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「外国人」の違和感

私は「外国人」という言葉に違和感を覚える。

ある観光スポットでは、外国人だけ入場料を値上げすることが検討されている。ヨーロッパの国では教育のため、地元の人のためという名目で、観光客は高めにお金を払う制度はあるようだ。

でも日本のニュースを見る限り、誰もが納得する明確な理由がなく、外国人には「お前ら、金持ってんでしょ?いいじゃん、そのくらい払ってよ」と、パシリの先輩みたいに思う(個人的感覚)。

私は悲しい。日本を好きな人が、日本語や日本文化の良さに触れたくて訪れたのに、「お前は外国人だから◯倍払え」みたいな取り組みが実現したらガッカリしないだろうか。差別と感じないだろうか。

観光客の中にはルールやマナーを守らず、好き勝手する人もいるみたいだから、そういう制度になってしまうのは仕方ないのかもしれない。

でもどうやって「外国人」と見分けるの?パスポート?そんなの確認してたら受付が混雑しない?そうじゃなくてもどこ行っても並ぶのに。

もうひとつ疑問。見た目は日本人で多言語がペラペラ、パスポートが日本なら日本人?見た目は日本人で、パスポートが外国籍なら「外国人」?それとも明らかに外国人と分かる人だけパスポートチェックするの?

地域がお金を欲しいのも理解できるけど、根拠ある納得のいく理由を用意してほしい。ヨーロッパをマネするなら現地に行って、「外国人」観光客として多くお金を払って、現地の観光地の人たちになぜその取り組みをしているのか、どういう影響と効果があるのかをしっかりリサーチしてから、日本でも導入してほしいと思う。

「外国人」の定義ってなんだろう。

今は外国から来て日本に住む人も多く、他国の人と結婚して血が混ざり合った子も珍しくない。留学する人、英語を話せる日本人もたくさん増えている。ますます、「外国人」の定義が難しいと思う。

日本にも色んな人がいて、色んな考え方がある。他の国の人と接する機会も多いと思う。意思疎通の難しさ、文化の衝突も数え切れないほどある。「外国人はこれやから」と言い切ってしまう人もいる。

でも私は、その人の意見を社会に合わせる必要はないと思うし、差別や偏見は誰の価値観からも無くすことはできないと思う。その考えを人に押し付けたり、他の国から来てる人を侮辱したりしなければ、歩み寄れないのも、知ろうとしないのもいいと思う。それもまた多様性の一部だろう。

私も無意識の差別や偏見があると思うし、他の国の人に差別されることもある。それで分かったのは、人間の気持ちはみんな同じ。

言葉と文化が違うだけで、美味しいご飯を一緒に食べたら「美味しい」と言えるし、差別されたら悲しいし、お花を見ればキレイと思える。真っ赤な血も流れるし、うんこもする。

国で見れば、一括りに「レッテル」を貼ることができるかもしれないけど、人で見れば、「自分と同じ部分がたくさんある」と共感して仲良くなれる。

テレビやメディアの影響で、特定の国や人種を悪者と決めつけないようにしたい。まずは相手を知って、それから自分がどう思うかで何かを決めて行動したい。

そうじゃないと多様性なんて、夢のまた夢になっちゃうよね。

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