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「怒り」はどこへどうしたものか。

もやもや、むかむかしたときは、何らかの手仕事をすることにしている。

技術や厳密さを要するものであってはいけない。なんなら、目をつぶっていてもできる手仕事に限る。先日の私は餃子を作った。材料を刻んでボールに入れる。ぐっちゃ、ぐっちゃと練り上げる。包むときは、ひだをつけない。ひだには技術がいるからね。水を塗って、押しつけて。小麦粉さんのお力で、おんみずから、くっついていただく。

むかつくものからは、自分を遠ざけなさい。いつも、にこにこしていらっしゃい。そんな教えを受けたことが、かつて、幾度か、あったような気がする。うんうん、たしかに、そうだよね。だって怒ると、疲れるもの。まわりの人への態度も、ギスギスしちゃうしさ。いいことないよね。そうだよね。

……そう自分に言い聞かせながら、でもどこかに、釈然としない気持ちがあったのだ。

今。このご時世、SNSを開けば、誰かが何かに怒っている。布マスク2枚。補償はしません。最悪の結果になっても責任は取りません。たしかに、誰でも怒らざるを得ないようなあれこれを、えらい人たちがマシンガンのように連射している。案の定、あんな人やこんな人がそれに呼応して、あらゆるボキャブラリーを駆使しては、それらに反旗を翻している。

こういうときだ。私が2つに引き裂かれるのは。

「怒りは無意味な感情だ」「怒りから遠ざかって生きなさい」「眉間にシワを寄せちゃ駄目」「いつも自分を上機嫌に!」。それが私が受けてきた教育だ。そうだよね。そうなんですよ。自分の幸せだけを考えて生きるならば、それが一番得策なんです。

でもね。それは、「自分だけの幸せ」なんですよ。

世界中の人間が、「自分だけの幸せ」を追い求めて生きていたら。自分さえ機嫌よくいられれば、それでいいと思って生きていたら。……どんな世界になると思います?

誰も、自分以外の誰かの痛みを、悩みを、思いやることをしない。誰かをいたわったり、励ましたりもしない。だって、自分さえ幸せであればいいから。たとえ「いたわったり、励ましたり」が生まれたとしても、それは、その人自身の快楽と、自己満足のための自慰行為だ。「喜んでくれたときの笑顔が好きぃ♪」ってなもんである。

なんて恐ろしい世界だろう。みんなが、自分の幸せのみを優先して生きる世界。

誰かの痛みを、自分の痛みとして感じるから「怒り」は起きる。「怒り」は、人と人の連なりの痕跡だ。

だからって、常に喧嘩腰で生きることほど、芸のない行為はないなとも思う。湧き上がった怒りを、何の工夫もなくぶちまけたところで、そこに残るのは吐瀉物でしかない。

だったら。

私は、面白く怒りたい。目にした人が、パッと見はクスッと笑ってしまって、でもだんだん不条理が腑に落ちてくるような、そんな怒り方をしていたい。

とんでもなく難易度高いけど。往年の竹中直人みたいに、笑いながら、怒りたいのだ。(2020/04/10)

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