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仕事中の雑念たちを記録するという試み

「なにか、考えごとしてるからじゃないですか?」

 データ入力業務のタイムがなかなか縮まらず、しかもとてもくたびれるのだと申告したら、職場の若い先輩にそう言われた。

 考えごと……してる。してるわ。

 私の脳みそは、ほっとくと雑念だらけだ。この職場にやってきて2年半。手が勝手に動くようになってきて、脳みそに隙間ができると、その隙間があることないこと、考えている。あっ、イカンイカン、と思って意識を仕事に引き戻すけれど、しばらく経つとまた思考している。そんな綱引きの繰り返しだ。

 週末が終わって月曜日、なにに気が重いかと言えば、今日からまたその綱引きを繰り返さなくちゃいけないことだ。綱引きしんどい。脳みそを、もっとのびのびさせてたい。突然思い出すことや、突然湧き上がる感情を、「あっイカンイカン」とかき消すことは、遠くのほうで「自己否定」とつながってる気がしなくもないのだ。

 こうやってかき消されちゃう思いが、世界中にどれくらいあるんだろう。もったいないなあ。浮かんだのがたまたま仕事中だったからって、全部「なかったこと」にしちゃうのはすごーくもったいない。とりたてて大いに笑えるわけでも、泣けるわけでもないけれど、そうね、せめて自分のくらいは、書きとめておこうかなと思ったのだ。

◆ ◆ ◆

 時計がある一定の時刻を示すと、フロアじゅうから一斉に音がし始める。キーボードをカタカタ。マウスをカチカチ。なんの号令もかかってないのに、みんな自発的に働き始めるのえらい。決まった時間に起きて、暑かったり寒かったりする外に出て、満員電車に揉まれて、決まった時間にきっちり席につくの超えらい。誰かもっともっとほめてくれていい。

 架電チームも始動する。「お忙しいところ恐れ入ります、わたくし○○○と申します、△△△の確認でお電話をしました……ええ、△△△です……いえ、△△△です……御社でいまお使いの、△△△の確認ですぅ!」。いやはや、日本語ってこんなに通じないものなのか。

 ここに来る前に派遣された職場は、保険会社のコールセンターだった。その中でひとり、いろんな意味で頭抜けた先輩がいた。電話に相手が出た瞬間、彼は言うのだ。

「大変申し訳ございません! わたくし、○○保険の□□と申します。大変申し訳ないのですが、◇◇様、いらっしゃいますでしょうか! 大変申し訳ございません!」

 少しの静寂。呼び出した相手が出る。

「大変申し訳ございません◇◇様、○○保険の□□でございます。お時間を取らせてしまって大変申し訳ございません……」

 よどみなく続くトーク。いやー先輩、今日も絶好調だなあ! 新入りの私は勇気づけられたものだ。あの先輩どうしてるかな。今日も四方八方に、謝りたおしておられるかしら。

 それにしてもだ。手書きの文字を解読するのが、こんなに大変な仕事だとは思わなかった。日本全国に散らばっている営業さんたちから、寄せ集まってくる手書きの書類を、解読してシステムに入力するのが私たちの仕事なのだけれど、読みやすい文字と読みにくい文字の差がえげつないのだ。「7」だか「9」だかわからない。「2」だか「Z」だかわからない。「M」だか「H」だかわからない。ああわからない。

 別に美文字じゃなくて全然いいのだ。字が汚いなら汚いなりに、「伝えよう」としてくれんか。これを解読せねばならん人間がおるのだということに、5ミリでいいから思い至ってくれんか。頼むからあ。

 書類の書き方について、同じミスを繰り返す人も大勢いる。その人はいつも同じミスをして、その上にまた、同じミスを重ねる。こちらはもう、その人の書類を受け取った時点で、いつもの欄を見る癖がついている。ほらやっぱり間違ってる。営業さんに確認を取らねばならない。

 彼らのメンタリティは、実に不思議だ。私たちは、1文字のミスが大損害につながるからと、チェックにチェックを重ねて、小さなミスを過分に恐れながらこの席に座っている。でも彼らは、ミスが怖くないのだ。なぜ? 誰かが気づいてくれるから。誰かが気づいて、指摘してくれるから。指摘されたら、直せばいいのだ。……って、ラクだろうな、そういう生き方。彼らの世界は、きっと明るいだろう。毎日、足取りも軽いだろう。だって、ミスが怖くないから。

