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束縛を一切しない旦那さんから「愛情」を学ぶ

旦那さんは束縛を一切しない。

 「警察と救急車と弁護士のお世話にならへんなら、Maiがしたいこと何でもしたらええよ。」

晩ごはんは何でもええよ、くらいの気軽さ。その言葉通り、今まで彼に何かを「アカン」って言われたことがない。自由の範囲が結構広くて、逆にどうしていいのか分からなくなる。

家事に手を抜いても何も言わないし、ゲームを一日中しても「楽しんでてオレも嬉しいよ」と微笑んでくれるし、ご飯作りたくないからオーダーしても冷凍の餃子焼くだけでも、快く食べてくれる。なんでそんなに束縛しないのか聞いてみた。

「人に指図するほどオレは偉くない。自己評価低いから、人に指図したとしたら、オレは何様やねんって思ってしまう。それに、オレも人に束縛されるのは窮屈やし。」

偉かったら指図していいってこともないんやろうけど、彼のこの考えで窮屈な思いをしなくて済むのかもしれない。お互い自立していて、お互いをひとりの人間として見ることができる。

かつての私は、旦那さんが全く束縛しないことで「自分は愛されていないのではないか」と思っていた。束縛されることが愛情の証だと考えていたから。

・元カレは私の携帯を勝手に盗み見て、男友達との関係を制限してきた
・やっていいこと、アカンことも言われて、彼の考えに従っていた。そうすれば、彼は自分を好きでいてくれる

これも暴力の一部だと知ったのは、シェルターに入ってから。束縛を愛情と勘違いして、そこから抜け出せない人も多くいるそう。危うく自分も、継母と同じ道を辿るところだった。

誰かに束縛されてそれに従っても、その人が望む自分しか愛してくれない。
だから愛情がほしい人と支配したい人は、共依存になる。

旦那さんは私を不安にさせるようなことはしないし、言わない。
私も彼を疑ったことは一度もないから、喧嘩も全くしない。
旦那さんとしても、人としても、彼のことが好きで尊敬している。

束縛=愛だと思っていたのは、誰かの「所有物」になることだった。そこにあるのは、不安定な上下関係。所有物になるから、「私」の意見も考えも認めてもらえない。そんな愛情なら、ひとりの方がマシ。

愛情には束縛も条件もない。自分の思う誰かを作りだすものじゃない。「ひとりの人間」として、相手を見ること。それはお互いの関係を良くするだけでなく、ひとりの人間としてもっと良くなろう。そんな気持ちにさせられる。


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