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■感覚と思考:判断

〈思考〉と〈感覚〉という〈判断〉のための二つの働きについて。

「〈思考〉:考えること」と「〈感覚〉:感じること→感覚でものごとを捕らえること」という二つの心の作用がある。もちろんこれらを完全に分離することはできない。それらは渾然一体となって「心」として働いている。心とはそういうものだ。

でもここでは、心の作用を説明するために二つを際だたせて考えてみたい。

直観主義

自分が何かを思考するうえで、嵌まるまいと気をつけていることに「直観主義」がある。

いろいろなことについて、感覚的に判断すること。感覚的にくだしてよしとすること。

やっていいことや悪いこと、たとえば「約束は守るべき」「年長者を大切にせよ」「自分が嫌なことを人にするな」などの倫理的規範は、いちいち説明しなくても了解されるのが普通で、そのリストを作ればそれだけでOK、という立場を「直観主義」とよぶ。(貫成人)

つまり、よく飲み屋のトイレなどに貼ってある「頑固親父の十箇条」のようなものだ。

「直観」は哲学としてある程度正確に使われる言葉遣いだが、一般には「直感」と書かれる。直観(本質直観)はフッサール現象学やカントでは最終的な「正しい判断」を導くとされているが、ちがいはあるのだろうけど、個人的には直感とのちがいはあまりよくわかっていない。

どちらも感覚的にものごとの真理を掴む(掴める)ということである。

直感(ここではあえてそう書く)は、大切なものだが、あまり信用しすぎてはならない。直感がそういっている、ということを理由にその判断を正しいと断ずるのは、もってのほかだと自分は思う。が、そういう人はけっこう多い。

〈思考〉と〈感覚〉

自分としては、〈思考〉するときは、直感のいうことを鵜呑みにしないようにできるだけしたい。もちろん案外むずかしいことではあるのだけど。

医師が患者の主訴を聞くような態度で直感の報告を冷静に聞きたい。耳に心地よい、いかにも正しそうな直感的な確信を直ちに事実とはせず、言い分は言い分として聞こう。

〈思考〉のすべきことは、直感あるいは〈感覚〉の訴えの真偽をはかり、それをこえて事実を見極めようとすることであり、それが〈思考〉の一番重要な役割とさえいってもいい。

しかし自分は、〈思考〉を〈感覚〉より絶対的に優位に置こうとも考えない。〈思考〉も〈感覚〉も「自分」の一部だ。

最終的な〈判断〉は、つねに〈思考〉ではなく〈感覚〉が行っているのではないか、自分はそう思う。〈思考〉ができるのはただ、証拠と事実関係の合理的な解釈を列挙することである。

こう考えればAの犯行である確率が高いが、見えていない事実や低い確率ではBの犯行の可能性はある、またCはこれこれ...、というところまでしか、思考がすることはできない。

わたしたちはいついかなるときでも、すべての事実や合理的なロジックがわかっているわけではなく、合理的に思考すれば、思考自らが「完全な判断」をすることはできない、と思うのだがどうだろう?

そういう可能性のパンダ(白黒付けた何か)をあるだけすべて並べたうえで、「これ」と指させるのはただ〈感覚〉だけである。

〈判断〉

極論すれば、〈思考〉のなかに〈判断〉はない。〈思考〉は自らの働きに忠実になればなるほど「断ずる」ということができない。

〈思考〉の働きとは、事実を合理的にスムーズに繋げることであり、論理的飛躍/断続的ジャンプの回避こそが〈思考〉の本質的な役割である。

そのうえで「断ずる」ことが〈感覚〉の役割である。そういう役割分担として〈思考〉と〈感覚〉を考えられるのではないか。

実際の人の行動においては、どこかで「判断」をしないことには、何もはじまらない。だから〈感覚〉の役割はとても大きいと思う。

さてこういう心のはたらきのなかで、デザインとはどう位置づけられる行為なのだろうか。

デザイン

デザイン行為は、(結果的には)対象となる問題領域の性質から規定できるのかもしれない。

どんな問題領域か。

扱う事実が、多すぎるのにそれぞれは茫漠としており、結果として合理的につなぎ合わせようとする事実が足りない。また繋ぎあわせるロジックも堅固なものとして確立していない、〈思考〉だけではなかなか解決が付かない、そんな領域だ。それは複雑系の一つといってもいい。

そしてデザインの最終的に何かを「作る」というミッションは、何かをたんに「知る」とはちがう、実質的でアドホックな切迫した側面もある。とにかくいったんは何かを「作り出さねば」行為としてはゼロである。

AIとデザイン

これはいずれ書くつもりの内容だが、こういう領域は、まさにいまAIが対象としている領域、とはいえないか。

AIにデザインできるか/AIに創造性はあるか、というのは定番の話題だが、自分の結論は、AIにはデザインすることができるし、「創造性」の語の意味はやや曖昧であるにしても、AIは創造的である、といってよいと思う。

よりセンセーショナルな言い方をさせてもらえば、「AIがしようとしていることはデザインそのもの」である。

「AIはデザインする、が、AIにアートはできない」(タイトル予告)

話しをもどす。

デザインについてしいていえば、〈感覚〉を〈思考〉より上位に置くべき領域といえるかもしれない。最終判断が〈感覚〉である以上、それを注意深く研ぎ澄まさねば、ものを生み出すことができないから。

しかし、合理的な〈思考〉はつねに大切にしなければならない。論理的なまちがいは、まちがいである。論理性を欠いては効率も悪いかろう。

〈思考〉の「正しさ」を〈感覚〉が裁いてはならない。〈思考〉の正しさは〈思考〉が検証するしかない。そこに〈感覚〉を持ち込んではならない。〈感覚〉は〈思考〉の示す事柄を最大限尊重すべきだ。 そして、だからこそ〈感覚〉を磨こう。

(どっちつかずの歯切れの悪い結論で申し訳ない。)

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