 文字のことだけでなく、言葉もまったく通じない人がいることを、私はここの業務で知った。これまで私の周りにいて、一を聞いて十を知ってくれた友人たちが、どれだけ稀有な、限られた存在だったかを日々思い知っている。ちょっと笑ってほしくて口にした言葉が、深刻な愚痴みたく相手に届いて、まじめに励まされてしまうなんてことがしょっちゅう。とっさにうまいツッコミなんて思いつくたちではないから、まじめに聞いたふりをして、まじめに席に戻る。ちょっとシュンとする。

 今は「ちょっと笑ってもらいたい」なんて、そもそも思わなくなってきた。私の言うことに笑ってもらいたいだなんて、そんな随分と大それたことを。

 あー今日の晩ごはんどうしようかな。仕事帰りの晩ごはんが、最近変革期を迎えている。実家の母から電子レンジ用の鍋をもらい受けたのだ。切った野菜と肉とお出汁を入れてレンチンすれば、10分後にはあつあつのお鍋が出来上がっているという寸法。

 けれど会社から帰ってきたときって、その鍋にほうり込む食材を、冷蔵庫から出したり切ったりがもうだいぶめんどくさい。玄関を入ったら目の前がキッチンなのだけど、かばん背負ったまま手を洗って、そのままの流れですべてを済ませてしまいたい。着替えてリビングへ座り込む頃には、「あとは食べるだけ」がいい。その日のミッションをとっとと終えてしまいたいのだ。一刻も早く「あとは寝るだけ」になりたい。

 「あとは寝るだけ」状態になってベッドにもぐり込み、アマゾンのタブレットを手に、ユーチューブで旅動画を物色したり、キンドルで積ん読状態の本たちをめくったりするのが至福の時間だ。なにも起こらない。誰も怒らない。ああ韻を踏んでしまった。ちょっと恥ずかしい。

◆ ◆ ◆

 私が働いている職場では、それぞれの事情で辞めていく人たちが最後の勤務日に、みんなの前でちょっとしたあいさつをするのが定例となっている。去年、おそらく定年で去っていった、あまり行き来のなかったベテラン社員さんが言った。

「人のためにならない仕事なんて、ないです」

 人のためになる仕事と、ならない仕事。採用試験とかで、語られまくってるワードだろう。いま私が取り組んでいる仕事は、どんな人の「ため」になっているのかを考える。

「どんな仕事も、なくなったら、困る方が必ずいます」

 ええそうですよね。そうなんですけど。でもね、それは必ずしも、私でなくても、いいでしょう……?

 フロアを見渡す。当然だけれど、みんな仕事をしている。私がしている入力業務は、いま、別の部署にいるスタッフさんにも伝授され始めている。誰かがいなくなっても、さしつかえがないように。代わりがきくように。

 自分でなくても代わりがきく仕事に、みんな、まじめに取り組んでいる。

 そのことが、途方もなく尊いことに思えてくる。自分がいなくても回っていく世界で、自分がいなくてもさしつかえがない仕事をする。「あなたがいなくても大丈夫だよ」と日々示されながら、そのことへの悲しみなんて1ミリも見せずに働く。今日も、明日も。

 すごいことだ。これは、すごいことだよ。

 かつて私は、恥ずかしながら、唯一無二の何者かになりたかったことがある。私にしか見えない視点、私にしか聞けない質問。唯一無二の作家や俳優に向けてそれらを放ち、返ってくるものを受け取る。それが自分の一生の仕事なのだと、無邪気に信じていた頃があった。

 その頃のきわめて具体的な場面が、この入力業務の隙間に突然思い出される。あまりの鮮明さに「ひゃあ!」って息を呑んだりする。そう、息を呑む。恥ずかしくて。いまの私は、当時の自分の一挙手一投足が恥ずかしい。

 あの頃私は、いっぱしの何者かになれたような気がしていた。いっぱしの何者かが、いっぱしのどなたかに向き合い、いっぱしの質問をして、いっぱしの答えを受け取る。そんないっぱしのサイクルが、私を介して、ずっとめぐってくれるのだと思っていた。

 だから、生意気な口をいっぱいきいた。なにも知らないふりしてみたり、わざと親しげにしてみたり。あれはなれなれしかったなあ。何サマのつもりやねん。昨日も今日も入力業務をしながら、自分に毒づく。毒づく。毒づく。

 それでいて、当時が懐かしかったりもするのである。あそこから遠く離れて、いまここにいることに、途方も無い不安を感じたりもする。ああ、こんなに遠くまで来てしまった。もう戻れない。戻れなすぎて、びっくりする。

