと躍起になっている、その思考の道筋をたどるのが好きだ。誰かが作った色んな形態の「スピリチュアル」が今の世の中には跋扈している。そしてたぶん、「スピリチュアル」は古い時代からずっとあったことだった。

第6回の放送でも話しているとおり、今や世界宗教の座をほしいままにしているキリスト教だって、元を正せばユダヤ教の一派閥に過ぎなかったわけだ。今だってキリスト教の教えをベースに置いた新興宗教なんて珍しくもない。

仏教だってそうだ。一応仏伝ではゴータマ・シッダールタは様々な宗教の聖人とされる人に教えを請うた結果、「なんかしっくりこねえんだよなあ」と思って自分なりの正解にたどり着いたことになっている。

ゴータマ・シッダールタは王族だったので、ロイヤルな教育を受けていた。その中には当然宗教に関する知識も含まれる。当時のインドでロイヤルな宗教といえば、古くから語り継がれてきたヴェーダを聖典とするバラモン教だった。
これは現代の僕たちが「宗教」と聞いて想像するような精神世界の問題としてだけではなく、かなり肉体的・生活的・社会的な規則として価値を持っていた。ヴェーダの教えに従って人間は格付けされていたし、ヴェーダが後ろ盾になっていたからこそ王族は王族たり得ていた。

宗教儀式は単なる儀礼にとどまらず、人間界に利益をもたらすために用いられる、神との厳密な契約行為だった。

ゴータマ・シッダールタはそれまでのインドで権威扱いされていた種々の宗教を完全に否定したわけではなくて、取り入れられる理論は取り入れ、考えに合わない部分はゴータマ・シッダールタ流に調整を重ねていった。

それは当時としてはまさしく「新興宗教」と呼ばれるにふさわしいものだっただろう。その当時は「六師外道」と後に呼ばれるようになる、仏教以外の新興宗派がインドで勃興したりしている。その「今あるものを取り入れて、新たな体系を生み出す」という性質こそ、新興宗教がその時代の人間に受け入れられる大きな理由なんじゃないかと僕は感じている。

まったく新たな教義を持った体系なんてそうそう作れるものじゃない。宗教が人間存在の規範たらんとして作られる限り、どうしてもその教えの根幹には「モラル」とか「倫理観」が織り込まれることになるし、何が倫理的な行動だと教えれば楽かという基準は時代が変わったってそんなに大きく変化することもない。どうしても似通ってくる。

もちろん社会情勢によって変化する部分もある。たとえば原始仏教において、女性の出家者は男性の出家者に比べてより多くの戒律が課せられたことなどはよく知られているところだろう。もし現代の新興宗教がこれをやったら、正当化するのにかなりアクロバティックな理屈をつける必要が出てくるはずだ。

なにが言いたかったのだっけ。

そう、結局僕は宗教とされるものと、新興宗教とされるものの間に差はほとんどないと考えている。基本的にどんなものでも、信仰を支えているのは「これを守れば何かいいことがもたらされるかもしれない」という期待感だ。その時制が現在であれ未来であれ、そんなに違いはない。

今日をよりよく生きるために信心を持つことと、死んでからの幸福に救いを見出すことに、差はそうあるまいと思う。結局のところ、それを念じることによってもたらされるのは「今生きている自分の満足」なのだから。本当に霊魂が来世に転生するかどうか、あるいは煉獄で天の国の到来を待つかどうか、または徳を積んだことで輪廻の輪から解脱するかどうか……それは別にどうでもいいことだ。確固たる信仰を持った時点で、個人のレベルで特定の宗教に帰依する目的の大半を達している。

信仰の目的は信仰を持つことで、信仰を持たない人間に比べると容易に自分の「軸」なるものをそこに見出すことができる。人間がなんとか社会をやって生きていくために発明されたものの中でも、かなりの力を持っているのが宗教だ。と思う。

話がとっちらかってまとまらないのでいい加減終わらせるが、オカルトだスピリチュアルだと言われる諸体系そのものに悪いものなんてひとつもないのだ。何を生の指針とするかを決める権利は個人にある。問題なのは、そういった諸体系に縋る人間の心を食い物にする拝金主義者たちである。

中田の言葉を借りるなら「救いを求めて」やってきた人間が、剥き出しにしてしまっている弱点を、容赦なく蹂躙していく無慈悲さ。本来、ただ純粋に個人的体験として追求されるべき信仰を、金儲けのツールに貶めているのはそういうものだ。僕はそれらを憎むし、その意味では「スピリチュアルなんてクソ喰らえ」と思っている。

信仰を貶める人間はおおむねそのことに自覚的だ。
それはもう、詐欺師にほかならないだろう。
だからこそ自身の「信仰」は、きっちり自衛していきたいと思うのである。

▼「信仰」


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