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47歳、「勉強」について考える

若い頃。「なんで勉強しないといけないの?」って、いつか子どもに聞かれたら、こう答えようと決めていた。

「これから先、どんな人を好きになるか、何になりたくなるか、わからないからだよ」

今はまだ、誰のことも好きじゃないし、何かになりたいわけでもないかもしれない。でも例えば5年後に、数学者と恋に落ちるかもしれない。10年後、猛烈に、旅に出たくなるかもしれない。ちょっと数学を知っておいたほうが話ははずむし、世界の国々を知っておいたほうが、知らない街へ飛び出す勇気が湧く。

あなたの人生、何が起こるかわからないから、勉強をするのです。

……こんな答えで子どもが納得するのかどうかは知らない。でも「新しく何かになる」可能性は子どもたちに広く開放されていて、年月が経つごとにぐんぐん減っていくことは事実だ。……いや、「あきらめなければいくつになっても!」的な物言いはここでは無しね。そういう精神論の話をしているのではないのだ。

自分が何になるのかわからなかった頃は、いろんなことに好奇心が湧いた。映画、演劇、音楽、「これ好き!」って思うものをむさぼった。だって何になれるかわからないから。目の前のこれに、何らかの形で、かかわる大人になるのかもしれないから。

実際に大人になって、「文章を書く」ことが自分の生業になってからは、いい文章を知るために読書をした。映画や演劇に触れるときは、SNSに何て書こうかばっかり考えてた。感受性を豊かにするために、ちょっとのことに全力で反応して、笑ったり泣いたりした。

うっかり、ほんとうにうっかり、自分は「表現者」のはしくれなのだと思っていたのだ。

全然そうじゃなかった。そう思い知ってからは、それらの行為が「しなくてもいいこと」になった。時間や情緒を、文章を書くために使わなくてもよくなった。代わりに、「派遣先での業務を覚えること」が、私のタスクになった。それ以外の時間が、突然、自由になった。

夢を失った悲しみと、うまくつきあってくために「マインドフルネス」を学び始めた。「過去のあなたは、今のあなたではない」「過去の悲しみは、映画の中のワンシーンにすぎない」「その証拠に、今この瞬間、あなたには何も起きていない」。それらの言葉に、随分救われた。

私は、何者かになるかもしれない将来のために身を削るのではなく、今この瞬間のために、生きていいのだ。

いま私は「勉強をする理由」について、長年信じてきたものを撤回しようと思っている。勉強が「何かになるため」にあるのならば、「何かになる」「何かを目指す」的なステージにいない人間は、何も勉強しなくていいことになる。

違うよ。勉強って、将来の自分のための備えではなく、今この瞬間の自分を豊かにするためにあるんだよ。打ちひしがれすぎて自分では立ち上がれないときに、今まで知らなかった「立ち上がる方法」を知ることは、とても豊かで心強いものだよ。

今日も私は、今この瞬間の、私のために時間を使う。(2021/08/12)

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