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〈わかる〉、個人的エピステーメ

〈気づく〉も同じことだけれど、〈わかる〉ためには自分の中にあらかじめ何かしらわかるためのベースになる「何か」がなければならない。
この「何か」とは、一般的にいえば(先行する)経験とか知識といったものになるのだろうけど、それには特別な名前を与えるべきだと自分は思う。最近覚えた「エピステーメ」といったことばのような。

「エピステーメ」ということばの辞書的/表面的な意味はずっと前に調べて知ってはいたけど、このたびミシェル・フーコーの入門書(「フーコー」貫成人)を読んで、構造主義におけるエピステーメの意味の意味(?)を納得できた(と感じた)。
エピステーメは、その時代時代における目に見えず人々を制御しているベースとなる「考え方」「感じ方」あるいは「認識方法」、かんたんにいえば「その時代に支配的なものごとの捉え方」のことである。それはその時代の人々にとっての「当たり前」や「普通」であり「疑う余地のない」こと、もっと言えば「取り上げる意味さえない」こと、である。
それは魚にとっての水、われわれにとっての空気のようなものだ。それなくしては生きていられないのだが普段はそれを意識もせず忘れている。というか「理科」を学ばなければ、自分だけで「空気の存在」に気づくこともできないだろう。
ちなみにこういった「エピステーメ」を含む、われわれの目に見えず、意識もできにくい、われわれを支配しているものは「構造」と呼ばれている。それを支持することを構造主義という。

「エピステーメ」の個人版に相当するもの、のことを自分は言っているのかもしれない(もうすでにそれは名付けはされているのかもしれないが。)
自分が「世界」を新しく認識するのは、何もないところから感覚器官が情報/信号をあげてきて、自分がそれを了解して知識が増えた、といった単純な按配ではない。あがってきた情報と、あらかじめ自分の中にあった何かの間に反応が起こり、そこで生じた現象に新たな解釈が成り立ったことをもって、はじめて自分として〈わかる〉のである。
そうでなければ、新しい情報については「ああそうですか」という反応しか返せないし、それを〈わかる〉とは言えないだろう。
〈わかる〉ということは、入ってきた情報と既存の何か、例えば仮に「個人的エピステーメ」といったものが結びつくプロセスが必要なのである。


千葉雅哉という若い哲学者(44歳)の書いた「現代思想入門」が売れているようでパラパラと読んでいる。構造主義/ポスト構造主義あたりの解説だが、その内容を追うと、どうも上に書いた「個人的エピステーメ」において自分とシンクロせず、自分には〈わかる〉感じがやってこない。たぶん千葉氏と自分の「個人的エピステーメ」がちがっているのだろう。でも今の若い人には好感するのかもしれない。これはどうにもしかたのないことだ。
(それとは関係ないかもしれないが、氏のSNS的語り口/文体に違和感を感じるし、講談社現代新書(?)の文字組とフォント選択がどうも嫌いだ。)

貫成人氏は1956年生まれで、自分と年齢的に近いことは、このことに緩やかには関連しているのだろうか。
(本当は年齢ではなく、若い人の書いたものでも、シンクロすることはある、ということは銘記すべきだろう。)

また、構造主義について自分がはじめによく理解できた本は、10年以上前に読んだ「寝ながら学べる構造主義」(内田樹)だが、今開いてみると、その本のフーコーの解説あたりにはたくさん線が引いてある。その部分の読んでみると「今として」言わんとしていることはとてもよくわかるのだが、自分が10年前に線を引いて「わかったこと」をもう自分は憶えていない。それは今の基準からすれば、何もわかっていなかった、ということになるのかもしれない。いったい自分は何をわかった気になっていたのだろう。
ということは「個人的エピステーメ」は、10年も経たずにころっと変わっていく、ということであるし、〈わかる〉という感じは、きわめて鮮度や旬が問われるものなのだろう。

それを思えば、他の誰かの考えや発言も、あだやおろそかには扱えないなと思う。

220904

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