夢やぶれても、人生は、その先のほうが長いのです。
ちょっとなんというか、今日の文章は、読まれたいような、読まれたくないような、微妙なところだ。微妙な文章は書かないほうがいい、心の底なんて吐露しないほうがいい、そんな時代だってことはだいたいわかってる。わかってるのだけれど、なんだろう、えいやと書き始めてしまおうぜと自分が耳元でささやくのだ。そうだ、私はあまりにも、自分の心の底について、見て見ぬふりをしてきてしまった。向き合おう。大いに噴出させよう。知りたくもないあなた、去るなら今です。今ですよ。
このところずっと、「このために生きている!」を探している。私がいるべき場所はここであり、私が果たすべき使命はこれなのだと、心の底から信じきることができる場所を、方法を、ずっとずっと探している。
そんなふうに必死で手を伸ばして、ほんの、中指の爪の先っちょぐらいがなんとなく届いた記憶が、かつて、あった気がする。高校生の頃から大好きだった演劇の、作り手や演じ手の皆さんにインタビューしてそれを書く仕事。10年以上それを続けたけれど、ある時期からぱったりと仕事が来なくなり、自分がそこにいるべきではないことは、各方面からの扱われ方からはっきりとわかるようになり、最終的には、自らそこから立ち去るしかなかった。
それからの私は、「それ以降の生き方は間違っていない」を表明することに必死だった。「だった」というか、現在進行系だ。「これからは有名人ではなく市井の人々にインタビューします」を標榜し、それもうまく回らないとなったら、派遣社員として働き始めた仕事場の素敵さを血眼で見つけてツイートしている。
もちろん、それらは素敵なんである。これまで経た2つの会社で、素敵な上司と素敵な先輩に、奇跡的に恵まれている。嘘ではない。嘘ではないのだ。
その一方で、かつてのように、劇場の客席に座ることができなくなっている。コロナ禍のせいだけでは全くない。好きな俳優さんや芸人さんの密着ドキュメンタリーやメイキングを、正視できなくもなっている。なぜか。答えは簡単である。
あの場所に帰りたい、なんて思ってしまったらおしまいだからだ。
たとえば、公演パンフのインタビューを任されたとき。稽古場に毎日身を置いて、日々、なにが起きているかを身体で感じ、それをふまえて作家や俳優陣に質問をぶつける。時間ごとに、とっかえひっかえ、私のいる場所に作家や俳優陣が現れる。やがてそのスペースが「志津子の部屋」なんて呼ばれるようになる。るーるる、るるる、るーるる。徹子のテーマ曲を歌いながら、私たちは対話を始める。
それぞれの人たちが、仲間には簡単に明かさない、ほんとうの気持ちを明かしてくれたりする。それは不安だったり、あるいは希望だったりする。それを踏まえて稽古場での芝居を観ると、なんというか、彼らに「並走」しているような錯覚をおぼえる。思い悩み、もがき、光を浴びる彼らに「並走」することにこそ自分の居場所はあるのだと、錯覚、そう、錯覚してしまった日々。
あれは「錯覚」だったのだと、深く知るところから私の人生の再構築は始まった。
でも、今だから言う。私は、やっぱり「並走」がしたかった。誰かの葛藤に寄り添いたかった。葛藤しながらも、意を決して舞台にあがる、あのひとたちに寄り添いたかった。あの頃から今に至るまで、ずっと同じ場所で「並走」し続けている人たちがたくさん、たっっくさんいる。なぜ彼らにそれが許されて、私にそれが許されないのか。どれだけ私が使えなかったのか、どれだけ私は下手をこいてしまったのか。それを思うと私は、深い深い洞穴にもぐってもぐって埋まりたくなる。
埋まってばかりもいられないので、私は、次の仕事に就いた。
そんな今でも、自分の中に、「かつて演劇ライターだった私」が根深く居座っていることに気付かされることがある。いつかあの人たちに再会できるんじゃないか、再会できたらどんな言葉をかけようかと、無意識のうちに思いを巡らせている自分がいる。優れた作品を観るたびに、「私ならどんなアプローチをするか」を脳みそは勝手に考えてしまう。って、さすがに今はそのようなことは少なくなったけれど、それでも、完全には切り離せない。「かつて演劇ライターだった私」を、私の人生から完全に切り離すことが、今も、なかなか、できないでいる。
みっともないなあと思う。はっきりと私の力不足によって、はっきりと拒まれたあの世界での思い出を、まだずるずると胸に抱きながら生きている。先ごろ終了した『半沢直樹』なんか、かつて希望や葛藤を聞かせてくれた人たちがもりもり出てきてどぎまぎした。あの日々のことを、私はまるで昨日のように思い出す。けれど彼らにとっては遠い昔だ。私は47年も生きているのに、「時間」との付き合い方が、まだ、うまくいかない。
若者諸君よ。周りの大人たちは、「夢を持て」「人生の目標を作れ」「やりたいことを見つけろ」と口うるさいだろう。もちろん、それらを持つことは素晴らしい。素晴らしいけれど、いいですか、その夢が破れてしまってからも、人生は、音もなく続いていくのです。なんなら、その後の人生のほうが、ずっとずっと長いのです。「夢を持つ」「人生の目標を作る」「やりたいことを見つける」とやらをゴールに据える今の風潮に、私は大いに異を唱えたい。
夢が破れたからといって、人生、そこで終わりはしない。必要なのは、どんな「今」が襲ってきたって、その「今」を愛し熱中できる力のほうだ。どんな物事にも敬意を払い、そのリスペクトを根っこに抱いて、次の人生を歩いていける力のほうだ。
人生は、終わらない。今の私は、次に自分がどんな星を見据えるのか、まるで見当もつかない。あるかもしれない、ないかもしれない。欽ちゃんの仮装大賞かもしれない、鳥人間コンテストかもしれない。いずれにしろ私が、私の人生はこれだと思えたら、私は私に盛大な拍手をおくろうと思うのだ。(2020/11/03)
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