 あとには戻れないのだから、ここに馴染まないといけない。

 だからここに来てすぐの頃は、必要以上に、同僚との距離を詰めねばならないと思っていた。この場所で気の合う誰かをみつけて、私という人間をわかってもらって、ここにいていいのだという許可を得なければならない。力んでいた。随分、力んでいたと思う。

 けれど驚くことに、ここにいる誰もが、そういう関係性を望んでいないのだ。

 もちろん、みんな楽しく働いている。笑い合ったり、愚痴り合ったり、いろんなことを「合って」いる。けれど終業のベルが鳴った瞬間、みんなザッと立ち上がり、あっという間に散り散りになる。ひとりひとりがそれぞれの帰路に、ただまっしぐらに突き進んでいく。

 冒頭の先輩にも、職場での身の置き方を学んだ。彼女は、業務上のあれこれについては、とても熱心に言葉を重ねてくれる。けれどそれ以外のこととなると、急激にそっけなくなる。嫌われてるのかな、って気に病んだこともある。けれど、そうか。ここでは、これが「正解」なんだ。仕事場では、仕事だけをする。それが、ここでのやり方。

◆ ◆ ◆

 当初はそのことに戸惑ったけれど、2年半も経つと慣れてくる。というかむしろ、ラクだなあと思う。相手になにかを望んだり、期待したりすることなく、時間が来たら働きはじめ、時間が来たら働き終えて、時間通りの電車に乗る。この日々は、とても安らかだ。

 そう、安らかな毎日。心が揺れず、乱れない日々。かつて私は、情緒で仕事をしていた。思いが通じて喜んだり、思いが届かなくて地団駄を踏んだり。気が立って眠れなかったり、その結果すっきり起きられなかったり。だから自分は「朝に弱い」人間なのだとずっと思い込んでいた。でも、違った。安らかな気持ちで1日を終え、ちゃんと寝て、ちゃんと起きれば、私は午前中も働ける。ということがわかった。うれしかった。自分の可能性が、ぐんと広がったみたいで。

 だからこの日々を生きていく以上、私は、情緒に翻弄されてはいけない。心乱れないように、そーっと、そーーっと生きる。心乱れそうな場所は、なるべく避けて通る。映画を映画館で観なくなった。演劇を劇場で観なくなった。あの頃、手の届きそうなところにあったけれど、結局、手の届かなかったものたちだ。それらに触れて、やっぱり好きだ!なんて再確認してしまったら、それはもう一巻の終わりなのである。

 ただひとつだけ、困っていることがあって、それは「あの頃つながっていた人たちに会えない」ことである。演劇や映画のインタビューライターとして出会ったけれど、演劇や映画のインタビューライターであることを超えて向き合えた(とこっちは思っている)大切な人たちに、もう再会がかなわないことである。いや、ただ会えばいいだけかもしれないけれど、でも、いまの私はその資格を失っているようにも思う。

 ただでさえ、キラキラが過剰な世界だ。いまの私がそのキラキラに触れてしまったら、私の情緒はぐるんぐるんになるだろう。作品自体が持つキラキラを超えて、私はきっと思い至る。「自分はあの場所を愛していた」と。

 愛していた場所を離れたことが、「悲しい」に直結してしまうであろうことは想像に難くない。

 最近、そのキラキラの渦中にいる人から、キラキラの現場への誘いを受けた。ちょっと迷って、断りの返事をした。返事をしてしまってから、「悲しい」が発動しそうなのを懸命にこらえた。で、必死で考えた。いま、この日々を、「悲しい」に直結させない方法を。

 それが、この文章を書くことだったのだ。

 これを書こうと思ってから、仕事中の雑念が害悪ではなく「ネタ」になった。自分の人生に関する悲観や葛藤も「ネタ」になった。なにかが思い浮かぶたび、自分を責めるのではなく、メモを取った。そうか、思考は消し去るべきものではなく、「ネタ」なのだ。

 おそらくいまこの瞬間も、隣の部屋で、地球の裏側で、打ち消されている思考がごまんとあるだろう。それらが急に愛しくなった。拾い集めて抱きしめたいとさえ思った。その方法はまるでわからないけれど。

 外はすでに日が暮れている。書き始めてからここまで夢中だったことに驚く。私の手の中に「書く」があってよかった。喜びも悲しみも資源なのだと、思い出せてよかった。さあ、ごはんにしよう。例のレンジ鍋で、今日は白菜と豚バラと豆腐を煮込もうと思う。(2023/03/18)

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